10 Jul 2018
movie “THE CORALLUM”
柱間装置とは柱と柱の間に取り付けられる建築の部位すべてのことをさす文化財用語である。具体的には、壁、障子や襖など各種建具などがあげられる。木造軸組の建築においては建具に限らず床に敷かれた板や畳、そして天井も基本的には同様の装置的思考で構成されており、日本建築はその柱間装置の多様性によって、空間的豊かさが生み出されてきた。窓学・柱間装置の文化誌では、この「柱間装置」をキーコンセプトとし、日本建築史上の建築を題材として調査を行っている。
沖縄県南城市にある古代祭祀空間、斎場御嶽には自然がつくり出した〈間〉が存在する。そこに人々は常ならぬ気配を感じ取りそこを聖なる空間とした。その巨巌(おおいわ)は、更新世に珊瑚礁によって形成された琉球石灰岩(=珊瑚石)である。その岩石は沖縄という島全体を形成し、ひいては伝統的住居の礎石、あるいは近代化を支えたコンクリートとしてその様態を変化させつつも時をこえて都市を構成している。本映像作品“THE CORALLUM”(珊瑚の群体の意)は、その歴史的変遷をたどるなかで柱間装置の発生を垣間見ようとするものである。
Text content−Dawn of Architecture−
〈はじめに〉
〈斎場御嶽(せーふぁうたき)の概要〉
〈三庫理(さんぐーい)〉の形成と祭祀
〈琉球石灰岩の礎〉
〈はじめに〉
斎場御嶽(せーふぁうたき)は、沖縄県南城市に位置する沖縄固有の聖地である。御嶽(うたき)とは、古代より村落祭祀の重要な信仰拠点であり、村近くの山や森の中に位置する聖地をいう。日本近代を代表し原始芸術に大きな関心を抱いていた芸術家・岡本太郎(おかもと・たろう、1911-1996)が御嶽を「何もないことの目眩(めまい)」と表現したように、ぽっかりと開けた空間を特徴とする。
特に斎場御嶽では、巨大な琉球石灰岩で形成された三角の洞門状の空隙があり、信仰のもっとも象徴的な場所となっている。斎場御嶽は世界遺産となった現在でも多くの参拝客が訪れ、古代からの信仰を現在に伝えている。
今回われわれは「柱間装置」の序編、柱間装置が人間の手によって発生する以前、人間が特別な場所を見出した段階として、斎場御嶽をはじめとした沖縄の古代の聖地に着目した。そして伝統的な民家や現在の都市に至るまでの、絶えず連綿と使用されてきた琉球石灰岩を題材とした。
〈斎場御嶽について〉
斎場御嶽は、沖縄県南城市にある知念(ちねん)半島の東側に位置する。
琉球王朝時代より沖縄では太陽の昇る東は「あがり」と呼ばれる聖なる方角で、現在の南城市と与那原(よなばる)町は地域全体が「東方(あがりかた)」と呼ばれた国家的な聖域であった。特に南城市は琉球開闢(かいびゃく)神話に登場する舞台の中心であり、神の島と呼ばれる久高島(くだかじま)などの聖地が数多く残っている。
国家的聖地 -斎場御嶽-
斎場御嶽内にはイビと呼ばれる聖なる場所が6つあり、それらを含めた森全体の名称を斎場御嶽という。斎場御嶽では、琉球国王や琉球王国最高位の女性司祭である聞得大君(きこえのおおきみ)自らがわざわざ赴き、王国の五穀豊穣、国家安泰、子孫繁栄、航海安全を祈願する様々な国家的祭祀を執り行った。その中でも、次世代の聞得大君が誕生する儀礼「御新下り(おあらお)」は、女性司祭が祭祀の中心であった琉球王国で最重要儀礼であり、斎場御嶽でその中心的な儀式が行われた。聞得大君は斎場御嶽で神の霊力を得て、この世に人間の姿で現れる現人神(あらひとがみ)として国王を守護した。
斎場御嶽の6つのイビのうち、巨大な琉球石灰岩でできた大庫理(うふぐーい)、三庫理(さんぐーい)、寄満(ゆいんち)、の3つのイビは、首里城にかつてあった部屋や聖域が名称の由来と考えられている1。宗教的権威に基づき司祭者が政治権力を有した琉球王朝において斎場御嶽は最高位の国家的聖地であった。
三庫理の空隙の形成
斎場御嶽の最も印象的な場所が三庫理(さんぐーい)である。
三庫理の景観は巨大な琉球石灰岩が滑り落ちるようにして、別の巨巌と接地され三角の洞門を呈する景観となっている。この景観は如何にして形成されたのか。
斎場御嶽の地質の基盤は泥岩の地層群であり、その上部は異なる時代に形成された琉球石灰岩層に覆われている。かつて斎場御嶽を構成していた岩石は現在よりも巨大で、水平の層状の地質構造を持つ岩棚を形成していた。その後、この岩棚が崩壊し最も大きな巨巌は83度傾いた角度で泥岩の最上層の地層にめり込んだ。この時にこの巨巌から最上部が剥離し、もとの岩に倒れかかるようにして止まったことで三庫理の三角形の空隙が形成されたのである。
空隙と祭祀
三庫理は斎場御嶽の祭祀の中で重要な役割を担う場所の一つである。二つの巨巌によってできた三庫理の空隙は南北に通り、絶えず風が吹き抜ける。空隙の先には、琉球石灰岩で敷き詰められた基壇があり、そこに三庫理のイビがある。基壇の下には、琉球王国時代の祭祀に利用されたと考えられる勾玉や銭貨などが発掘されている。三庫理のイビからは久高島(くだかじま)を望むことができ、現在は久高島遥拝所(ようはいじょ)となっている。久高島は斎場御嶽から東に5キロほど離れた離島で、神の島とも呼ばれフボー御嶽や伊敷(いしき)浜などの琉球王朝の中心的な聖地が現在でも残っている。島の東側に位置する伊敷浜からは日の出の太陽(てぃだ)を望むことができ、その先には沖縄の他界ニライカナイがあると信じられている。古来より斎場御嶽の遥拝所からは久高島が拝まれ、儀式の際にも久高島の女性の司祭が参加し、久高島の珊瑚砂を斎場御嶽に敷き詰めるなど密接な関係があった。2
三庫理の奥では、久高島へと出港する内容の神歌が歌われ、三角形の空隙をもう一度通り抜けた三庫理から大庫理(うふぐーい)への道行は、久高島そしてニライカナイへの幻視的な渡航を再現している。このように、御新下り儀礼の中で三庫理の空隙は、当に現世と他界ニライカナイを繋ぐ門となっていた。
〈琉球石灰岩の礎〉
沖縄の大地は、その3割が石灰岩質で構成されている。そこから産出される石灰岩は琉球石灰岩と呼ばれ、珊瑚礁とそこに住む海洋生物の死骸が海底に堆積し地層が形成されてきた。この地層は、地殻変動や海水面の低下によって地表に現れ、現在の沖縄の地質をつくった。この琉球石灰岩は古代から現在に至るまで沖縄の人々にとって身近な物質であった。以下に沖縄の暮らしと琉球石灰岩の観点から時を追って見ていきたい。
信仰される石灰岩−古代−
古代琉球社会において、人々は巨石や巨木、砂浜や洞窟にいたるまであらゆるものに神を認めた。石灰岩も同様に信仰の対象であった。石灰岩の岩肌の近くからは湧水が得られることが多く、生活水の確保が困難な島嶼(とうしょ)地域においては、水源とその近くの石灰岩は人々が住まう起点となった。その最たる例が斎場御嶽である。水が湧き出る山の頂に、崩れかかるようにして二つの巨巌が三角の空隙をつくり、その接点には今でも大きな力がかかっている。人間のスケールを遥かに超えた巨巌と空隙は幾千年もの時に耐え、人々に大きな畏怖を与え信仰の拠り所となった。
加工される石灰岩
琉球石灰岩は主に石化した珊瑚礁から作られるため、多孔質で他の石灰岩に比べ柔らかく、このため加工技術が容易に発達した。沖縄の生活で必須なのが、台風や大雨などの熱帯性気候、そして、白蟻害といったその気候由来の諸害に対応することである。琉球石灰岩は加工が容易で水はけが良く、人々は建築の素材として用いはじめた。
これらの石灰岩は、海岸や山の岩盤や巨石から鉄器や硬質な石材で砕かれ、人間の使いやすい大きさに切り出された。航路や陸路によって石材は運搬され、王府首里をはじめとするグスクや有力者の建造物の基礎となった。
このなかでも中頭郡北中城村(なかがみぐんきたなかぐすくそん)にある重要文化財にも指定されている中村家住宅は、沖縄の伝統的な建築技術の粋を集めた民家建築である。読谷の石切場から切り出し運搬された琉球石灰岩のヒンプン4をはじめとし、石垣、石畳、薪割り石など、この民家建築には至る所に琉球石灰岩が用いられている。強風を防ぐ石垣の内側には石畳が一面に敷き詰められている。そして白蟻害を防ぐために通常より高く立てられた石灰岩の束石の上に木の柱を置き建築が接続された。また、屋根に使われた漆喰は、珊瑚礁を焼いた後に細かく砕き藁などを混ぜて作られる。漆喰で固定された瓦は台風に耐え、雨水を防いだ。石灰岩は自然の脅威から建築を切り離し保護するために利用された。
再構成される石灰岩
そして第二次世界大戦後、人々は石灰岩をさらに細かく砕く技術を獲得した。機械によって細かく砕かれた石灰岩はコンクリートの主原料である。アメリカ軍も琉球石灰岩に着目した。アメリカ軍は施設建設のためコンクリートの生産技術を持ち込んだ。容易に材料が入手でき熱帯性気候に適したコンクリート造の建築物は、台風やシロアリに悩まされる従来の木造建築に取って代わった。またコンクリートは建築物以外にも高速道路やモノレールなどのインフラ整備にも使用された。規格化されたコンクリートブロックと、流体となったセメントコンクリートはトラックやミキサー車に積まれ、コンクリート造を沖縄全土に広めた。今や沖縄の9割の建築物がコンクリート造である。沖縄の都市化はコンクリートの普及に伴うものだが、実はそれは琉球石灰岩に負うているのだ。
琉球石灰岩の礎
かつて巨大な琉球石灰岩は神として信仰され、その特性によって原始の〈間〉が誕生した。やがて琉球石灰岩は人間の手によって加工され、王府や有力者の木造住居を支える基礎となった。のちに琉球石灰岩は重機によって砕かれ粒子となり、現代の沖縄の都市へとその姿を変容させた。しかし、これらを俯瞰してみれば、沖縄の地が琉球石灰岩で覆われているという事実は原始から現代に至るまで何ら変化していない。人々は技術や構法を更新しながら、石灰岩の大地の上に建築を立て続けている。珊瑚由来の石灰岩は、沖縄の建築・都市において展開する柱間装置の常に礎であり続けている。
注釈:
1. p.429伊從 勉『琉球祭祀空間の研究: カミとヒトの環境学』(中央公論美術出版,2005)に詳述されている。
2. 現在の久高島遥拝所は三庫理にあるが、もともとは斎場御嶽の別の場所にあり、三庫理から久高島を遥拝したという史実はなく、三庫理の遥拝所は後世にできたものと考えられている。建築史家の伊從勉(いより・つとむ、1949-)によれば、かつて「御新下り(おあらお)」は久高島で行われており、祭祀の簡略化に伴い斎場御嶽で行われるようになったとされる。このため、現在に伝わっている斎場御嶽での儀礼の中にも久高島やニライカナイへの渡航の様子が幻視的に組み込まれている。
3. p.182福島駿介『沖縄の石造文化』(沖縄出版, 1987)の図-82石灰岩及び石造建造物の分布より引用
4. 琉球の民家において門と母屋の間にある目隠し。悪霊の侵入を防ぐ魔除けの意味もある。
参考文献:
伊從 勉『琉球祭祀空間の研究: カミとヒトの環境学』(中央公論美術出版,2005)
岡本 太郎『沖縄文化論: 忘れられた日本』(中央公論新社,2002)
知念村教育委員会『斎場御嶽-整備事業報告書(発掘調査・資料編)-』
仲松 弥秀『神と村: 沖縄の村落』(琉球大学沖縄文化研究所,1968)
南城市教育委員会『斎場御嶽周辺整備実施計画報告書』(南城市教育委員会,2013)
福島 駿介『沖縄の石造文化』(沖縄出版,1987)
図版:
図1.中谷研究室作成
図2.知念村教育委員会『斎場御嶽-整備事業報告書(発掘調査・資料編)-』の図10に中谷研究室が加筆
図3. p.182福島駿介『沖縄の石造文化』(新報出版, 1987)の図-82石灰岩及び石造建造物の分布
図4.中谷研究室撮影
図5.中谷研究室撮影
図6.中谷研究室撮影
図7.中谷研究室撮影
中谷礼仁/Norihito Nakatani
建築史家。早稲田大学教授。本研究代表者。主な著書『動く大地、住まいのかたち プレート境界を旅する』(岩波書店,2017)、『今和次郎「日本の民家」再訪』瀝青会名義 (平凡社,2012) 、『セヴェラルネス+ 事物連鎖と都市・建築・人間』 (鹿島出版会,2011)、『国学・明治・建築家』 (一季出版,1993)