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滝口悠生|第1回 岸辺幼稚園

滝口悠生(小説家)

18 Mar 2020

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Literature

窓からのぞく部屋の様子、窓から外を眺めると見える景色、移りゆく車窓の風景。人の生活に曖昧な境界線として存在し続ける窓は、当たり前のようにそこにありつつ、ときに風景を絵画のようにも切りとります。小説家  滝口悠生さんとともに窓のある風景を巡り、その窓に寄り添う人の様々に耳を傾けます。

まず訪れたのは東京の住宅街にある幼稚園の窓辺です。岸辺幼稚園は日本で初めてつくられた私立の幼稚園で、百年近くこの土地で子どもたちを見守ってきました。朝の登園の騒がしさも落ち着いたころ、園長であり創設者の孫にもあたる中島茂子さんにお会いし、時折園児たちの声が園庭や教室から聞こえる園長室でそっと話をうかがいました。

 

井の頭線の池ノ上の駅から15分ほど歩いて幼稚園に着いた。天気のいい平日午前中の住宅街は静かで、テレビで見たことのある芸能人のひとが、気持ちよさそうにそのひととよく似た犬を散歩させていた。

古い幼稚園と聞いていたけれど、銀色のステンレスの門も、建物の壁の塗装も新しかったから、意外だった。正門の面した道は細く、園の建物も新しく現代的な、どちらかといえば素っ気ない意匠のものだった。向かいの敷地の庭の木が茂っていて、夏は陰になって涼しそう。

門の先には開け放たれた広い玄関口があり、建物の脇と玄関口とを、緑色のお揃いのスモックを着た子どもたちがせわしなく行ったり来たりしていた。小さな体で、なにか言い合ったり、かけ声のように大きな声をあげたりしているのを見ていると、毎日の生活に小さな子どものいない私には、その小さい体独特の動きも、彼らが備えた活発さも異質で驚きで、ともかく彼らがこの場の主役なのだから、建物や敷地の観察はあとで誰かに聞けばわかるのだし、しばらく彼らを眺めていたい、という気持ちになる。奥へ延びた園舎のなかと、そのさらに奥に見通せる園庭の方からも、子どもたちの声が響いてくる。

岸辺幼稚園は日本で初めてつくられた私立の幼稚園だそうだ。もともとは、学校教員の傍らで口演童話(最近の言葉で言えば「読み聞かせ」)など幼児教育の研究も行っていた岸辺福雄氏が、新宿牛込の自宅を園舎にしてつくった幼稚園だった。その後神田神保町に幼稚園をつくり、そこでは女学校も併設した。しかし1923年の関東大震災で被災、同年に現在の渋谷区上原に移り再建された幼稚園が、現在まで続く岸辺幼稚園だ。

現在の園長は四代目の中島茂子さん。創設者岸辺福雄氏の孫にあたる。玄関口の横にある園長室にお邪魔すると、どうぞどうぞ、と椅子をすすめられた。園児用の小さい椅子だがしっかりしていて大人が座っても大丈夫。

「この建物はね、5年前に建て替えたんですよ」

上原に移って以来、92年間にわたり使用されたかつての園舎は、風がよく通り、気持ちのいい木造の建物だったという。

「どこもいちめん窓でね、スースーしてて気持ちよかったんです。でも建て替えたらどうしても壁や柱が増えるでしょう。だからはじめのうちはもう息苦しくって。やっとこの頃慣れてきましたけど」

百年近くこの地で続く幼稚園だから、親や祖父母の代から通う子どもも多い。中島さん自身も卒園生で、幼少期をこの場所で過ごした。園で働きはじめてからは、45年になる。

「昔はこのへんは畑ばっかりで。そこに一族で移ってきて家の隣に幼稚園を建てたもんだから、園庭も自分の家の庭もおんなじようなもんよね、親戚もみんな近所に住んでたから。夕方になると、一軒ずつ家をまわって見て、いちばん好きなおかずの家を選んで晩ご飯を食べてたんですよ」

18人いるいとこのなかでいちばん年下だった中島さんが幼稚園に入ったときにはもう福雄さんは園長を引退していたが、ときどき園舎で一緒に遊んだことも覚えているという。

「建物は新しくなりましたけど、教室とかホールの位置は前とほとんど同じ。昔もいまのホールがあるところで唄とかお遊戯とかしてたから、そこにおじいさんが来てなにか一緒に遊んだようなのを覚えてますね。この園長室の場所も、前の建物と同じです」

いろいろな書類や備品の置かれた室内には、前の園舎からずっと使われているらしい木製の年季の入った抽斗棚が置かれていて、聞けばやはり百年以上前のものだと思う、とのこと。教室に行きたがらない子どもがいたら、無理に行かせないでこの園長室で過ごさせることもある。

「別になにするわけでもなくて、私もいろいろ仕事があるからさ。一緒にいて、そこの輪ゴム片づけてくれる、とか手伝ってもらうのよ」

窓は小さくなってしまったが、園長先生の部屋からは靴脱ぎ場や下駄箱と、そこを出入りする子どもや来園者の様子がちゃんと見える。

玄関を入って、靴脱ぎ場から上がる廊下の突き当たりにホールがある。片側の窓からは日射しも入ってじゅうぶんに明るいが、以前はほとんど全面が窓だったそう。ホールの手前の右側、それからホールに面した奥側と左側に3つ教室がある。奥側と左側の教室は園庭に面していた。

ホールでは毎朝「おつとめ」という朝礼が行われるというので、見学させてもらった。
コの字型に置かれたベンチに園児たちが座り、静かになったところで前に立つ園長先生の話がはじまった。先生に訓示されるシチュエーションからもう数十年縁がない身としては結構緊張する。けれども園児たちを見ると静かに聞きながらもわりとリラックスしている様子なので、それを見てこちらも少し安心する。明日は動物園への遠足が予定されているそうで、電車内などで騒がず静かにしましょう、という話だった。

私は年長さんの子たちの後ろに座らせてもらっていた。スモックの背中側の襟元には好きなワッペンをつけていいらしく、花や動物、アニメのキャラクターなど、みんなそれぞれ違うのがついている。自分だったらなにをつけるか、ということはあまり考えず、それを請われて適当なワッペンを探したり縫いつけたりする保護者たちの方にむしろ思いは飛び、大変だなあ、と思う。

ちょうど私の前にいた男の子の襟元には、自動車会社のSUBARUのワッペンがついていた。渋いメーカーが好きなんだな、と思ったり、もしかしてすばるくんという名前なのかな、と思ったりしている私はたぶん子どもたちよりよっぽど注意力が散漫で、先生の話よりも並んでいる子どもたちの表情ばかり観察してしまう。集中して先生の方を見ている子もいれば、なにか違うことに思いを巡らせているように見える子もいる。ともあれみんな静かに座って聞いている。

「静粛・清潔・整頓」の3つが園の掲げる標語で、「おつとめ」ではその3つにまつわる格言の唱和なども行われる。最後は園長先生自らピアノで伴走を弾いての合唱になって「おつとめ」はおしまい。

「おつとめ」と聞いて、お寺の修行みたいな雰囲気を想像していたが、実際に見てみると緊張感もあるけれどどちらかといえば静と動のめりはりとか、自制や抑制を実践的に経験するための時間に思えた。仏教的な背景もないという。

こういう場に居慣れない大人としては、静かにしているのは楽だけれど、ピアノに合わせて子どもたちが大きな声で歌い、体を動かす時間の方が、どうしていいかわからなくなる。一緒に声を出したり踊ったりしてみたい欲求はどこかにある気もするけれど、それをするのはきっと子どもが静かに座っているのと同じくらい、もしかしたらそれ以上に難しい。

以前の園舎は百年近くここにあった建物だから、なくなってしまう寂しさは関係者だけでなく卒園生や近隣で長く暮らすひとたちにも及んだことだろう。

2011年の地震のときも特に損壊はなく、物が倒れたりすることもほとんどなかったそうで「柳のように建物も揺れてたんじゃないかしらねえ」と中島さんは両手で身振りをまじえながら言った。しかし、古い建物の安全性は証明が難しい。「やっぱり子どもの安全のために、私たちの代で建て替えようってことに決めたんです」そう話す表情はさっぱりしている。

園舎を新しく建てるとき、色とか、形とか、園長先生から注文したことはありましたか、と訊いてみた。

「色や形はなんでもよかったんですよ。まわりはもう他人様のお宅がたくさんあるから、別に幼稚園らしい色じゃなくて、周囲になじむような方がいいし。屋根の色も、何色にしますかって訊かれたから、そのへんの家の屋根見て、あそこの家と一緒の色でいいです、って言ったの」

笑いながらそう応えた中島さんだったが、「こちらでお願いしたのはね」と少し真剣な表情になる。「ひとつはさっきも話しましたけど、なるべく窓を多くしてくださいということ。それからもうひとつはあそこ」と廊下の方を示した。「廊下のおしまいのところね。前の園舎もそうだったんだけど、とにかくあそこに立てば子どものいる場所が全部見えるんですよ」

廊下の突き当たりの、ホールの入口と、ホール手前の教室の入口が面した場所。

「私は鰻の寝床みたいな部屋が全部分かれたような造りは絶対いやだって言って、あの場所だけは残してくれってお願いしたんです。それ以外は色も形もなんでもいいですから、それだけはお願いします、と」

実際にそこに立ってみると、ホールのなかと手前の教室はもちろん、ホールを通して、奥の教室と、ホール左手の教室の様子も見え、それぞれの教室を通して園庭の様子も見える。振り返れば、下駄箱と靴脱ぎ場のある玄関口も見える。トイレの入口もすぐそばにある。それぞれの部屋はどれも少しずつずれたみたいに接していて、部屋も入口も一見歪につながっているようだが、そこに立ってみれば、なるほど各部屋の位置関係と、どの戸も常に開け放たれているおかげで、その場所からは園内の様子がすべて見渡せるのだった。

そこで教室やその奥の園庭を眺めていると、園長先生の視線をちょっと疑似体験しているみたいな気持ちになった。一瞬だけ借りたその視線には、もしかしたらその前の園長先生やその前の前の園長先生、そして中島さんのおじいさんである福雄さんが、孫の中島さんを見遣る視線も重なっていたかもしれない。建物は新しくなったけれど、そこから見える景色には長い時間が残っている。

「おつとめ」のあとは学年ごとに各教室に分かれての時間だったが、園長先生の話を聞いているうちにどの教室も空になって、いまはほとんどの園児が園庭に出て走ったり、遊具で遊んだり、地面をのぞき込んだりしていた。

園庭に面した教室にひとり残っている女の子がいたので、そばまで行ってなにをしているのか訊いたら、画用紙のお皿の絵に、ピザの絵を貼り付けようとしているところだった。ピザは三角形にカットされていて、4枚ある。1枚ずつ色鉛筆で彩色されていて、全部具材が違うようなのでそう言ったら、全部違う、と教えてくれた。これはきのこのピザ? と訊くと、うーん、と考え、これがいちばんいいやつ、と別の赤い1枚を指さした。

壁を見ると、ほかの子どもたちが同様に彩色して皿に貼り付けたピザがたくさん飾ってある。貼り終わったら外に出ていいようだが、女の子はどこにどのピザを貼ろうかまだ決めかねてじっくり考えている様子だった。窓辺にいた先生も特に急かすふうでもないし、別に急ぐ必要もないのかもしれない。考える邪魔をしては悪いから、教室の入口の方に戻って見ていたら、しばらくいろいろ試してようやくいい配置になったらしく、貼りつけた用紙を先生に渡して園庭に出て行った。みんなと混ざるとすぐにどの子だったかわからなくなった。

ふだんは園長室での仕事が半分くらい、残り半分は園内をぶらぶらしてるんですよ、と中島さんは言う。

「別になにを教えるってのが私の仕事じゃないですから。ぶらぶらしてるのが仕事なんですよ。なんとなく全体を見渡してると、子どもの様子がちょっといつもと違うな、とか疲れてるのかなとかわかるから。なんかずっと下向いてるなとか、いつもそんなことないのに今日は何回もおしっこに行くとか、あくびしてるとか、よく転ぶとか、いろいろ。そしたら担任の先生に伝えたり、熱はかってもらったりしてね。そんなのが仕事なんです」

話を聞くあいだ、以前の建物よりも窓が減ってしまったことを中島さんは何度も残念そうに語った。けれども中島さんがもうひとつ譲らなかった場所、園内を見通せる廊下の端は、ちゃんと残っている。あの場所は、中島さんが園長先生として園内を眺めるために取り換えのきかないフレームを備える場所だった。その「窓」だけは、ちゃんとこの幼稚園に残ったのだ。

「あとはなるべく子どもと話すようにしてますね。お弁当の時間は各教室まわって、なに食べてるの、って訊いてまわったり。そしたらみかんひと切れくれてラッキー、って思ったりね。この年になると、こっちの方が子どもたちにお月謝払いたいくらい。やっぱり楽しいよ、子どもと話したり一緒に遊んだりしてると。でもね、年長さんくらいになると、昨日は一緒になって遊んでくれたのに、次の日になると園長先生ってちょっと変だね、って言われたりするの。どこが変なの? って訊くんだけど、70になって子どもと遊んでよろこんでるんだから変なのよねきっと」

 

滝口悠生/Yusho Takiguchi
1982年東京都生まれ。2011年「楽器」で新潮新人賞を受賞してデビュー。2015年『愛と人生』で野間文芸新人賞、2016年「死んでいない者」で芥川賞を受賞。他の著書に『寝相』『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』『茄子の輝き』『高架線』『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』などがある。

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