WINDOW RESEARCH INSTITUTE

連載 窓からのぞくアジアの旅

最終回 窓からのぞいたアジア

田熊隆樹

07 Jul 2021

8カ月にわたる旅の記録も今回で最後となり、連載は4年も続いてしまった。行き先はある程度決めてあったが、おもしろそうなところがあれば予定を変更し、宿は街に着いてから探す、といった具合の自由な旅であった。遺跡や観光地も訪れたが、普通の人の家を見に行くことに努めた。田舎の村は情報が少ないので、地図や航空写真で直感的におもしろそうなところを見つけ、足を運んだ。だからここで紹介した建物の多くは偶然出会ったものばかりである。エッセイを書き始めた当初も、それぞれバラバラな場所と窓について書いていくつもりだった。
ところが書き続けていくうちに、離れた土地同士にも似通った窓があったり、様々な建築部位が同じような原理で立ち現れたりしていることに気づいた。こうして新しい記事には、過去の記事へのリンクが紐づけられていくことになった。

たとえば中国・新疆ウイグル自治区のトルファンの民家は、壁の上部にレンガを積み上げスキマをつくり、そこから庭に屋根が架けられていた。「浮いた屋根」と名づけたこの工夫は、同じく砂漠環境であるイラン・ヤズドのように、地下水路や中庭、貯水槽につながる塔などに設けられた開口部に見られる、建築が地上の厳しさから身を守り「呼吸」するための方法の一種だったと説明することができる。あるいは、同じくイランのエスファハンで見たプライバシーへの配慮から生み出されたイスラムの街づくりの習慣からも説明できる。さらにエジプト・カイロに行くと、トルファンの住宅の屋根がそのまま都市スケールに拡大され、バザールの屋根になっているものにも出くわした。みなエッセイを書くことで後から気づいたものである。

  • トルファンの「浮いた屋根」
  • ヤズドの「呼吸する」開口部
  • カイロの複合施設、グーリー・コンプレックスの屋根。
    都市スケールの「浮いた屋根」

またインド・キナウル地方の「張り出しの村」では、石とヒマラヤ杉を交互に積んだ重量感のある壁面に開けられた小さな窓と、そこから張り出された木造部分の自由で大きな窓の対比が印象的だった。そのように「暗く暖かい空間」と「明るく開放的な空間」を同時にもつことは、どうやら生きていく上でかなり重要な知恵らしい。
たとえばイラン・東ギーラーンの「地面に置かれた家」では、冬場の寒さに対応するための「窓の少ない室内」と、その周りを囲う「半外部の幅広い空間」がセットでつくられていた。それはまた日本建築を思い起こさせるものでもあった。思えばトルファンの人々が冬はレンガの家に篭り、夏は中庭の大きなベッドで眠るのは、2つの空間が夏と冬のそれぞれで、全く別の家として独立しているようなものだ。年間の寒暖差が家を分離させたわけだ。
さらに、おそらく近年の衛生観念や治安の変化によって生み出されたものとはいえ、エルサレム旧市街のベランダが付加された古い石造の家も、「暗く暖かい空間」と「明るく開放的な空間」を同時にもつ建築といえる。聖地の都市とインドの田舎で似たような風景が発生しているのは興味深い。

  • キナウル地方・ビーマカーリー寺院の壁面の小さな窓と、張り出した大きな窓
  • 東ギーラーンの家。明るい縁側空間が窓の少ないコア部分を囲む
  • 堅牢なレンガに囲まれた中庭が、夏の家として使われる(トルファン)

一方、窓そのものを見つめる中で、窓が建築から独立して存在していることに気づかされた例もいくつかあった。イランのマースーレでは、村および建物の古さゆえに、窓と建築の更新のタイミングが「ずれる」ことで、様々な時間軸をもつ窓が同居し、豊かな風景をつくり上げていた。「村が古い」ことが窓の多様さに表れていたといえよう。

また周囲に木材の少ない村では、窓こそが外部文化の流入する特異点になる。東チベットのラルン・ガル・ゴンパはまさにその現代版である。僧侶たちのセルフビルドの丸太小屋の中に、大量のアルミサッシがギラギラと輝いているのは象徴的であった。一方で旅の最初の頃、初めて上がらせてもらった中国・烏鎮の民家では、観光地開発とともに「景区」(風致地区)の外につくられた小さな新興住宅に、古い木の扉が持ち込まれていた。これもマースーレの例と同じく「ずれた」存在であるといえるだろう。建物の構造は変わっても、彼らの窓辺には過去の習慣や雰囲気が残るのである。

  • 時間軸の「ずれた」窓が混在する風景(マースーレ)
  • 僧侶の家に並ぶアルミサッシの窓(ラルン・ガル・ゴンパ)
  • 新興住宅に持ち込まれた古い木の扉(烏鎮)

離れた場所が関係づけられていくこと。このことに、アジアの旅をもとに、窓についてのエッセイを書き進めてきたことの意義があったように思う。
何千キロも離れたこれらの土地に住む人々は、互いに顔も見たことがないはずである。
それでもなお、会ったこともない人たちが別々の場所で似たようなものをつくり上げてしまうのは、特定の気候風土への対応といった理由だけではなく、人間の土地や文化への向き合い方に共通する「くせ」のようなものがあるからなのだと思う。あるひとつの「やり方」はまず隣の人に共有され、気づかぬうちにゆっくりじっくりと他の村へ、国へ、広がっていったはずである。そうやっていろんな人のやり方が、そぎ落とされ、普遍的な「くせ」として残ってゆくのだろう。
窓の「多様さ」を紹介するつもりで書き始めたエッセイだったが、窓からのぞいたアジアは、ひとつではないがそんなにバラバラでもないのだった。

 

田熊隆樹/Ryuki Taguma
1992年東京生まれ。2014年早稲田大学創造理工学部建築学科卒業。卒業論文にて優秀論文賞、卒業設計にて金賞受賞。2015年度休学し、東は中国、西はイスラエルまで、アジア・中東11カ国の集落・民家をめぐって旅する。2017年早稲田大学大学院・建築史中谷礼仁研究室修士課程卒業。修士論文早苗賞受賞。2017年5月より台湾・宜蘭の田中央工作群(Fieldoffice Architects)にて黃聲遠に師事。

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