
19 Jun 2025
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イタリアで生まれ、ブラジルに渡った世界的建築家、リナ・ボ・バルディ。その活動は代表作《サンパウロ美術館(MASP)》や《セスキ・ポンペイア》など建築分野にとどまらず、編集者、舞台設計者、キュレーターとしても精力的に活躍し、ブラジルの芸術・社会に大きな影響を与えた。リナが第二の拠点としたサルヴァドールのリノベーションプロジェクトの「窓」から、彼女の都市へのまなざしを読み解く。
建築家リナ・ボ・バルディ(Lina Bo Bardi、1914–1992)は1946年にイタリアからブラジルへ移り、最初の作品である自邸《ガラスの家(Casa de Vidro)》がサンパウロに竣工した1951年、ブラジルに帰化したとされている。生涯拠点としたサンパウロと並び、リナの活動を見るうえで重要な都市が、ブラジル北東部にあるサルヴァドールである。今も残るリナが手掛けたプロジェクトを見るために、われわれの調査もサンパウロからサルヴァドールへと移動した。サルヴァドールはトロピカーリア・ムーブメントの多くのメンバーの出身地でもある。本稿では、トロピカーリア・ムーブメントが始動する前の1960年前後における、リナを中心としたサルヴァドールのカルチャーシーンに触れつつ、1980年代にリナが手掛けたサルヴァドール旧市街のリノベーションプロジェクトにおける窓について考えてみたい。
リナ最初の滞在:トロピカーリア前夜のサルヴァドールの文化シーン
バイーア州の州都サルヴァドール1は、ブラジルの総督府としてポルトガルが1549年に建設した、ブラジル最初の首都である。砂糖産業によって栄華を誇ったこの都市には、今もポルトガル・バロックの建物が立ち並ぶ。しかし内陸部で金が発見されると経済と政治の中心は金鉱地帯へと移り、さらに1763年に総督府がリオデジャネイロに移転したことで、サルヴァドールは国の発展から取り残された。その結果、17世紀と変わらない都市の姿が残り、1985年には旧市街が世界遺産に登録されている2。
コスモポリタンなリオやサンパウロに比べ、アフリカ移民の子孫が多いこの都市には、格闘技カポエイラや民間信仰カンドンブレなど、アフリカ由来の独自の文化が根付いている。こうした豊かな地域文化のもと、トロピカーリア・ムーブメントを代表するミュージシャンであるジルベルト・ジル(Gilberto Gil、1942–)やガル・コスタ(Gal Costa、1945–2022)らがこの土地で育った。カエターノ・ヴェローゾ(Caetano Veloso、1942–)も、18歳のときバイーア州内の都市から引っ越してきて、ジルらと出会うことになる。彼らがまだ学生で、音楽、映画、演劇といった前衛文化が花開きつつあった1958年から軍事政権が成立する1964年まで、リナはサルヴァドールを第二の拠点として活動している。
リナのサルヴァドール滞在のきっかけは、バイーア連邦大学学長のエヂガール・サントスが芸術関連分野に力を入れ始め、リナのような移民を含めた文化人を大学に招聘し始めたことだった3。さらにサルヴァドールに美術館をつくることを望んでいた当時のバイーア州知事が、サンパウロ美術館で展覧会の企画を行っていたリナをバイーア近代美術館(Museu de Arte Moderna da Bahia、以下MAMB)の館長に招聘したことで、リナの長期滞在が決定する。そしてMAMBは1960年、直前に火事に遭って半壊したカストロ・アルヴィス劇場のロビーを仮の拠点として開館した4。この時MAMBでリナのアシスタントを務めていたのが、シネマ・ノーヴォの中心人物で、トロピカーリア・ムーブメントに大きな影響を与える映画監督のグラウベル・ホッシャ(Glauber Rocha、1939–1981)である5。そしてこの時期のリナの重要なコラボレーターに、バイーア連邦大学の演劇学部長マルティン・ゴンサルヴィス(Eros Martim Gonçalves、1919–1973)がいる。アルヴィス劇場の焼け焦げたステージを用い、リナが舞台設計を行ったブレヒトの『三文オペラ』上演6、バイーアの民衆芸術を紹介する展覧会7──ゴンサルヴィスは民衆芸術のコレクターでもあった──など、刺激的なプロジェクトを二人はともに実践していた。
こうしてMAMBでは地元のアーティストの作品に加え、サンパウロ美術館所蔵のヨーロッパの名画も紹介され、充実した企画を次々と開催していた。ヴェローゾの自伝『熱帯の真実』には、ヴェローゾが妹のベターニアとともに「MAMBの展覧会、演劇学部の上演、映画クラブやカーザ・ダ・フランサに通って美術映画を見ていた」8と記述があり、当時のMAMBが多感な若者が通う最先端のカルチャースペースであったことがうかがえる。
このように当時のサルヴァドールでは、州知事や連邦大学長らの改革によって前衛文化シーンが賑わいを見せていた。すべての学生たちがその改革を歓迎していたわけではないようだが9、若きトロピカーリアの面々はその環境を享受していた。リナは建築家というより文化人、キュレーターとして、知事らと若者たちの中間でその文化シーンをつくっていた。トロピカーリア・ムーブメントにリナの直接的な影響があったとは断言できないが、トロピカーリアが生まれる舞台をつくりあげたひとりがリナであったといえる。またMAMBでの経験は、リナにとってブラジルの民衆文化に深く関わっていく転機にもなった。こうして展覧会を通して無名の民衆の文化をとりあげ、既存の構造を反転させたリナの活動は、トロピカーリアのもつカウンター性とも共通する10。MAMBは1963年に、16世紀の複合建築をリナがリノベーションした《民衆文化伝承館(Solar do Unhão)》へと移り、民衆芸術の美術館と研究施設、学校を含む複合施設としてリニューアルしたが、翌1964年の軍事政権成立により計画は頓挫し、リナもサンパウロへ戻ることになった。
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《民衆文化伝承館》(1963)
リナのリノベーションにおける窓と都市
リナが去った後、軍事政権下の20年間でサルヴァドールの街は荒廃していった。1985年の軍事政権打倒と旧市街の世界遺産登録を経て、都市の劣化を止めるための新たな計画が求められた。当時の市長マリオ・ケルテスは文化人類学者ホベルト・ピーニョをチーフとして、市の都市計画部門に旧市街の修復のための特別プログラムを設け、この街と関わりの深いリナにもこのプログラムへの参加を依頼した11。自身も愛した街の荒廃を目にしたリナは、「重要な建築を保存するのではなく、人々の魂を守る」ことを目指して12、古い建物をそのまま保存したり、観光地化したりするのではなく、住民の暮らしと独自の文化を守ることを重視した計画を提案した。都市の中に点在するいくつかの建物を文化施設として修復・改装し、それらの点をつなぐ線として、広場やワゴンの計画を行った13。
そのうち都市の中心部に建つ《ベナンの家(Casa do Benin)》(1987)は、サルヴァドールの市民の多くがルーツをもつベナン共和国の文化の展示・交流施設である。リナのリノベーション作品によく見られるシンプルな手法がとられ、構造を補強しつつ床を一部取り払い、1階から長手方向に伸びる階段を挿入することで開放感を生んでいる。屋上に立ってみると、この建物が谷地にあり、サルヴァドールのバロック建築に四方を囲まれる立地であることがよくわかる。施設のスタッフに3階の窓から外を見るよう促され木戸を開けてみると、旧市街の重要な広場ペロウリーニョへと上がる坂が一望できた。
《ベナンの家》を実際に訪れて生まれた仮説は、リナが修復する建物を選ぶ基準に、その窓から見える風景があったのではないかということだ。建物の歴史的な重要性や地図上の立地だけでなく、その建物から見える都市のありよう、都市そのものの歴史や美しさを体感できるかどうかが、基準としてあったのではないだろうか。
そのうえで、サルヴァドールにあるもうひとつのリナが手掛けた窓へと目を向けてみたい。中心部から少し離れたところにある《グレゴリオ・ヂ・マトス劇場(Teatro Gregório de Matos)》(1986)の窓である。ここはグレゴリオ・ヂ・マトス財団と劇場を収容する文化施設としてつくられ、今も同名の劇場として運営されている。コンクリートの螺旋階段を上がった上階が劇場空間──舞台も客席もない徹底的にシンプルな劇場である──になっており、その奥にコンクリートのバーカウンターをもつ小さなスペースがある。薄暗いこの空間にある大きな重い木戸を力いっぱい押し開けると、巨大な不定形の窓──ガラスは挿入されていないので、むしろ穴と言った方が近い──が現れ、外光と風が一気に内部空間へ差し込み、空間のありようが一変した。同時に、窓の向こうにはサルヴァドールの街並みが、この劇場の主役のように現れたのだった。
この不定形の窓は、《セスキ・ポンペイア(SESC Pompeia)》(1982–1986)以降のリナのプロジェクトに採用されているが、小さめの窓が複数開いている《セスキ》と異なり、《マトス劇場》にはひとつの巨大な窓が設けられている。劇場スタッフによると、この窓は劇場の名前にもなっている17世紀のサルヴァドールの詩人グレゴリオ・ヂ・マトスの、その熾烈な物言いからつけられた別名「悪魔の口」に由来しているという。リナが本当に口をイメージしてこの窓を開けたのかは定かでないが、窓から飛び込んでくる光、風、都市風景という外部環境に内部空間が飲み込まれるさまは、「悪魔の口」に喰らわれるような動感をもたらしている。なお、グレゴリオ・ヂ・マトスは、ポルトガル語にラテン語や先住民の言語を混ぜた独特の表現を用い、既存の秩序を破壊する風刺的な作風といった、「食人宣言」(1928)を書いた詩人オズワルド・ヂ・アンドラーヂとの共通点から、後年「最初の食人者」とも評された14。またヴェローゾは1971年、軍事政権に追われ亡命した先のイギリスで、マトスの詩に曲をつけた「哀しみのバイーア(Triste Bahia)」15を収録している。
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《グレゴリオ・ヂ・マトス劇場》バースペースの窓
外部環境の「詩」を内部へ侵入させること
建築外部の都市と分かち難く結びついている2つの窓のうち、《ベナンの家》の窓は内から外への視線を導くものであったが、《マトス劇場》の窓は外から内への積極的な侵入を演出するものであった。外からの侵入を促すことは、「住宅を極度に自然へと近づける」ことを目指した《ガラスの家》にも共通する。1953年のリナの言葉を引用して言い換えれば、建築内部において雨風といった「物理的な」危険の侵入は防ぎながら、外部の「詩的で倫理的なもの」と関わることである16。
《マトス劇場》では、仄暗い寡黙な空間において、重い木戸を開ける行為によって、迫り来る動的なものとして外部環境が演出される。それは演劇装置としての窓と呼べるかもしれない。前述の通り舞台設計やキュレーションも行っていたリナの作品には、しばしば演劇的な空間が登場する。サルヴァドールのリノベーションでは、荒廃した都市の住民たちに、彼らの誇るべきルーツへ目を向けさせるという目的があった。アフリカ文化や前衛文化といった独自の文化をとりあげると同時に、窓という演劇装置によって、サルヴァドールの都市そのものの力を心に迫らせたのではないだろうか。
そしてサルヴァドールには、植民地時代の階級や軍事政権など、権力に対して民衆の側に立ち、時に議論を巻き起こしながら抗ったアーティストたちの系譜もある。リナは舞台設計者、キュレーター、建築家として、中間的な立場にいながら、彼らのコンテキストを建築の中に紡いでいる。《マトス劇場》に開けられた「悪魔の口」は、17世紀から20世紀へ、マトス、リナ、ヴェローゾへと、サルヴァドールに編まれたカウンターカルチャーの歴史も映している。
注釈
1:正式名称はサン・サルヴァドール・ダ・バイーア・デ・トードス・オス・サントス。
2:中岡義介、川西尋子『ブラジル都市の歴史:コロニアル時代からコーヒーの時代まで』明石書店、2020年、pp.129-130
3:Zeuler R. M. de A. Lima, Lina Bo Bardi, Yale University Press, 2013, p.85
4:前掲注3、pp.92-94。
5:すでに監督やジャーナリストとして活動し始めていたホッシャは、MAMBのオープン時に「MAMBは美術館ではなく、アートと人々を切り離さないための学校であり“ムーブメント”だ」と、リナのスピーチの引用を見出しに掲げたレポートを新聞に書いている。Glauber Rocha, “MAMB Não é Museu: é Escola e “Movimento” Por Uma Arte Que Não Seja Desligada do Homem”, Jornal da Bahia, September 21, 1960.
6:Marcelo Carvalho Ferraz(ed.), Lina Bo Bardi, São Paulo, Instituto Lina Bo e P. M. Bardi, 1993, p.144
7:第5回サンパウロ・ビエンナーレでの「バイーア・ノ・イビラプエラ(Bahia no Ibirapuera)」展など。前掲注6、p.134
8:カエターノ・ヴェローゾ著、国安真奈訳『熱帯の真実』アルテスパブリッシング、2020年(原著1997年)、p.89
9:ヴェローゾは『熱帯の真実』新版の序文にて、左翼学生たちはサントス学長の「芸術関連の無駄な出費」に対して抗議していたこと、リナを招聘した州知事ジュラシー・マガリャンエスが独裁者ジェトゥーリオ・ヴァルガスによって任命され、そのまま政界を長年牛耳っていたいわくつきの軍人であることも記載している。ヴェローゾはこうした左翼学生のなかで疎外感を感じていたとも書いているが、芸術分野の改革は学生たちから全面的に歓迎されていたわけではないようだ。前掲注8、pp.17-18。
10:リナとトロピカーリア・ムーブメントの関係性については以下も参照。Marcelo Ferraz, “Lina e a Tropicália”, 2008, in Ao lado de Lina, WMF Martins Fontes, 2025.
11:市による修復プログラムの中には第4回で紹介した建築家ジョアン・フィルゲイラス・リマ(レレ)のチームもあり、レレにより波型のプレハブコンクリートが考案され、壊れかけた建築の補強に使われた。リナも《ベナンの家》などでこのプレハブコンクリートを用いている。前掲注3、p.185。
12:Lina Bo Bardi, personal notes, c.1986(前掲注6、p.270)
13:残念ながら、1988年に就任した新市長が計画に同意せず、このプロジェクトは完全には実現していない。「点」となる建築の一部は完成したものの、リナの計画において重要であった、広場やワゴンの計画、商店や住宅といった、文化と暮らしをつなぐ「線」の部分は実現しなかった。和多利恵津子編『リナ・ボ・バルディ:ブラジルにもっとも愛された建築家』TOTO出版、2017年、pp.121-128。
14:Samuel Anderson de Oliveira Lima, “Gregório de Matos, nosso primeiro antropófago”, Anuário de Literatura, [S. l.], v. 21, n. 1, p. 46–57, 2016. DOI: 10.5007/2175-7917.2016v21n1p46
15:カエターノ・ヴェローゾ『トランザ』(1972年)収録。
16:Lina Bo Bardi, “Residencia no Morumbi,” Habitat, n. 10 (January-March 1953), p.40.
杉山結子/Yuiko Sugiyama
1993年神奈川県生まれ。2016年東京大学工学部建築学科卒業。2018年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻修士課程修了。現在同博士課程在籍、ワタリウム美術館勤務。主な論文に「ブラジルにおけるリナ・ボ・バルディの合理主義思想の変化」(日本建築学会計画系論文集、2020年8月)など。ワタリウム美術館にて「リナ・ボ・バルディ展:ブラジルが最も愛した建築家」(2015)および同展カタログ(TOTO出版、2017)の解説テキスト、東京都との共催企画「パビリオン・トウキョウ2021」などのプロジェクトを担当。
辻優史/Masafumi Tsuji
写真家。1993年神奈川県横浜市生まれ。ドイツ在住。多摩美術大学造形表現学部映像演劇学科を卒業後、映像の習作として始めた写真を主軸に、本や空間を使った実験的なプレゼンテーション、建築家やデザイナーとのコラボレーション、展覧会やポップアップスペースのデザインなど、作家としてさまざまな活動を行う。おもな出版物に『Language: The documentation of WOTA office project / mtka』(mtka、2023)、『Everything is Repeating』(杉崎広空、2023)、『SM (smoke)』(w/、2024)などがある。
https://www.masafumitsuji.jp/
本記事は、窓研究所2022年度研究助成に関連していますが、研究成果とは内容・主旨が異なります。