March 28, 2019

写真は窓辺で生まれる―写実への闘い

先駆者たち(1) ニエプスとダゲール

Photographieの実験報告で紹介した比率にもとづき、多量の水で硝酸を薄め、硝酸銀溶液を配合した。はじめて硝酸銀溶液を作る場合も、同様の報告を参考にされたい。薄紙の片面を硝酸銀溶液で濡らしてカメラオブスクラ1 の背面に配置し、縁を貼り付け、平らの状態を保った。窓の外の住宅のイメージを薄紙にしっかりと写すために、カメラオブスクラのレンズが住宅と平行なるようにセットした。この状態でカメラオブスクラを放置し、2時間後に戻ると、光に照らされた硝酸銀が茶色に変色していることが確認できた。2

1833年10月、ブラジルを拠点に活動したフランス生まれの発明家エルキュール・フローランスは、このような実験記録を書き残している。のちに西洋で「写真」という技法に対して用いられるようになる、フォトグラフィ(Photographie)という言葉がはじめて使用された一節だ。実験の目的は、カメラオブスクラから得たイメージが消えないように薄紙に定着させることだった。しかし、フローレンスが何度試しても、実験が成功することはなかった。そのため残念ながら、フローレスの言う「イメージ」そのものは、今はもう一切残されていない。それでもこの一節は、写真に関する重要な事実を考える上で、大きな足掛かりとなってくれることだろう。写真は窓辺で誕生した、という事実を。

写真技術における先駆者として知られるフランス出身のジョセフ・ニセフォール・ニエプスとルイ・ジャック・マンデ・ダゲール、そしてイギリス出身のウィリアム・ヘンリーフォックス・タルボットの三名も、フローランスと同様の工程で実験を行い、自宅ないしスタジオの窓から撮影したイメージを残している。ヘリオグラフ、ダゲレオタイプ、カロタイプと名づけられた彼らの発明は、いずれもカメラオブスクラと窓を用いることで実現したものだ。全員が偶然窓を用いたわけではない。彼らが実験を始めた当初、写真を撮るには感光紙をしっかりと露光させる必要があったのだが、それと同時にカメラオブスクラは非常に壊れやすく、重量もあったため、室外への持ち出しは推奨されていなかった。そこで、室内にいながら十分な太陽光を取り入れるための解決策として、窓が活用されたのだった。

しかし、それだけが理由ではなかった。ニエプスは石版刷り、ダゲールは絵画、タルボットはドローイングや理論研究と、写真とは別の領域でも視覚芸術に精通する知見の広さを持っていた。こうした背景を踏まえると、彼らが写真と視覚芸術の類似点を見落としていたとは考え難い。イタリア人建築家のレオン・バッティスタ・アルベルティは、『絵画論』3(1435-36)ではじめて遠近法を定義し、絵画を「世界に開かれた窓」と表現した。同書で展開された彼の理想論は、写真の登場によってはじめて現実のものとなった。科学的根拠に基づき、彼の視覚的再現を理想形へと導いたアルベルティの手法は、すべての写真の基本となっている。ロマン主義と実証主義の風潮が強かった時代に、写真という未曾有の発明に挑み、撮影に身を投じたパイオニアたちにとって、窓ほど純度の高いメタファーはなかったのではないか。彼らが発明に着手したばかりの頃に撮影したイメージには、窓の外が写されているだけでなく、彼らの取り組みそのものが描き出されている。

 

ジョセフ・ニセフォール・ニエプス
「ル・グラの窓からの眺め」、1827年

  • アルベルティが絵画を窓に例えたように、ルネサンス期に絵画を描くということは、窓の外の世界を映し出すということを意味した。

現存する最古の写真画像として知られる、ジョセフ・ニセフォール・ニエプスの作品「ル・グラの窓からの眺め」は、窓から撮影されたものだ。撮影には、ピューター板、「ユダヤの瀝青(れきせい)」と呼ばれる感光性物質と、ラベンダー油とテレピン油を混ぜて作った現像液が用いられた。ニエプスが数年に渡る試行錯誤の末に確立させた、ヘリオグラフィの基本のレシピだ。今なお現存するイメージだが、撮影が行なわれたのは、遥か昔、1827年6月から7月の間だと推定されている。カメラオブスクラから得たイメージを保つべく、ニエプスが費やした時間は計り知れない。こうした努力を経て、彼が日々書斎の窓から眺めた景色がようやくイメージとして残されたのだった。詳しいことは、ニエプスが成果報告のために兄クロードへ送った手紙に書き残されている。例えば、1816年5月5日付けの手紙には、「鳩小屋の前の制作室に機材を設置し、窓を開け放ち、いつもの手順で実験を行った」と綴られている。4 ニエプス は10年に渡り、ひとつの被写体に自身のまなざしを、カメラのレンズを向け続け、写真の歴史を塗り替えることとなる科学実験に打ち込んだ。そして、芸術家としても努力を貫き通した。彼が目指した機械。それは、窓のように世界への開口を作り出すもの。そして、その世界を即座にイメージへと変換してくれる機械であった。

論考「Notice sur lʼheliographie(ヘリオグラフィについて)」の冒頭においてニエプスは、「私がヘリオグラフィと名付けた発見は、光の作用を用いてカメラオブスクラに映し出されたイメージを黒から白までの階調で“自然に”生成させ、再現することを意味する」5 と、自信の発明が持つ即効性と正確さを強調し、それによってもたらされる並外れた写実性を主張した。1828年8月20日の手紙では、「目指すべきは、自然界を出来る限り実物に忠実に再現すること。この目的のためだけに身を捧げている」とも述べてる。6 実証主義が全盛の時代において、「イメージに対する人間の介入が消失していくスリル」7 と不可分であったその迫真性は、表象の重要な評価基準でもあった。

ニエプスのヘリオグラフィには、「ル・グラ」と呼ばれたサン=ルー=ド=ヴァレーヌ(フランス)の彼の自宅が写されている。そのなかには、鳩小屋や梨の木、その手前にあった納屋の屋根、かまど、煙突と、自宅の2階から見えた全てが捉えられている。そして、どれも現実と同じ姿のまま、実際のプロポーション、位置関係で描かれている。いや、あと一歩といったところだろうか。本文2人目の主役であるルイ・ジャック・マンデ・ダゲールは、1829年10月の手紙でニエプスによるイメージの最大の欠点について、「太陽が右から左へと移動したようだ。そのせいで、自然な状況が描写されていない」8 と指摘している。9 実際のところ、ニエプスが撮影に使用した感光性素材は感度が弱く、露光には8から10時間程の時間が要されたと推定できる。つまり、イメージが生成されるまでに太陽が空を横切り、中庭の端から端へと移動していたのだ。このようにして、現実の錯覚が不条理と混ざり合っていった。ニエプスの窓の外には、ふたつの太陽が浮かんでいる。

 

ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール
「パリ、タンプル大通り」、1838年

ダゲールがニエプスを非難した背景には、リアリズムの喪失に対する純粋な懸念だけでなく、個人的な問題も大きく関係していたと思われる。二人は間もなく提携を結ぶことになる(1829年12月14日、シャロン=シュル=ソーヌにて契約締結)のだが、当初はライバル関係にあり、大きな利益創出の可能性を秘め、歴史にも残るような発明の支配権を争い合っていた。ニエプスよりも若く、基礎技術の面でも遅れをとっていると自覚していたダゲールはとりわけ競争心を燃やしていた。ましてや、パノラマ絵画の経験を持ち、ジオラマ劇場の開発も行なっていたダゲールにとって、模倣(ミメーシス)に関わる問題は決して軽視できるものではなかった。

「写実という枠組みのなかで、ダゲールが持ちかけた露光時間の問いは、まず第一に美学的な問題として立ち上がる。トロンプ・ルイユ10 の庇護のもと制作に取り組んでいた画家にとっては、避けて通れなかった問題だ」、とアンドレ・ グンテールは言った。1822年、ダゲールが(パートナーのチャールズ・ブートンと)オープンしたジオラマ劇場11 では驚くべき幻想性が提示された。観客は、場内に魔法の如く現れたサンテティエンヌ・デュ・モン教会で真夜中のミサを、エジンバラでホリールード寺院の遺跡を、遥か遠く離れたスイス・ザルナー湖で壮大な景色や状況を目の当たりにしたのだった。
ダゲールは、観客の没入感を強める狙いで、イメージの前に実際のオブジェ(モンブランのイメージなら、本物のシャレー、もみの木、生きた山羊など)を置くこともあったが、装置全体の心臓部を担ったのは、他でもない一連の窓と天窓の巧みな用い方だった。透明なスクリーン(約14×22メートル)の両脇に描かれたイメージを様々な別の角度から照らし、部分的に隠したり、見せたりした。こうすることで、昼と夜のシーンを交互に見せることさえ出来た。

ダゲールは写真に対しても模倣的、自然主義的なアプローチを取った。ダゲレオタイプがヘリオグラフィよりも写実的で、繊細なイメージを残してきたことからも分かるだろう。1839年1月7日、科学アカデミーでダゲールが自身の制作工程について発表した際、科学者のゲイ=リュサックは、「ダゲレオタイプによって、通常のデッサンや絵画による技法では成し得ない完成度で静物を描きだすことが可能となった。その完成度は、まるで自然そのものだ」12 と議会に語りかけた。

ダゲレオタイプ作品のなかでも広く知られる「タンプル大通り」も、例外ではない。このイメージは1838年春の朝、ある特別な場所から撮影された。それは、デ・マレ通りのダゲールのアトリエに隣接していたサンソン通り4番地のジオラマ劇場内、ダゲールの書斎の窓からの眺めだったのだ。13 世界各地の景色を移し入れてみせた大部屋からわずか数メートルの場所で、ダゲールはその光景を作り出した。それも、元あった場所からイメージを移し出すという、ジオラマとは全く逆の方法で、それに勝るとも劣らない幻影を提供したのだ。前述のニエプスのイメージと同じように、このイメージもまた「史上初」の称号を持ち、史上初めて人物を写した写真とされている。とはいえ、他にも4点のダゲレオタイプが同様の座につく可能性があり、あくまでも記録上の話ではあるが。14

ともあれ、「タンプル大通り」には少なくともふたりの人物が写っている。画面左下の靴磨き屋と、その客だろうか。果たしてダゲールは彼らの存在に気づいていたのか、という点もまた議論の的となっており、ルイジ・ギッリは、「数分間動かないようにと、ダゲールに指示されていた人かもしれない・・・もしくは、ダゲール自身が露光を始めてから道に下りてポーズを取っていたという人もいる」15 と考えをめぐらせている。あまり知られていないが、この写真が撮られた直後に同じく「タンプル大通り」で撮影されたと言われる写真が残されており、そこには人影が写りこんでいない。いずれにせよ断言できるのは、この2枚の写真が撮影された日、通りではいつものように大勢の人々が行き交っていたこと。そして、彼らが動き続けていたため、ピューター板にはその姿が写し出されなかった、ということである。そう、ヘリオグラフィにおけるニエプスのパラドックスは、ここでも繰り返されていた。ダゲレオタイプのイメージがどれだけ高い完成度を誇ろうとも、そこに写し出されている景色は、ダゲールが実際に窓から見ていた景色とは、完全には一致しないのである。毎日のように歩道を踏み鳴らした群衆の姿は、一連の木の影へと消えた。騒音は静寂となった。そして、現実は超現実へと変わっていった。

注釈
1. 内部を黒く塗って光を遮断した小部屋の壁に小さな穴をあけ、光を取り込むと、外の光景が倒立して部屋の内壁に映し出される装置。
2. Hercule Florence, Photographie ou Imprimerie à la lumière. Découverte nouvelle qui, par son extrême simplicité dʼappareil et de procédé, met en tous lieux lʼimprimerie entre les mains de tout le monde. 1833年10月22日の手書き原稿。以下に全文が掲載されている。Linda Fregni Nagler (eds.), Hercule Florence. Le Nouveau Robinson, Humboldt Books / Nouveau Musée National de Monaco, Milano / Monaco 2017, pp. 145-164.
3. Leon Battista Alberti, De Pictura, in Opere volgari, a cura di Cecil Grayson, vol. III, Laterza, Bari 1963.
4. 以下に掲載された、1816年5月5日ニセフォール・ニエプスが兄クロードに宛てた手紙。 André Rouillé, La photographie en France: Textes & Controverses: une Anthologie 1816-1871, Macula, Paris 1989, p. 24.
5. 『ヘリオグラフィについて』(Notice sur lʼhéliographie)の初稿は、ニエプスが英王立協会で発表を行うためにイギリスのキューで書いた、1827年12月8日まで遡る。ここで参照されているのは、1829年11月24日付けの、以下に掲載された第2稿である。Louis-Jacques-Mandé Daguerre, Historique et Description des procédés du daguerréotype et du Diorama, Alphonse Giroux, Paris 1839, pp. 39-46.
6. 以下に掲載された、1828年8月20日にニセフォール・ニエプスがオーギュスタン・ルメートルに宛てた手紙。Helmut Gernsheim, Le origini della fotografia, Electa, Milano 1981, p. 21.
7. Roberto Signorini, Alle origini del fotografico. Lettura di The Pencil of Nature (1844-46) di William Henry Fox Talbot, CLUEB, Bologna 2007, p. 270.
8. ダゲールがここで言及しているのは、ニエプスがその後1829年に同じ被写体を撮影した画像についてである。この際、コントラストを上げるために、板のむき出しの部分をヨードの蒸気で黒くするという、技術的な更新がなされている。しかし、この画像も両側が照らされるという同じ欠点を抱えており、現存はしていない。
9. 以下に掲載された、1829年10月12日にルイ・ジャック・マンデ・ダゲールがニセフォール・ニエプスに宛てた手紙。Torichtan Pavlovitch Kravets, Documentii po istorii izobretenia fotografii…, Akademija nauk SSSR, Moscow 1949, pp. 283-284.
10.André Gunthert, La Conquête de lʼinstantané. Archeologie de lʼimaginaire photographique en France (1841-1895), Ph.D. Dissertation, Université Paris I, 2004, p. 49. Caroline Chik, Lʼimage paradoxale. Fixité et mouvement, Presses Universitaires du Septentrion, Villeneuve dʼAscq 2001, pp. 47-48.
11.長くつないだ布に描いた背景の前に物を置いて照明し、窓からのぞくと実際の光景を見る感じが起こるようにした見世物。幻視画。(三省堂「大辞林 第三版」)
12. Helmut Gernsheim, Le origini della fotografia, Electa, Milano 1981, p. 29.
13. Helmut and Alison Gernsheim, L. J. M. Daguerre: The History of the Diorama and the Daguerreotype, Dover, New York 1969.
14. ここで言及しているのは、以下の4点。まず、ダゲールによる、ポン・ヌフのダゲレオタイプ。パリ工芸博物館に収蔵されており、アンリ4世の騎馬像の足元に、同像のメンテナンスを担う者と思わしき人がふたり写っている。次に、マルク・パニューの個人コレクションに収蔵されている、複数の研究者がダゲールの作だとしている、M. ユエ(おそらく画家のニコラス・ユエ)の肖像写真。そして、フランス国立図書館に収蔵されている、裏にダゲールのサインがされた男性の肖像写真2点。
15. Luigi Ghirri, Lezioni di fotografia, Quodlibet, Macerata 2010, pp. 116-117.

 

 

フランチェスコ・ザノット/Francesco Zanot
写真評論家、キュレーター。写真を専門に数多くの展示や執筆を手がけ、これまでにマーク・コーエン、グイド・グイディ、オリボ・バルビエリ、ルイジ・ギッリ、ホンマタカシ、リンダ・フレグニ・ナグラー、フランシスコ・ジョディス、ボリス・ミハイロフらの作品集に寄稿。主な出版物に『The Many Lives of Erik Kessels』(2017年、エリック・ケッセルス共著)、『Ping Pong Conversations』(2013年、アレック・ソス共著)。芸術学校IGCO/NABA(ミラノ)フォトグラフィー修士課程のディレクターを務めるほか、コロンビア大学(ニューヨーク)、ローザンヌ州立美術学校、ヴェネツィア建築大学など、様々な学術機関で講義、講演を行なう。2017年、プラダ財団がミラノに開設した「Fondazione Prada Osservatorio」では、オープニング・エキシビション「Give Me Yesterday」のキュレーションを担当。