April 2, 2020

第30回 ヨルダン・ペトラ編
「大地を直感する」

旅行中、いろいろな国でいくつも遺跡を見てきた。それらは我々の現代の生活からかけ離れたもののようではあるが、遺跡をつくった人もおそらく自分と大して変わらない見ためだっただろうし、どうつくったのか、それがどんな意味を持っていたのかと興味は尽きない。しかしヨルダン南西部の古代遺跡・ペトラでは、なによりもその「岩石」としての遺跡の存在に最も驚かされることになった。

「シーク」という1kmを超える細くうねる峡谷が、その広大な地形の中に隠された遺跡への唯一の入り口である。

  • ペトラの入り口、シーク

峡谷を抜けると、赤い砂岩の崖がそびえる窪地に遺跡群が多く残っているのが見える。崖の上から遺跡を見降ろせば、現在のペトラの街並みをかすかに望むことができる。この岩山によってペトラは19世紀まで外部の人間に「発見」されることはなかった。

全てを見てまわろうとすると歩いて1日以上はかかる広大な遺跡の中を進むにつれて、周囲の砂岩は徐々に赤みを増していく。その一部は鉱物というより、本マグロの切り身のような姿をしていた。こんな岩は見たことがない。触ってみると、パラパラと砂が落ちる。今まさにゆっくりと、崩れていくようだ。

  • 本マグロのような砂岩

ペトラ遺跡をつくったナバテア王国は、紀元前2世紀前半ごろからこの場所を首都としており、遺跡の多くが墓や神殿と考えられているが、未だわからないことが多い。紀元106年にローマの属州となってからは、遺跡にはアーチや列柱などローマ様式が濃厚に見られるようになった。

「兵士の墓」と呼ばれる遺跡では、砂岩から削り出した神殿型のファサードが、建物の外観を特徴付けている。窓のようなかたちをした3つのくぼみには、それぞれ兵士の像が掘り出されている。窓はないが、よく見るとファサード両脇の奥まった場所に、穴が空いている。

  • 「兵士の墓」ファサード
  • 「兵士の墓」内部

中に入ってみると、その2つの穴と入口から、2階建てほどの高さのガランとした内部空間に光が差し込んでいた。どうやら外観と内部空間の幅が一致していないらしい。一説によればこの内部空間は、これらの2つの穴を徐々に掘り下げていくことで、足場を設けずにつくることができたのだという。内と外をつなぐ重要な「穴」は、ここでは「窓」としての地位を得ることなくファサードの後ろでこじんまりとしている。一方、外観上重要なのは3つの窓「のような」かたちのくぼみであることを思えば、古代の看板建築だと言えるかもしれない。

数々の遺跡の内部空間の中で、最も驚かされたのが「壺の墓」であった。このファサードも「兵士の墓」と同じく柱や彫刻が掘り出されたものだが、後世になって教会に転用された際のくぼみをのぞけば、内部は石を垂直・水平に切り出しただけの完璧な直方体の空間である。ここまで装飾がない遺跡も珍しい。まるで工場に積まれた石材のようだ。一切の装飾を排した空間の一方で、その岩肌には、気の遠くなるような大地の運動により織り成された文様がはっきりと浮かび上がっている。

  • 「壺の墓」ファサード。下部はローマ時代のアーチ構造物
  • 「壺の墓」内部

華やかで技巧的なファサードと無装飾の内部。一見すれば重要なのは前者で、内部はただ機能的な理由から生み出されたもののようだ。しかし私はこの内部の直方体の岩肌にこそ、古代ナバテア人による建築の特徴があったのではないかと思う。彼らにとっては、装飾をつくるよりも、大地から、このおそろしいほどの文様を表出させることこそが、建築行為だったにちがいない。

そう考え出すと、彼らの残したオベリスクも、装飾の少ない小規模な「墓」も、風化した崖から文様を表出させようとしているように見えてくる。

  • 丘の上のオベリスク
  • 小規模な墓の群

シークを通り抜けて遺跡に入って来たときに感じた砂岩の美しさ。それを古代人たちも同じように直感したのだということが、彼らの残したものから伝わってくる。そのとき遠い時代につくられた遺跡にほんの少し共感し、その感触が身体に染み入ってくるように思えた。

 

 

田熊隆樹/Ryuki Taguma
1992年東京生まれ。2014年早稲田大学創造理工学部建築学科卒業。卒業論文にて優秀論文賞、卒業設計にて金賞受賞。2015年度休学し、東は中国、西はイスラエルまで、アジア・中東11カ国の集落・民家をめぐって旅する。2017年早稲田大学大学院・建築史中谷礼仁研究室修士課程卒業。修士論文早苗賞受賞。2017年5月より台湾・宜蘭の田中央工作群(Fieldoffice Architects)にて黃聲遠に師事。