WINDOW RESEARCH INSTITUTE

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ダブル・ビジョン

アビゲイル・チャン

06 Jul 2023

Keywords
Architecture
Art
Essays

デジタルスクリーンの登場は、私たちをとりまく世界、そして建築をめぐる環境への認知にどのような変化をもたらしたのか――エッセイ「スクリーン・タイム」に続き、ロバート・ラウシェンバーグ、ジェームズ・タレル、ロバート・アーウィン、妹島和世らの作品から、二次元と三次元に跨るスクリーンとしての窓の表現を通して「見る」という行為を考察する。

 

「壁紙」を選択したり「デスクトップ」上でファイルを整理したりすることは、今ではデジタル機器上でも、生活空間の中でも行われる身近な行為となった。私たちはスクリーン(画面) というインターフェースを通じて、電信柱や海底ケーブルによって実現され、ピクセルやバイトを計測単位とする広大な領域゠グローバル・ネットワークにアクセスする。そして、分割されたスクリーンや複数開かれた「ウィンドウ」に展開する情報は一つの枠の中に立ち現われ、ハプティクス(触覚技術)により私たちはそれに触れることができる。

そして製品開発にラピッド・プロトタイピングといった現代的な手法が用いられることが増えるにつれ、こうした窓とスクリーンの区別はさらに曖昧になっていくようだ。たとえば天窓のように設置する三菱電気のパネル型照明器具 「misola」は、色温度を調整するようにプログラミングされており、太陽光の移ろいを忠実に再現する。奥行 120ミリの照明ボックスに据え付けられ、LEDと光散乱パネルを組み合わせたこのデバイスは、テーパーをつけた枠に埋め込まれたデジタルの窓と化し、外に開くことのできない空間の居心地を改善する。また、さまざまな種類の木枠のラインアップが用意されているサムスンの超薄型テレビ「The Frame TV」も、窓のような枠形にスクリーンをカモフラージュさせたデバイスである。動きを感知すると、スクリーンはマットボード(額縁台紙)を模した表示に切り替わり、ヴァーチャル・ギャラリーから瞬時にアップロードされた画像が映し出される。一方、パナソニックとヴィトラによる透明なディスプレイ「Vitrine」(陳列戸棚)は、スクリーンと窓を一つの枠内に共存させることを試みたデバイスであるが、スイッチを入れるとガラス面にメディアが表示され、切ると壁から取り外された窓枠のような姿に変わる。

  • Daniel Rybakken for Panasonic, Vitrine, 2019
    © Studio Daniel Rybakken

このように窓をスクリーン、スクリーンを窓として読み替えることができるのは、物理的なものと平面化されたものの間の境界としての枠が、どちらの周りにも微かながら確実に存在していることを示唆している。無論、こうした窓とスクリーンの区別の曖昧さは、現在を予見していたかのように、デジタルスクリーン技術が発達するずっと前からさまざまな文献で言及されてきた。スクリーンと窓との歴史的な重なりをたどることは、いずれもその姿形を超えて、ある特定の「ものの見方」を具現化した装置として捉え直すことを可能にするだろう。

まず、レオン・バッティスタ・アルベルティは、『絵画論』(1435)で窓とスクリーンを関連付ける(3次元の対象を2次元の画面に忠実に模写するための)二つの作画技法、「開いた窓」と「ヴェール」(面紗)について述べる。前者は対象を切り取る枠を設定するために用いられ、後者は枠に張られた格子状の薄い網で、3次元空間を2次元情報として画面に写し取るために用いられる。アン・フリードバーグは、著書『ヴァーチャル・ウィンドウ―アルベルティからマイクロソフトまで』(2006)において、この「ヴェール」は、ビット(デジタル情報の最小単位)がマッピングされるコンピュータースクリーンの先駆けであり、文化的に深い痕跡を残したと論じている

アルベルティは「開いた窓」と「ヴェール」という二つの関連する概念について絵画の文脈で解説しているが、これらは建築の窓にも当てはめることができる。たとえばアーティストのロバート・スミッソンにとってみれば、窓を刺激的なものたらしめるのは、まさにそれがスクリーンとしても解釈されうるという点に他ならなかった。彼は『無題(空港—窓)』(1967)と題されたメモで、窓を「透明なガラスの面を支持する単純なグリッド・システム」と定義している。つまり窓を物理的な構成要素を超えた、線と面から成るネットワーク(網状組織)として捉えたのだ。アルベルティの「ヴェール」を拝借してきたかのごとく、私たちが窓越しに見ている景色は、こうしてピクセルが配されたスクリーンへと抽象化する。

他方、スクリーン上で暗黙的に階層付けされる視覚データの構成方法も、デジタルスクリーンが登場する以前から、さまざまなメディウムにおいて研究されてきた。アーティストたちは、窓を新たな空間秩序の概念を展開するための仕掛けとして利用し、情報の捉え方についての常識を覆してみせる。たとえばルネ・マグリットは、絵画『望遠鏡』(1963)において、窓を構成する要素の重ね方を問い直し、再編している。開け放たれた窓からは不透明なヴォイドが覗き、前面の空の景色は、実は窓台を照らす映像に過ぎないことを示唆している。もっとも、この輝く景色を映し出すスクリーンは、サッシの縁にも規定されず、その内部構造を明かさぬまま深淵へと消えている。

  • René Magritte, The Telescope (La lunette dʼapproche), 1963
    Oil on canvas
    69 5/16 × 45 1/4 in (176.1 × 114.9 cm)
    The Menil Collection, Houston, Hickey-Robertson
    © 2022 C. Herscovici / Artists Rights Society (ARS), New York

 

このように相反する空間階層が同一のキャンバス上で合成されたような状態は、絵画作品の対象だけではなく、その制作技法を通じても表現されてきた。たとえばロバート・ラウシェンバーグが1960年代にレイヤリングの技法を実験的に用いて制作した絵画シリーズ「シルクスクリーン・ペインティングズ」は、窓とスクリーンの関係の議論にさらなるニュアンスを加える。これらの絵画では、枠に張った紗(スクリーン)の目からインクを押し出すことで画像を転写するシルクスクリーン印刷の技法が用いられており、それはアルベルティの「ヴェール」を想起させる。美術史家のレオ・スタインバーグは、これらの絵画は[景色を写し描いたかのように構成される従来の画面とは異なり、平台印刷機の水平面上で様々な情報を転写したかのように構成される]「平台型画面(the flatbed picture plane)」、すなわち従来の絵画とは異なる概念上の方向性を示す画面であり、情報メディアとしての作品を生み出していると指摘している。これは、画像を新聞や雑誌から切り抜き、透視線をぼかし、図形を平面的に回転させて配置するラウシェンバーグの一連の絵画が、コンピュータースクリーン上で作成されたかのようにも見えることに起因する。

またスタインバーグは、不協和で断片的なイメージが重ねられ、画面全体にわたって奥行が徹底的に潰されているラウシェンバーグの絵画は「究極的平面性」を特徴として持つとも述べている。これらの作品は、電子機器に頼ることなく、その緻密さと表現形式の組み合わせ方によってデジタルスクリーンの特質を応用し、一つの画面上で空間的圧縮と拡張の両方を観者に感じさせる。スタインバーグが論じるこうした「平面性」は、コーリン・ロウとロバート・スラツキーの代表的な論考『透明性―実と虚』(1983)で示された「虚の透明性」を想起させる。一つの構図において、深い空間と浅い空間が対峙するとき、その個々の解釈から全体を把握することはできず、双方の引っ張り合いが解消されない結果として、視覚的に捉えがたい効果が生じてしまう。こうした現象は、建築空間において窓がスクリーンとして(誤)作動するときにも見受けられる。

そして窓とスクリーンは枠とも密接な関係にある。枠の設定方法によって、これらは今日的な視覚性を獲得するのだ。イタリアのヴァレーゼにあるジェームズ・タレルの作品『スカイスペースⅠ』(1974年)を例に挙げよう。これは白い部屋の天井に四角く切り取られた窓を通し、空を眺める作品だが、その枠は一般的な窓のものほど厚みがなく、縁は剃刀のような薄さになるようにテーパーがつけられている。結果として、窓の向こうの空は天井面と連続する水平なスクリーンに映し出されているかのように見える。観者の視空間認識を操作し、奇妙に景色を縁取るこのミニマルな枠は、近くにあるものと遠くにあるものを同一面上で合わせることで遠近感を狂わせる。建築のディテールのみによって実現されたこの窓は、もはや視線を通す開口ではなく、視線を受け止めたり、受け流したりする面であるといえよう。

このように窓枠が極限まで細く、そのまま開口の輪郭を成している場合、窓の向こうの領域は奥行きのない映像として認識され、窓はいわばアナログなスクリーンと化す。こうした感性は、サン・ディエゴ現代美術館にあるロバート・アーウィンによるインスタレーション『1°2°3°4°』(1997)においても作用している。ここでは展示室にある三連窓の半透明のガラスに、それぞれ長方形が穿たれている。ガラスが一部取り除かれることで、そこから太平洋沿岸の景色を何にも遮られることなく見られるようになっているが、ガラスに結露が生じると透明度が下がるため、切り取られた長方形が強調される。全体から一部を取り去る行為は、枠の中に枠を位置付けることでもあり、新しく切り取られた窓は、遠景の映像を映し出すコンピューターのスクリーンのようにも見える。窓の向こうで変化する映像は、窓そのものよりも、枠の内側と外側に何があるかを来館者に意識させる。これらの窓は、透明性が主題とされているのではなく、枠の設定の仕方によって、視覚体験を操作しようとするものだ。ここで来館者は同時に二つの場所に縛られ、奥行を把握し難い空間の内部に存在することになる。

  • Robert Irwin, 1°2°3°4°, 1997
    Apertures: Left, 24 x 30 in (61 x 76.2 cm); Center, 24 x 26 in (61 x 66 cm); Right, 24 x 30 in (61 x 76.2 cm)
    Museum of Contemporary Art San Diego, Becky Cohen
    © 2022 Robert Irwin / Artists Rights Society (ARS), New York

 

複数の部屋がこうしたアナログなスクリーンとして機能する窓を通じて互いに見通せるようになると、その影響はさらに大きくなる。妹島和世建築設計事務所の『梅林の家』(2003)は、紙のように薄い16ミリの鉄板の壁に窓を穿つことで、枠の視認性を低下させている。隣接する部屋をつなぐ目で見えないほど薄い窓枠は、窓の向こうの複数の部屋、そこにいる人やふるまいすら平面化させて見せる。開口部の穿たれた壁の成すレイヤーを通すと、暮らしは同一平面上で展開する二次元の画像のように現れる。ル・コルビュジエは、水平連窓から風景を切り取ったが、妹島はポラロイドのスナップ写真のように、四角い窓から部屋を垣間見せるように切り取る。こうして各部屋はスクリーンとなり、家は明滅する窓のネットワークとなる。

  • Luisa Lambri. Untitled (House in a Plum Grove, #01), 2004
    Laserchrome print
    70.4 x 84 cm
    Courtesy Gallery Koyanagi, Tokyo; Thomas Dane Gallery, London
    © Luisa Lambri

鈴木ヒサオによる『梅林の家』のダイニングの写真は、ラウシェンバーグのシルクスクリーン作品『トレーサー』(1963)と不思議に似てはいないだろうか。どちらにおいても、私たちは画面の中に入り込み、白い部屋の隅にある大きな窓、あるいは鏡に視線をやるだろう。ラウシェンバーグの作品においては、そこにペーテル・パウルー・ルーベンスの『鏡を見るヴィーナス』(1615)がコラージュされている。ヴィーナスの姿は「ダブル・ビジョン」(複視)によって描かれている。彼女の顔は鏡に反射して表されており、よく見ると、臍は背中に重ねられている。二方向に配置された彼女の曖昧な姿勢は、彼女が光沢のある面を見ており、同時に部屋を振り返っていることを示している。『梅林の家』の窓のように、鏡はスクリーンに変貌する。ヴィーナスの視線は外に向いているようで、実際には別の内部的次元を覗き込んでいるに過ぎないのだ。

 

  • Hisao Suzuki, House in a Plum Grove by Kazuyo Sejima & Associates, 2003
    © Hisao Suzuki

さらに、ヴィーナスの鏡の縁はルーベンスが用いたキアロスクーロによって微かな輝きを放っているが、ラウシェンバーグはその輪郭を部分的に塗りつぶしている。ラウシェンバーグは縁の境界を曖昧にすることで、前景と背景の境界を融合させている。ヴィーナスはバックミラー越しに、外部からコピーされたデータのノイズの中でこう問いかけているようだ――枠が消え、見る者/見られる者の距離が縮まっていけば、何が残るのだろうか、と。

 

  • Robert Rauschenberg, Tracer, 1963
    Oil and silkscreen ink on canvas
    84 1/8 x 60 in (213.7 x 152.4 cm)
    The Nelson-Atkins Museum of Art, Kansas City, Missouri Purchase
    © Robert Rauschenberg Foundation

コミュニケーションはますますリモートで行われるようになり、私たちの目は常にスクリーンに向かうようになってきている。こうして(バーチャルな)スクリーンを介して現実の空間が認識されるようになり、さらに枠がほとんど(virtually)消失していくような事態になれば、現実の窓との接触や、そこからの眺めもまた、ますます非現実的なものになっていくだろう。テクノロジーが進み、スクリーンの拡大化が求められるにつれ、デザイナーやエンジニアの設計するスクリーンと筐体を隔てる枠はより薄く、小さくなっていく。現在の「Windows 11」のロゴからは(その名称については言うまでもなく)かつてのバージョンのロゴにあった方立や枠、遠近の歪みの痕跡が完全に排除された。スタインバーグの「究極的平面性」を想起させるこの象徴的な窓ガラスは、見えない格子によってデジタルスクリーンのピクセルのように整列されている。しかしより大きな枠なしに、それらをどうやって繋ぎ止めることができるだろう。

  • Microsoft, Windows 11, 2021
    © Microsoft

フリードバーグは「世界がどのように枠組みされているかは、その枠の中に何が含まれるかと同じくらい重要かもしれない」と述べている。私たちが見るものの内容は常に変化しているが、重要なのは、枠そのものなのである。枠のあり方を再解釈せず、単に再生産し続けるだけでは、デジタルスクリーンの氾濫から私たちが今後解放されることはないだろう。スクリーンが私たちの見方や生き方を根本的に再定義してしまった今、それらをどのように物理的に体現していくことができるのか、建築側からの応答が求められている。アナログなスクリーンを成す窓の存在は、私たちがスクリーンを介した情報の取り込み方を、いかに建築と融合させるかについての洞察を与えてくれる。空間を再度豊かにする可能性は、どのように窓のデザインを考えるかに潜んでいるのだ。窓は物質世界の遺物として、ますます非物質化する世界において、私たちを取り巻くこうした潮流に対するオルタナティブを見出すための糸口となるのである。

 

 

Top:Robert Irwin, 1°2°3°4°, 1997
Apertures: Left, 24 x 30 in (61 x 76.2 cm); Center, 24 x 26 in (61 x 66 cm); Right, 24 x 30 in (61 x 76.2 cm)
Museum of Contemporary Art San Diego, Becky Cohen
© 2022 Robert Irwin / Artists Rights Society (ARS), New York

アビゲイル・チャン

アビゲイル・チャンはロサンゼルス出身のデザイナーであり教育者。現代文化の潮流を踏まえながら、素材の質感やディテールから生まれる繊細な出会いに関心を寄せて活動をおこなう。2019年リスボン建築トリエンナーレ、2021年ソウル都市建築ビエンナーレなど世界各地で作品を展示。2022年にはシカゴのボリューム・ギャラリーで「Reflections of a Room」と題した個展を開催。研究や執筆活動では、建築環境におけるフレーミング装置および建物の構成要素という観点から窓やスクリーンが持つ役割を探求している。作品はグラハム美術高等研究財団、客員准教授を務めるイリノイ大学シカゴ校の建築デザイン芸術学部から助成を受けている。ロサンゼルス、ニューヨーク、シカゴ、バーゼル、東京で、ノーマン・ケリー、SO-IL、ヘルツォーク&ド・ムーロンなどの建築設計事務所にて勤務した経験をもつ。カリフォルニア大学ロサンゼルス校で成績優秀者として学士号取得(建築学)。ハーバード大学デザイン大学院にて修士号(建築学)取得し、竹中フェローシップを受賞。
https://www.abigailchang.com/

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