28 Oct 2015
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掬月亭は、香川県高松市内にある近世初期の大名庭園「栗林公園」の園内にある御茶屋である。どこから見ても正面として見ることのできる四方正面造りの掬月亭は喫茶・響宴の場であった。一般に公開された現在も御抹茶や御菓子がふるまわれ、建物内部から開放的な庭園の景色を楽しむことができる。具体的な建立年は不詳であるが、掬月亭は、大名庭園が最も栄えた時期とされる近世初期の庭園の建築であり、庭園内の遊興の建築として巧を凝らしている。
柱間装置とは柱と柱の間に取り付けられる建築の部位すべてのことをさす文化財用語である。具体的には、壁、障子や襖など各種建具などがあげられる。木造軸組の建築においては建具に限らず床に敷かれた板や畳、そして天井も基本的には同様の装置的思考で構成されており、日本建築はその柱間装置の多様性によって、空間的豊かさが生み出されてきた。本研究では以上の「柱間装置」というキーコンセプトに基づき、日本建築史上の建築物を題材として調査を行う。
基礎情報に関して様々な文献の読解を行ない、その編集作業を行なった。柱間装置に関しては基礎情報をふまえ、実測や独自の考察を行ない、関連する図版の作成などを行なった。さらに、これらの調査に基づき、短編映画『Transition of Kikugetsutei』を製作した。
早稲田大学中谷礼仁研究室 窓学・柱間装置の文化誌
研究代表者 中谷礼仁
Text content ─Transition of Kikugetsutei─
〈栗林公園について〉
〈当時の行路〉
〈柱間と柱間装置について〉
〈雨戸の発生と戸廻し機構〉
〈栗林公園について〉
栗林公園は香川県高松市にある回遊式の大名庭園であり、国の特別名勝に指定されている。「栗林」という名の由来は、領主が所有・管理する場所であった御林に災害等の備えとして栗の木が植えられており、「栗の御林」を漢文調に「りつりん」と読んだことにあったという一説がある。栗林公園の成立年代は正確には分かっていない。ただし、同地は天正15 (1587) 年に高松藩の歴代藩主であった生駒家が領主となる以前から、地域の豪族である佐藤家に利用されていた。現在の栗林公園の南側に広がる南湖一帯の庭園は生駒家の時代に造園されたといわれている(i)。
生駒家が領主の頃四代目高俊の時に庭が作られた記録が残されている。その後、寛永19 (1642) 年に松平家が高松藩主として讃岐の地を治めるようになり、この庭園は松平家の別荘地として利用された。松平家就任後は新しく庭園を作る暇が無かったことから、生駒家の別荘として使われていたものが引き続き松平家の庭園として使われたと考えられている(ii)。二代目頼常の頃までに庭園が北側に拡張された。その頃、掬月亭とは別に常駐のための檜御殿が作られた。その後檜御殿は取り壊され、現在はその姿は残っていない。また、干害凶作の際には農民に建物の修築や作庭などの仕事を与え、それに対し賃米を与えることによって農民を救済することを名目とした庭園改修工事が行なわれた。この庭園は生駒家の時代からその後の藩主松平家の時代まで、百年以上の時間をかけて南湖側から作庭・改修を重ね、現在の広さにまで至り、現在では国の名勝庭園の中でも最大の規模となっている。
明治時代には公園として栗林公園を開園するにあたり、旧檜御殿跡に香川県博物館 (現在の商工奨励館) が明治32 (1899) 年に建てられ、幕末以来手が付けられていなかった庭が整備され、現在の庭園に近い姿となった。整備後の現在も南庭側は優れた回遊式庭園としての、往時の有様を残している。
i 『特別名勝栗林公園掬月亭保存修理工事報告書』 (香川県、平成6年出版) 参照。以降、これに準ずる。
ii 上記報告書にて当時香川県文化専門委員であった松浦正一による考察「栗林荘の史的考察」にてこのように述べられている。
〈当時の行路〉
近世の回遊式庭園は一歩一景と言われ、一歩あゆむごとに展開される変化に富んだ庭景が特徴的とされている。当時の藩主たちがどのように庭園を回っていたかについては、五代目頼恭の時に藩の儒学者中村文輔に漢文で庭園の様子を書き留めさせた『栗林荘記』 (延享2 (1745) 年) があり、庭園内の名所が紹介されている順から彼らの道行きを推測することができる。栗林公園への入り口は二つあり、当時は切手御門 (現東門) と嶰口 (現北門) の二つがあった。切手御門は切手つまり招待状を持った客人を迎える際に利用した門であった。一方、親族などはもう一つの嶰口から入り、この庭園を回遊した。道行きも入り口によって二通りあり、どちらも回遊の終着点は掬月亭周辺であった。
栗林公園は池泉回遊式庭園であり、池が大きな部分を占めている。もともと高松の中心に向かって香東川という川が南北に流れていた。その川筋は栗林公園の敷地内にあり、その周辺は清い水に恵まれた土地であった。現在は江戸時代の灌漑工事により、香東川の川筋は栗林公園から離れてしまったが、庭園内の池の水は庭園南部から湧き出る地下水によって供給されている。灌漑工事以降、高松は干害等に悩まされることが多く、その対策として昔からこの地にはため池が多くつくられていた。そして、水に恵まれていた栗林公園は大名庭園として、普段は客人や大名自身のために利用される一方で、その池の水は干害対策の用水としても使われていたのである。
〈柱間と柱間装置について〉
西洋文化圏で作られていた組積造の建築は壁面全体で荷重を支えるため、開口をとる際は小さく穴を穿つようにして窓が作られた。一方、日本で用いられた木造の柱梁架構の建築では柱の間に充填される壁や建具などの要素は構造に関係しないため、開口は柱間いっぱいにとることが可能である。柱間をどのように扱うかが柱梁構造の日本建築において大切な検討箇所のひとつであった。
大名庭園の建築は、響宴・休養のための建築としていかに快適な空間を作るかが重要視される。そのような建築では、壁よりも「開ける・閉める・取り外す」ことができる、いわば可変性に富む柱間装置の効果的な使い方が大切であった。掬月亭に限らず、近世初期の大名庭園である岡山後楽園や桂離宮内の御茶屋や書院群でも、建具を開け放せば庭園全体を見渡すことができるようになっており、建物の中からの眺望に趣向が凝らされている。建物の名前やその場で詠まれた詩などにその建物装置、ひいては柱間装置の意図を伺うことができる。さらに柱間装置としての建具は視覚的、そして温度・湿度や通気・光量など環境的側面の調節にも有効であった。これらの建具によってもたらされる空間の変化は日本建築の大きな魅力の一つであり、庭園における建築ではその魅力がより強く認識されている。
〈雨戸の発生と戸廻し機構〉
雨戸の機能をもつ柱間装置の始まりは、柱間に襖・障子を守る為に加えられた板戸であった。中世までは柱間に三本溝を設け、外から板戸・板戸・障子とはめ込んでいた。この場合、板戸を開けても、柱間の半分はもう一方の板戸によって視界が遮られてしまう。近世初頭になると、柱間の框に設けられていた戸溝が、一筋の敷鴨居として柱より外側に設けられ、そこに雨戸がはめられるようになる。そして柱間内のみの可動域の制限がなくなった雨戸は一つの溝を滑って戸袋にまとめられるようになる。建築史家の平井聖は、その時期は慶長 5 (1600) 年のころで、古図では名古屋城本丸御殿の広間にみられ、遺構では二条城二の丸御殿大広間などに設けられているのが早い例としている。また17世紀中期建立の桂離宮新御殿では縁の外側に雨戸、障子の筋を設け内部化された縁としての入側縁が登場した。これらによって日本建築の空間はさらに多様となった。
また、同新御殿において雨戸は「雨戸廻」と呼ばれる装置によって、建築の隅で方向転換することができるようになっている。雨戸を開ける際、雨戸は専用の一本溝に沿って滑っていく。隅に行きつくと溝の外側がちょうど雨戸の幅の半分ほどなくなっており、雨戸を溝から半分ほど飛び出させた状態にすると、雨戸は溝から自由になる。そこで雨戸を別の面へと回転させることができるのである。この際に、雨戸が庭や池に落ちないように内側へ押さえ込みつつ、その回転運動を補助する役割を担っているのが「雨戸廻」であった。雨戸廻を支点に雨戸は90度回転され、次の溝に進入していく。これらを重ねていくことで、建築の四方すべてに現れかねない戸袋を一つに集約し、池や庭に面する部分から雨戸を排除し、開放的な視界を確保することができるようになったのである。
掬月亭に配置されている「戸廻し棒」は雨戸廻の古式様であると考えられ、掬月亭の主目的が庭園を障壁なく鑑賞するためにあったことが理解される。またそのために採用された雨戸廻の効果は絶大なものであった。
参考文献: 『特別名勝栗林公園掬月亭保存修理工事報告書』 (香川県,1994年) 、高橋康夫『建具のはなし』(鹿島出版会,1985年) 、平井聖「雨戸に関する一考察」(日本建築学会大会学術講演梗概集(東海),1976年)
中谷礼仁/Norihito Nakatani 建築史家。早稲田大学教授。本研究代表者。主な著書『今和次郎「日本の民家」再訪』瀝青会名義 (平凡社,2012) 、『セヴェラルネス+ 事物連鎖と都市・建築・人間』 (鹿島出版会,2011) 、『国学・明治・建築家』 (一季出版,1993)
協力:香川県、特別名勝栗林公園 観光事務所、料亭二蝶、早稲田大学 理工学術院総合研究所
※本記事は、早稲田大学 中谷礼仁研究室との共同研究『柱間装置の文化誌』から抜粋したものです。