WINDOW RESEARCH INSTITUTE

連載 国内モダニズム建築の窓ー保存と継承

コミュニティのためのやかた
槇文彦《前沢ガーデンハウス》の窓

大野秀敏

27 Jan 2026

Keywords
Architecture
Columns
Essays
Japan

企業の研修宿泊施設として計画された《前沢ガーデンハウス》は、2024年に逝去したプリツカー賞受賞者の建築家・槇文彦によって設計された。プロジェクトを担当した大野秀敏氏がコンセプトと造形のモチーフをつまびらかにし、その背景にある当時の槇の思想と事務所の様子を追想する。

 

 

槇が示した前沢ガーデンハウスの設計コンセプトは「大きい家」であった。低層であるが垂直性が強い。それには、切妻の妻面や東と南の立面に並ぶ出窓が貢献している。これらの要素が、イギリスの上流階級のカントリーハウスを連想させる。ガーデンハウスの3年前にできた指宿の岩崎美術館(1979)では、「ヴィラ」のイメージを作り出そうとしたと槇が書いている。北国のカントリーハウスと南国のヴィラ、槇文彦のなかに何か物語があるようだ。

  • 正面(東)側外観。竣工式の前日に槇はここで宿泊した。翌朝、朝まだき、槇は前庭に出て長く立面を眺めたと朝食時に、私に向かって呟いた。自分が設計した建物に泊まるのは初めてだと言っていた

こういう「大きな家」はやかたという。
館は広大な自然のなかになければならない。館は、普通の意味の別荘とはちがって部屋数が多い。それは自分が住むだけでなく人を招く場所だからである。大きい食堂があり、たくさんの人が集まれるホールがある。それはホテルと似ているが、お金を払えばだれでも泊まれるホテルと館はちがう。館には主人の親しい人だけが招かれる。だから館にあるのはコミュニティである。

 

凸と+

この建築の造形を理解するためには、これに先立って完成した自邸(1978)や岩崎美術館、デンマーク大使館の公邸(1979)で使われた造形のモチーフに注目する必要がある。それは凸と+である。これらがガーデンハウスにも引き継がれ、この時期の槇スタイルの中心をなしている。凸は切妻の家形に置き換えられることからもわかるように、その意味するところは「家」である。+はだれもが思い浮かべる窓割りだと槇自身が説明している。いずれも人々の深層にある家の記憶を呼び覚ます象徴である。凸は、1960年代にブルータリズムの建築が好んだ頭が重いの転倒である。槇も初期の立正大学熊谷校舎(1966)や第1期ヒルサイドテラス(1969)で使っているが、早々に安定した凸に向かう。ガーデンハウスでは、切妻の枠組みのなかに、凸と+が、スケールを変えて、随所に繰り返し埋め込まれている。

この建物でもっとも印象的な要素は個室の出窓であろう。4室の出窓を一つにまとめてガラスの塔を作っている。個室の区画の壁の端部と床板の端部が交差してここでも十字が現れる。この出窓は1階の張り出しに載って凸形を作る。それが東側と南側の各面に3個ずつ並んでいる。西の庭側に回ると、ここにも打ち放し仕上げの暖炉と煙突が作る凸が現われる。大研修室の出窓も凸なので合計8個になる。その効果は、切妻の強い形に支配された大きな枠組みのなかに、個室、ラウンジ、研修室などの部分に強い独立性を与えることにある。

  • セミナー室(大)の窓。セミナー室(大)の窓も凸状の出窓形式である。芝生で覆われた庭園として整備される前は、工事廃材の捨て場であった。竣工間際に大量の土を持ち込み一挙に地形を作った。竣工後40年余、木々が育ち、昔からあったかのように見える。窓外に見える東屋は筆者設計(2019竣工)

セミナー室(大)では凸のボイドが庭に飛び出し、内部から見ればガラスで囲まれたニッチになる。さらに、この凸型の図像は窓割りにも現れる。ホールの庭側の正方形に分割された大窓は、透明ガラスとガラス繊維シートを挟んだ半透明ガラスを使い分けて凸型をあぶり出している。螺旋階段の背後のガラスブロックの窓に透明ガラスのサッシを入れて逆凸を作っている。

 

なぜ「大きい家」なのか

まず、槇は、住宅に強い関心を持ち続けたことを書いておいた方がいいだろう。特に、80年代になると、大型の建物が増えて、ヒルサイドテラス以外には住宅の設計から遠ざかるが、槇の細やかなスケール感やディテールは住宅的な関心から出たものだ。私が在職した時期(1976〜1983)では、自邸では吉村順三の住宅が意識されたし、デンマーク大使館の社内打合わせではルイス・カーンの住宅がよく話題に上った。村野藤吾の松寿荘(現存せず)の内覧会の後にはたいそう感激した様子であった。「大きい家」とは、家族も含む親密な人間集団、つまりコミュニティのための場所という意味が含まれている。

  • 家族室の出窓 出窓と居室の間には、障子、板戸の2枚の引き戸を仕込んでいる。開け放つと開放的な部屋になる。かつてカーター元大統領もこの部屋に宿泊した。
  • 個室の出窓。当初はカーテンで仕切っていたが、2019年の改修時に、家族室と同じ仕切り方に変えた
  • 個室の出窓

槇は、夏の間の週末は、軽井沢で過ごした。その別荘について随筆で触れている。そこは「ふたりの学者(ひとりはそこの地主であった)によって開発された。ふたりが決めたルールは、①それぞれの別荘に門や塀を設けない。②中央に原っぱを確保し、午前中は学者の勉強の邪魔にならないよう、そこに子供や孫たちのための小さな学習塾をつくり………原っぱに東屋が設けられ、テニスコー卜があり、運動会、花火大会などの数々の催しが開催される」。現在は、会員は1000人を超し4世代にまたがるという。「南原コミュニティの特色は、夏にはかならず同じメンバーが顔を合わすことである。私はこれを『夏の定住社会』と称した」

この文章は、槇の著作集のなかの「Another Utopia」という節にまとめられているから、槇にとっての理想郷であり、コミュニティの一つの姿だったのだろう。日本に郊外住宅地が生まれたのは大正デモクラシーの時期である。その時代の精神風土に大きな影響を与えたのが、白樺派である。そのリーダー格の武者小路実篤らは九州にコミューンを作った。南原の別荘地とつながる民主主義の原型が窺える。槇が影響を受けた建築として頻繁に話題にする土浦亀城邸はその頃にできた。槇は、建築に止まらず、土浦夫妻が実践した郊外生活に対する共感もあったのかも知れない。

  • 2階廊下の換気窓。横軸回転で、ホールと2階廊下の間の換気を行う。最上段は排煙区画なので鉄枠。下部は木枠である
  • 2階廊下の換気窓

戦後になると、民主主義の精神を体現した都市空間として住宅団地が前面に出てくる。両者は同じ民主主義を建築化しているが、前者は主に個人の資格で担われたのに対して、後者は官僚組織によって担われる。1970年に『新建築』の求めに応じて、槇は当時の若手の複数の建築家の作品の批評を寄稿している。そこで槇は「私は教祖と政治家は本能的に警戒することにしている」と書いている。その反骨精神は、大正デモクラシーの揺籃となった東京の山手の文化から流れ込んでいるのではないだろうか。それが、新国立競技場問題で槇が異議を申し立てをしたことにつながる。

  • バーカウンター脇の窓。数奇屋のような分割した窓

前沢ガーデンハウスは、YKKの海外工場で働く外国人社員の研修宿泊施設として建てられた。槇が、目指したのは、世界中から集まる人たちの短い「定住社会」であり、そのための場として、カントリーハウスや日本の大型の民家など、豊かな「大きい家」を、現代に呼び込みたいと考えたのではないか。

 

事務所というコミュニティ

私が槇総合計画事務所に在職したのは1976年から1983年である。そのころ事務所は日本橋三丁目の交差点近くの事務所ビルにあった。

ここまで、私は敬称を略して書いてきたが、実は、事務所では所員は「槇さん」と呼び、槇さんは昨日入った所員も年長の所員も「さん」付けで呼んでいた。建築プロジェクトの部屋には、B全の製図板と脇机を一組みにした席が約20人分向かいあわせに並び、その一つを槇さんが使っていた。アイディア出しは、早くから槇さんがスケッチを示すこともあれば、所員のスケッチを発展させることもあったが、常に槇さんを囲んで案や設計を進めることは変わらなかった。槇さんが何度も平面図や立面図に赤鉛筆で重ね描きし、所員が模型を作り、案を練り上げてゆく。事務所もまた一つのコミュニティであった。

 

 

窓の事例集
前沢ガーデンハウス
27 Jan 2026

大野秀敏/Hidetoshi Ohno

株式会社アプルデザインワークショップ代表取締役所長、東京大学名誉教授。1949年、岐阜市に生まれる。1975年、東京大学大学院工学系研究科建築学専攻修士課程修了。博士(工学)。1983年、株式会社槇総合計画事務所退職。2015年東京大学教授(新領域創成科学研究科環境学専攻、工学部建築学科兼担)退職。主な建築作品と受賞にインド工科大学の校舎群、はあと保育園、東京大学カブリ数物連携宇宙研究機構棟(2011 日本建築学会賞)、YKK黒部事業所YKK丸屋根展示館、NBK関工園 事務棟・ホール棟 (1992 新日本建築家協会新人賞)など。主な著作に『ファイバーシティ—縮小の時代の都市像』(大野秀敏、MPF著、和英、東京大学出版会、2018)がある。

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