WINDOW RESEARCH INSTITUTE

JP | EN

連載 藤森照信の「百窓」

藤森照信|第十二回 旧小西本家離れ座敷の〈色ガラス戸〉
室内を妖しい色で染め上げる

藤森照信(建築史家・建築家)

05 Aug 2026

Keywords
Architecture
Essays
History
Japan

古今東西の建築を見て回った建築史家の藤森照信氏が、日本全国の歴史的建築から、よりすぐりの魅力をもった「窓」を1件ずつ紹介するシリーズ企画。12回目に取り上げるのは、愛媛県宇和島市の津島町岩松にある旧小西本家離れ座敷の色ガラス戸です。重要伝統的建造物群保存地区の中に位置する明治期に建てられた建物のガラス戸には、鮮やかな赤、青、緑、黄の4色の色ガラスが嵌められています。それは和風の伝統的な住空間を、近代の新たな光で照らす装置となりました。

 

21世紀の建築はガラスの時代といって構わないが、しかし、普通の建築にガラスが使われるようになったのは、長い長い建築の歴史の中ではそう昔のことではなく、ヨーロッパでは18世紀に入ってから、日本の場合は100年遅れ、1868年(明治元年)、明治の新政府による西洋化、近代化がスタートしてからになる。

しかし、建築用板ガラスの製造は、今では考えられないほど難しかったようで、三菱グループによる国産化の成功は1909年(明治42年)を待たなければならない。

それまでの41年間、日本は大量の建築用板ガラスをヨーロッパから買い続けるが、それが建築のどこにどう使われていたのかについて、私は近年まで関心がなかった。明治政府が文明開化政策として推進した小学校をはじめ、病院や郵便局や官公庁の建築は洋館としてつくられているから、その窓に嵌められていたとして済ませてきた。

  • 南西側から見た全景。右側に米蔵が接して建つ。

小学校や病院は、各地の大工棟梁により、見よう見真似でつくられたことから「擬洋風建築」と呼ばれ、文明開化の象徴として知られる。明治初期の女子学生が、伝統の和服に男のはく袴を着け、洋風のブーツを履き、こうもり傘を手に歩いた文明開化の現象と似て、洋風っぽい表現を伝統の技法を使って仕上げた、和とも洋ともつかない擬洋風は、その怪しさと妖しさを含め、一度味わうと忘れがたい質を持つ。

しかし、明治10年前後にピークを迎える擬洋風をはじめ、それ以後のちゃんとした建築家の手がけるちゃんとした洋式建築も、時代のイメージのリーダーとして目立つものの、つくられる数はごく少なかった。その周囲に建つ圧倒的多数の普通の建築は、伝統の和館としてつくられ続けていたが、そうした明治以後の伝統的建築について、私は建築史家として注意を払ってこなかった。

注意を払うようになったのは近年になってからで、伝統的なままのように見える伝統的木造建築が、最初に受け容れた近代的つくりは何だったのか、と問うようになる。その答えがガラス戸で、前回、ガラス戸の代表として明治20年代の、神代小路の〈旧鍋島家住宅〉を取り上げたのだった。

全国にガラス戸の嵌まった伝統的木造建築は大量に残されているが、ひとつだけ異質なガラス戸を使った例を思い出したので、ここに紹介したい。

四国は宇和島の「色ガラスの家」である。宇和島といっても江戸時代の宇和島藩の城下町ではなく、そこから南に一山越えた岩松の町並みの中心部にその家はある。

初めて訪れたのは20年ほど前になろうか、ちょっと変わった家があると聞いて、宇和島へ行ったついでに訪れた。低い山が迫る狭い土地に、伝統的な町家が並ぶ。道の向こうはすぐ川で、浅い川を挟んで対岸には現代の建物が姿を見せ、その向こうには同じような低い山が迫る。港町と聞いていたが、海の潮の満ち引きによって海になったり川になったりするようなこんな浅い水辺でも、昔は港が成立していたことに驚く。

  • 1階、庭側から座敷を見通す

小さな元港町の伝統的町並みの中心に、昔の荷揚げ用の石段に一番近い位置に、ひときわ目立つのが目指す家とはわかったが、外から一見してもどこがちょっと変わっているのかは判然としない。もし変わっているとすれば、右手が武家屋敷のような武者窓付きの土蔵になっているのと、左手の主屋の間に屋根が架かって、長屋門のような姿になっている点だが、江戸時代の町屋に長屋門があったはずはないから、明治以後の近代化のなかで富を蓄積し、武家風のつくりと長屋門化を果たしたに違いない。

江戸時代の中期以後、建築のつくりは“奢侈禁止”となり、とりわけ町人は武家を凌ぐような家は許されなかった。その結果、明治以後、身分制がなくなると、富裕な有力者たちは、かつて自分たち町人には禁じられていた武家風のつくりを採り入れるようになる。

明治維新の結果、西洋館が出現するのはよく知られた事実だが、同時に、町人や農民の伝統的建築の流れの中で“武家風のつくり”が新規採用されている。

触れるのが遅くなったが、「色ガラスの家」の本名を紹介しよう。小西本家といい、当主は代々、小西荘三郎を名乗り、家業の酒造業に加え、質商、製蝋(ろう)業、製塩業を営む豪商となり、幕末には藩の御用商人として蝋座頭取役を務めている。小西家が実権を握る岩松の港は浅くはあったが、岩松川流域の農林産物と沿岸の海産物の集積地として、また宿毛街道の宿場として栄えている。

しかし、その小西本家のどこが“ちょっと変わった家”なのかは、美しい山々と川と家の外観を味わっているうちはわからない。総二階の家の長屋門状の入口から中に入り、立派な裏庭と米蔵を見てもわからないが、廊下を抜け、奥の離れ座敷の障子を開けて初めて納得する。

ちょっとどころか大いに変わっており、部屋中の畳の面が、赤、青、緑、黄の4色に鮮やかに染まっている。明治初期に隆盛する擬洋風の小学校や病院の一部の窓のファンライトに小さな色ガラスが嵌められている例はいくつも見てきたが、そこから差し込む色の付いた光は少量であり、シンボリックであっても床を色で染めるほどのパワーは持っていなかった。

廊下の外側に嵌められたガラス戸のすべてのガラスは色ガラスだから、部屋に差し込む光はすべて色が付き、板張りの廊下、そして畳の室内を4色に染め上げている。

廊下と室内の境には“ガラス入り障子”が用いられており、色付きガラス戸から入った光は、障子が閉められている場合は、障子の和紙と畳の一部を染め、開けられている時は、畳の全面を染める。

離れ座敷が明治20年代につくられた時、ガラス戸もガラス入り障子もこの地方では初の導入だったに違いない。後者の周囲を磨りガラス化したガラスは他でも見たことがあるから、既製品を買い入れたものだろうが、ガラス戸に色ガラスを嵌めた例は知らないので、小西荘三郎の指示と色ガラスの供給によって指物師が製造したと考えて間違いない。

なぜこのような珍しい試みをしようとしたのか。色ガラスを一部の窓に嵌める例は、幕末は長崎のキリスト教会が先行し、明治初期の擬洋風建築が後を追っているから、荘三郎はどこかで目撃したに違いない。キリスト教会でないとすると、新たに愛媛県の県庁所在地となった松山市か。

  • 建物は岩松川に面して建つ。川原は夏祭りの際に屋台が並んで賑わう。

新時代を明るく照らす色ガラスという文明開化のシンボルを知り、建物全体の洋館化は無理だが、せめて一部だけでも自分なりの文明開化に挑もうとしたのではないか。

主座敷のほうでは、かつては許されなかった武家風のつくりを、離れ座敷では文明開化を少しだけ。建築上の内容は違うけれど、新しい時代を迎えたときの有力町人の心意気を読み取ることができよう。

怪しさと妖しさの漂う離れ座敷の畳に座して、書院造にしては軽く細いつくりを味わった後、再び外に目をやると、水の引いた川底で餌をついばむ白サギが、赤くなったり青くなったり色を変えながら歩き回るのが面白かった。100年前の荘三郎も同じ光景を楽しんだのだろう。

 

藤森照信/Terunobu Fujimori

1946年、長野県生まれ。東京大学大学院博士課程修了。東京大学生産技術研究所教授、工学院大学教授を経て、現在は、東京大学名誉教授、工学院大学特任教授、江戸東京博物館館長。45歳より設計を始め今に至る。近著に『磯崎新と藤森照信の茶席建築談義』(六耀社)、『近代日本の洋風建築 開化篇・栄華篇』(筑摩書房)等、建築史・建築探偵・建築設計活動関係の著書多数。近作に〈草屋根〉〈銅屋根〉(近江八幡市、たねや総合販売場・本社屋)等、史料館・美術館・住宅・茶室など建築作品多数。

MORE FROM THE SERIES

RELATED ARTICLES

NEW ARTICLES