In New York 窓とまなざし
31 May 2018
- Keywords
- Art
- Interviews
1970年代にニューヨークに渡り、40年以上「窓」を主題に作品を発表し続けるアーティスト、郷津雅夫氏。ニューヨークの移民の姿を定点でとらえた「バワリーストリート(昼⇔夜)」シリーズで、第10回伊奈信夫賞、1990年パリ写真月刊特別審査員賞を受賞。その後、大工をしながら実際に取り壊し中のビルから窓を取り出し、別の場所に再構築する立体作品の制作を始める。現在、ニューヨーク郊外の山中にあるポンド・エディーのアトリエに拠点を移し、石からレンガを切り出し巨大な窓の彫刻を制作するなど、精力的な活動をおこなっている。
安曇野市豊科近代美術館にて個展を開催中の郷津氏に、窓を主題に作品を制作し続ける理由や制作方法について話を伺った。
──最初に発表されたのは、ニューヨークの窓から外を眺める人々を映した「In New York」シリーズですね。20代で渡米されてから、この一連の作品を撮影するきっかけはなんだったのでしょうか。
郷津雅夫(以下:郷津) 最初はニューヨークの絵の学校に行ったんです。それで絵を描きながら過ごしていました。たまたま僕の住んでいるところに、移民の人たちがいたので、その人たちに感情移入をしたことをきっかけに、撮影を始めました。だから写真は我流です。
アートっていうものには、実はそんなに興味がないのかもしれないです。自分自身はニューヨークにいて、なにか狭間にいるって感じがあったんですね。よその国に行っているから、やっぱりそこで自分と周りとの間に距離感があったんだと思います。そういった複数のものが関係していくことに関心がありました。窓にもある種、対象との距離感がありますから、そこから窓を撮影しはじめたのかもしれません。
こういった視覚的な意味での関係性に関心をもつきっかけとなったのは、視線というか、「目」なんです。目っていうのは、突き詰めていくと窓、つまりビルの窓ですね。それから窓をずっと撮るようになりました。私の一番好きなのは、この作品です。ここから始まっていった気がします。目が鋭い。写真も一種の「目」ですよね。
──これらは町なかを歩きながら撮影されていたんですか。
郷津 はい、歩いて。カメラと三脚を置いといて、人が出てきたら撮るって感じでしたね。写真は我流でやっていたので、あんまりうまくいかなくて、失敗したのが当時はほとんどだったんですけど。
──これらはニューヨークの中でも、移民の方が多く住む場所なんですね。
郷津 そうですね。そこに住んでいたので。外を見ている人には、ラテン系の人が多かったですね。日本人ってそんなに外を見ないけど。
──アジア系の方も多いですね。
郷津 やっぱり同じアジア人だからかほっとして、結構撮れるんですよね。自分を反映しているというか。
この辺に住む移民の人たちは、本当にずっと窓から外を見てるんですよ。何もやることなくていつも外を眺めている。だから何度も登場する人もいます。そういうものの方をずっと撮っていました。結局、それが自分に近かったんだと思います。窓は自分を映す鏡だったんですね。
これはニューヨークで神様か何かを背負って練り歩くパレードがあって、それを見ている人たちを撮ったもの中の一枚です。イタリア人ですね。その神様に、ベトナム戦争で死んだ自分の息子の写真を見せているところです。
これも同様です。大勢が写っているものは、たいていパレードを見ているものですね。
──実際に言葉を交わしたりもしたのでしょうか。
郷津 ないですね。動物写真じゃないけど、どちらかというと自然に撮りたいから、被写体が知らないところで撮っています。
──ずっとニューヨークで撮影されているのは理由があるのでしょうか。
郷津 というより、そんなに選択権がなかったんですね。たまたまニューヨークに行って、もうそこにしかいられなかったから。ローワー・イーストサイドの辺りに住んでたので、そこで撮っていました。バワリー・ストリートという通りで、すごく貧しい地域です。昔はいいところだったんです。でも、撮影していたときは、一番治安が悪かったときですね。画廊がたくさんできたり、今またよくなってきました。ニューヨークはどんどん変わっていくので。
──ニューヨークの窓のアーカイブにもなるんじゃないかというぐらい、いろんな窓がありますね。ニューヨークの窓に特徴はあるんですか。
郷津 きっと初めはヨーロッパの職人がつくったと思うんですよ。だから建築学的なスタイルはあると思いますね。
──どれぐらいの期間撮影されたのでしょうか。
郷津 かなり長い期間撮っていました。この後の「Harry’s Bar」のシリーズもおそらく4年ぐらいは撮っていましたね。ずっと撮りためて、本にしました。最初つくったものにだんだん足していって、最終的に3冊にまとめました。
──自費出版で出されていたんですよね。
郷津 そうです、全部。本もひとつの表現ですね。アメリカには「ブックアート」ってアートのジャンルがあるんです。アーティストのつくる本みたいなものです。
──次に取り掛かられたのが、ニューヨークの小さなバー「Harry’s Bar(ハリーズバー)」を定点で撮影したシリーズですね。
郷津 先ほどの「In New York」のシリーズをやってる最中に、このハリーズバーをたまたま撮ったことがきっかけです。ここは、もともとヨーロッパにあるヘミングウェイがよく通っていた結構有名なおしゃれなバーから名前をとってるんです。小説にも登場します。でも、このニューヨークのハリーズバーには、当時貧しい人たちがたくさんいて。そこで撮影をはじめました。
──華やかなヨーロッパの本家ハリーズバーとは対照的ですね。
郷津 このショーウィンドーの中の植物が大きくなっていくんです。だんだん大きくなって、枯れる。
この頃店の名前もハリーズバーから、Harold Barになっていますね。こういう時間の経過に興味があるんです。それから、何度も同じ人が出てきます。このバーに出てくるくらいしかやることがないんですね。
──このシリーズでは、全て定点で撮影されています。
郷津 そんなに必然性はないんですけど。たまたまやることがなかったから、この店の前で車を停めて本読んでいたんです。ここの店の前はいつも車が停められるんで、撮りやすかったんです。
──それで何年間もずっと撮っているうちに、お店が閉店してしまった。図らずもその店の歴史をずっと見てきたのですね。
郷津 結果論ですけどね。この最後の一枚、「エブリシング・マスト・ゴー」、店じまいで全部売るって書いてあるんです。
それで、展覧会をするときに、どうせなら写真とあわせてこの窓ごと買って展示しようと。「全部売る」って書いてあったから、窓そのものを買おうと思った。オーナーがフロリダの人だったので、手紙を出したけども全然返事が来なかった。窓を買いたいなんて、ちょっと頭がおかしいんじゃないかって思ったんでしょう(笑)。
──先ほどのハリーズバーの窓があったから、実際に建物から窓を切り出す一連の立体作品を制作されるようになったんですね。
郷津 そうですね。実際にものとしての窓を持っていきたいと。それで壊れたビルから窓を剥がし出しはじめました。それを組み立てる順番を書いて、そっくりそのまま別の場所で再現する作品です。元々はうちのアパートで組み立てだしたんですけど、ちょっと重くて床が沈みだしたので、地下室を借りてやりはじめました。
──先ほどの写真集の後書きに写真評論家の飯沢耕太郎さんが文章を寄せています。そのときにニューヨークの郷津さんのアトリエで、切り出した窓に囲まれていると不思議と落ち着く感覚があったというようなことをおっしゃっていて、おもしろいなと思ったんです。
郷津 だからあの後、アパートの床が沈み込んで、仕事場に地下室を借りたんですよ。すごく安くて。それで彼が来たときにそこへ泊めてあげてたんです。そこで窓と1週間ぐらい寝てたのかな(笑)。
──窓の切り出しから組み立てまで全部ひとりで制作活動されていたのですか。
郷津 ええ。人を雇うほどお金がなかったので。それから、この窓についた非常階段が欲しくてしょうがなかった。ニューヨークのシンボルですから。
──窓を建物から取り出すときに障害などはなかったですか。
郷津 こういったビルを壊している人たちってすごくラフなんです。「100ドルあげるからこの非常階段を取ってくれ」といったら、「じゃあ取ってあげるよ」って。ブロンクスの廃ビルだらけのところの2階か3階に上がって、「この非常階段が欲しい」といってたら、後ろでバーンって音が聞こえて。振り向いたらピストルが目の先にあった。そのときは1週間ぐらい外に出るのが嫌でしたね。
──どのようにこんなに大きな窓を組み立てるのですか。
郷津 下からだんだんと組み立てていきます。大体自分で持てる重さにしたら、ビニールの一番薄いのを乗せて、また組み立てる。それを最終的に立たせて、その後自分で図面を描く。そうすると次のときも組み立てられますから。自分のためにやっているので、かなりいいかげんですが。
──手描きの組み立て図を拝見しましたが、すごく緻密ですね。
郷津 パーツを並べておいて、数字が振ってあるので、それで順序に拾っていきます。全部我流で、その場で考えます。
──こういった方法は独自に生み出されたんですか。
郷津 写真だけだと食べていけなかったので、大工をやったりしてたんです。それで、一応こういうことのやり方を覚えました。
これ、ほんとは画廊にぴったり入るように3階建ての高さに合わせてつくったんですけど、測ったら天井より高かったんですよ。それで急きょ、2つに分かれるようにつくりました。
──どうやって運んだのでしょうか。
郷津 コンテナで運びました。以前、三越で展覧会をしたときは、アメリカからもっと大きな窓を5つぐらい持っていきました。東京都写真美術館で展示したときだけは飛行機で運んで、船で返しました。
それから、ローワー・イーストサイドの辺りの家賃が高くなったので、ニューヨークでも山のほうのスタジオに引っ越したんです。そこで石から、窓をつくりはじめました。苔とか棘のついた石。「苔がむすまで」っていいますが、時間のシンボルのようなものですね。スタジオのところにあるそういった石を切り出して、ブロックにして積み上げて窓をつくっていました。
──緻密な作業ですね。
郷津 写真もそうですけど、ただ積み重ねていくことが好きというか。この頃になると、ただやみくもに新しい窓をつくっていましたね。写真を撮り始めた頃、窓は自分にとってある種の「鏡」でした。それが、次第に自分にとって窓は「ステージ」のような存在になった。そして窓をつくっているうちに、窓と自分の間の距離感がなくなってきました。結局自分自身が窓になってしまったといえるのかもしれません。
──新しく窓をつくっているけれども、同時にその窓の中には長い時間が含まれているんですね。新しい窓には興味がないんでしょうか。
郷津 ないですね。窓をつくることで、時間を切り取っている。やっぱりどこかで写真と共通するコンセプトがあるんだと思います。
郷津雅夫/Masao Gozu
1946年、長野県白馬村生まれ。穂高高等学校(現穂高商業高等学校)卒業後、東洋美術学校で学ぶ。1971年渡米、1973年までブルックリン美術館付属アートスクールに通い現在までニューヨークを拠点に活動。ダウンタウンの窓辺に佇む人々などを取材し、「窓」を主題に写真やインスタレーションを発表。これまでにO.K Harris Works of Art(NY)、東京都写真美術館など国内外で個展・グループ展多数。