WINDOW RESEARCH INSTITUTE

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東西南北風の吹き抜ける家 
林芙美子邸(現・林芙美子記念館) 

田中厚子(研究者)

19 Dec 2023

Keywords
Architecture
Columns
Essays
Japan
Literature

昭和を代表する作家・林芙美子(1903-1951)は戦時下の1941年、東京・下落合(現在の住居表示は中井)に居を構えた。建築家・山口文象に設計依頼をするも、自らも大量の書物を参考にし、時には京都まで事例となる建築の見学へ赴き、積極的に設計に参加したという。風通しに主眼をおき、窓にも余念がなく工夫が施されたこの住宅は林の住まいへの強い思いを反映する。

 

朝起きたらまず窓を開け、新鮮な空気を取り入れたい。よく晴れた日は、窓を全開して家中に風を通したい。日本では昔から室内を風が澱みなく抜ける家が良いとされてきた。『放浪記』などで著名な作家、林芙美子は自邸を建てるにあたり「東西南北の通風は、日本のような風土では是非必要だ」と考えた。幼い頃から方々の土地で暮らしを体験した芙美子は、「風土」というものを肌で感じ、快適な住まいへの夢を膨らませていたのだろう。芙美子が1941年、37歳の時に下落合に建てたこの家は、主屋と離れが東西に長く連なる、風通しの良い和風住宅だ。

福岡県門司で生まれた林芙美子は、行商人の母と養父に伴われて、幼少期から九州各地を転々とし、19歳で上京した。生活のために様々な仕事をしながら文学の道を志し、25歳で著した『放浪記』の成功で作家になった。1931 年11月、27歳の時に渡欧、主にパリとロンドンに滞在し、翌年6月に帰国する。当時ベルリンに留学していた建築家の白井晟一とパリで出会ったことはよく知られている。

  • 庭から寝室、次の間、書庫を見通す

帰国後は下落合の洋館を借りて、およそ9年間住んでいた。しかし井伏鱒二が「植民地の領事館のよう」といったその洋館での暮らしは、少しも落ち着かなかったようで、のちに「つくづく西洋館は嫌だ」と記している。「居心地良く暮らす家というものは、どんな贅沢もいらない。人に見て貰う為の家よりも、住み心地のよさというものが根底なのだと、巴里から戻って、私は小さい日本の家と云うものを考え始めた」と記したように、西欧での体験は和風回帰の引き金となった。同時代に渡欧した吉屋信子も1936年に吉田五十八の設計で数寄屋造りの自邸を牛込に建てている。すでに人気作家だった吉屋は一時期下落合に住んでいたことがあり、芙美子とは交流があった。

  • 茶の間から中庭を介して寝室を見る

日中戦争が始まると、芙美子は上海、南京などに赴いて従軍記者として働き、1939年に現存する下落合の自邸の土地を購入した。設計は吉田五十八ではなく、芙美子と同じ頃に渡欧していた山口文象に依頼したが、新居の参考にするためだろうか、夫の手塚緑敏を伴って牛込の吉屋邸を訪れている

 

  • 主屋にある洗面所と浴室の中庭に面した窓

ヒエラルキーのないコラージュのような平面構成

当初は一棟として設計が始まったが、戦時の建築規模の制限によって一棟の床面積が30.25坪以下とされ、芙美子と手塚の名義の2棟を並べる計画になった。主屋(東棟)は、南の庭に面して広縁と茶の間、庭に突き出た小間があり、北側に女中室、厨房、西側に浴室と洗面所が並ぶ。伝統的に南側を占める客間は北東に置かれ、従来の家父長制の格式ばった平面構成は踏襲されていない。離れ(西棟)には寝室と書斎とアトリエが並ぶ。当初、芙美子の書斎は、現在の寝室の位置だったが、明るすぎたのか間もなく納戸になっていた真ん中の部屋を書斎に造り替えた。離れには出入り口がないので、主屋と行き来するには土間に近い次の間のガラス引き戸が使われた。

  • 書斎と雪見障子

山口文象は石本喜久治建築事務所の所員だった1928年に、作家の三宅艶子の家を担当し白いモダニズムの住宅を設計している。山口と芙美子は、洋行前から知り合いだったといわれる。宮大工の家に生まれ、いわゆるエリートとは違う山口への共感があったのかもしれない。芙美子は「設計家の意見をきき、いいアイデアを教はる事が大方だ」としながらも「家を建てるにしても、たゞ人まかせで建てて住むと云ふのは何となく味気ないものだ」と述べ、200冊近くの本を参考にして積極的に設計に関わった。

  • 寝室から庭を眺める

新宿歴史博物館収蔵の芙美子の蔵書の中には複数の住宅関連書が残っている。その中の気に入った写真の脇には「戸袋 竹縁参考」「老人室参考」「壁参考」「襖参考」「離次の間襖参考」「書斎参考」「書斎参考」などのメモが赤鉛筆で記されている。たとえば「障子参考」というメモが書かれた堀口捨己設計の住宅の茶室の外観写真は、離れの北側の障子に似ているし、また「主屋茶の間廊下戸袋」というメモが書かれた外観写真は、茶の間の南側の竹簀のようで、実際に参照されたことがわかる。さらに芙美子は、山口文象建築設計事務所の担当所員の角取と大工の渡辺を連れて、10日あまり京都を見てまわった。その時に、宇治の平等院の寺の台所にあった太鼓張りの障子を見て、それをアトリエの北面の窓に用いている

  • 茶の間南側の竹簀

「客間には金をかけず、茶の間と風呂と厠と台所には十二分に金をかける」という芙美子の斬新な考えに加えて、様々な住宅の気に入った部分を取り入れたことにより、この住宅はコラージュのようにも見えるが、ヒエラルキーのない茶の間中心の平面構成、おおらかな屋根のプロポーションなどに建築家の存在が感じられる。山口はこの家について言及せず、作品として発表することはなかった。

建具と仕上げの工夫

アトリエ以外すべての部屋が和室のこの家では、壁や天井、そして建具への強いこだわりが随所に見られる。縦格子戸、横格子戸、雪見障子が多用されるなかで、最も近代的なのは、主屋の広縁のガラス引き戸であろう。およそ2尺×6尺の大きなガラスを嵌めた、縦桟1本だけの引き戸が開放的に庭と室内をつないでいる。この広縁と茶の間の小壁には、障子欄間があり、その障子を開閉することで通気が調節できる。芙美子の母のための小間、そして編集者を通す客間を含め、どの居室も二方向以上の開口部があって、風の道が確保されている。

  • 南庭に開放された広縁のガラス引き戸
  • 茶の間から広縁を通じて小間へと繋がる

離れの東南の角にある寝室は、明るい数寄屋風で、中庭に面した窓の手すりが特徴的だ。だが最も印象的なのは、次の間とアトリエを結ぶ北廊下だろう。雨戸を開け放った廊下には何の建具もなく、ただ上から太鼓張りの障子が下がっている。廊下から竹簀を介して厠があり、手水鉢との向こうに北庭が見える。芙美子が納戸を改修して書斎にした部屋から北庭を見ると、壁下半分の開口の奥に大徳寺孤篷庵忘筌のような上だけの障子が見え、さらに竹簀と庭があるというように空間が幾重にも連なっている。また夜、北廊下の雨戸を閉めた時にも厠に出られるよう、左端の雨戸には扉が造作されている。

  • 書斎から北庭を見る。庭との境界に太鼓張りの障子が下がっている
  • 北庭から書斎を見る
  • 雨戸に造作された扉

芙美子が重視した台所、風呂、女中室も丁寧に造られた。4畳の台所の人造石研ぎ出しの流しの前は全面出窓で北側の暗さを補い、腰までタイル張りの檜の風呂場の窓の上の小壁には、細長い通気口が取り付けられている。風呂場の隣の洗面所は、廊下や広縁の延長にあり、動線や通気にも役立つ。極めつきは女中室で、その造り付け2段ベッドの脇の窓は、3種類の引き戸(格子戸、雨戸、曇りガラス戸)がすべて引き込みできるすっきりした収まりになっており、廊下に面した扉の無双が通気を確保している。

 

  • 北側に面した台所の全面出窓
  • 浴室の窓。上部に通気口がつく
  • 女中室の窓(格子戸と雨戸)
  • 女中室の窓(曇りガラス戸)

芙美子には、床柱や銘木へのこだわりはなかった。その代わり「もうせんに、芝の露月町の古着屋で黄八丈を一反買ったのを、私は部屋の襖の腰張りにつかってみた」というように住まいを愉しくすることには貪欲だった。そして足元の冷たさを避けて、便所にはタイルを張らずに板張りにするなど、肌で感じる仕上げにこだわった。この住まいを見ていると、身体性というものは寸法ばかりでなく、材料の触感や空気の流れに深く関わっていることがよくわかる。芙美子は自分の思うようにこの家を造り、47歳で亡くなるまでの最後の10年を過ごした。日々の質実な暮らしに寄り添った、風通しの良い骨太の住まいである。

窓の事例集
林芙美子邸
19 Dec 2023

田中厚子/Atsuko Tanaka

東京都生まれ。神奈川大学非常勤講師。東京藝術大学美術学部建築科及び同大学修士課程修了。Southern California Institute of Architecture修士課程修了。博士(工学)。米国とカナダでの9年の生活から、日米建築交流史、建築のジャポニスム、住宅と女性を中心に研究。東京藝術大学建築科助手(1991-93)、日本工業大学・東京電機大学・武蔵大学・神奈川大学非常勤講師(2008-17)、芝浦工業大学建築部建築学科特任教授(2017-21)。主な著書に『土浦亀城と白い家』(鹿島出版会、2014)、『アメリカの名作住宅に暮らす』(建築資料研究社、2009)、『ビッグ・リトル・ノブ ライトの弟子女性建築家土浦信子』(共著・ドメス出版、2001)、『アメリカの木造住宅の旅』(共著・丸善、1992)など。

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