
29 May 2025
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ジョアン・フィルゲイラス・リマ(1932-2014)、通称「レレ」は、プレファブリケーションをはじめとする建設プロセスの合理化やパッシブな気候制御によるエコロジカルなアプローチを追求したブラジルの建築家である。第4回では、レレがキャリアの出発点として参加した新首都ブラジリア建設の「デザイン」の裏にある建設現場の問題と、その後の歩みの中で彼の設計した光庭・ドーム・通気口からブラジル近代の矛盾を読み解く。
「クレープ紙と銀」の都市
1968年、ブラジルのミュージシャンであるカエターノ・ヴェローゾは、ソロでの初作品となるセルフタイトル・アルバム『カエターノ・ヴェローゾ』(邦題『アレグリア・アレグリア』)をリリースする。このアルバムの冒頭に収められた楽曲「トロピカリア」は、ヴェローゾらの活動を発端に起こった文化的ムーブメントである「トロピカーリア」を代表する一曲だが、その歌詞のなかに──具体的な名称を口にすることなく──繰り返しあらわれるのが、「国の中央高原にあるモニュメント」、すなわち、1960年に落成した新首都ブラジリアの存在である。
1956年に大統領に就任したジュセリーノ・クビチェックのリーダシップのもと建設が進められたブラジリアは、同国における近代化の象徴であると同時に、ルシオ・コスタ(Lúcio Costa、1902–1998)による都市の全体計画である「パイロット・プラン(Plano Piloto)」と、オスカー・ニーマイヤー(Oscar Niemeyer、1907–2012)の設計による主要な建築群から構成される、モダニズムの建築・都市計画のひとつの達成ともいえるものだった。
ただし、ヴェローゾが「トロピカリア」のなかで歌うブラジリアは、上記のような輝かしいだけのイメージではない。曰く、このモニュメントの材料は「クレープ紙と銀」にほかならず、そこには「ドアがなく、その入り口は狭く曲がりくねった古めかしい通り」である──そしてその「膝の上では、笑顔で醜い子どもの死体が、手を伸ばしている」。研究者のクリストファー・ダンがヴェローゾの楽曲について「ブラジルの歌における寓喩的表現のもっとも際立った例のひとつ」であると述べるように、ここではモダニティの記念碑としてのブラジリアが実のところ一種のハリボテであり、その裏に後進性の矛盾を抱え込んでいることが、巧みなイメージの並置によってほのめかされている。
建設現場からの出発
しかし、このように「トロピカリア」の歌詞で描かれるブラジリア──ひいてはブラジルの近代化それ自体──の矛盾を、もっとも間近で切実なものとして感じていたのは、その建設に直接かかわった(とりわけ若手の)建築家たちかもしれない。たとえば、ブラジル出身の建築家・建築理論家であるセルジオ・フェロ(Sérgio Ferro、1938-)は、ブラジリア建設の実態を目撃したことをひとつの契機として、のちに「設計(デザイン)」と「建設」の関係をめぐる理論を練り上げることになるが、その当時より「ジュセリーノ・クビチェックによる喧伝、オスカー・ニーマイヤーとルシオ・コスタによるデザイン、そして彼らに奉仕する労働者たち」のあいだの不和を感じていたと語る。彼によれば、ブラジリアの建設現場の現実を適切に捉えるためには、ニーマイヤーとコスタによる「デザイン」だけではなく、その背後にある貧困と搾取、および(建設プロセスと癒着した)企業利益にも目を向けなくてはいけないのだった。
ニーマイヤーのもとでのブラジリア建設への参加をキャリアの出発点とした、通称「レレ(Lelé)」こと建築家ジョアン・フィルゲイラス・リマ(João Filgueiras Lima, 1932-2014)もまた、その「デザイン」の裏にある建設現場の実態に大きな問題意識を抱いたひとりであった。ブラジリアをめぐる後年の述懐において、レレは「自然物の破壊であれ、労働力の搾取であれ、建設業が許容する暴力行為には、断固として反対しなければならない」と(おそらく怒りを込めて)語っているが、労働者のみならず、自然環境の破壊──「ブラジリアでは河畔林が破壊されている。パラナマツは一体どこに消えたのか? それらが成長するには40年もかかるのだ」──にも目を向けるレレのその後の歩みは、プレファブリケーションをはじめとする建設プロセスの合理化や、パッシブな気候制御によるエコロジカルなアプローチへの探究に捧げられることになる。
光庭・ドーム・通気口
2024年の9月はじめ、ブラジルの近現代建築に関する調査の一環としてブラジリアを訪れた。到着したのは夜の8時ごろ、クビチェックの名が冠された空港の──ほとんど境界なく外に接続された──エントランスを出ると、すぐ目の前にUberの乗り場がある。宿泊先であるニーマイヤー設計の《ブラジリア・パレス・ホテル(Brasília Palace Hotel)》(1958)へと向かう道路にはひとりの歩行者もひとつの信号もなく、すべてがスムーズである。ヘッドライトで照らされるアスファルトの表面と、遠くに見える都市の灯りのほかは闇に覆われた視界もあいまって近未来的な都市の印象は強まるが、その滑らかな表面からは、レレたちが苦闘した建設現場の跡は見えない。
翌日訪れたブラジリア大学は、1960年のブラジリアの落成ののち、1962年に開学した大学であり、キャンパス計画を主導したニーマイヤーおよびその協働者であったレレによる建築群が数多く存在する。ニーマイヤーとレレ両者のクレジットが残っている建物としてはたとえば、キャンパスの西側に位置する《ブラジリア大学音楽学部棟(SG4)(Departamento de Música, SG4)》(1962)がある。プレキャストのコンクリートを用いて建設された平屋建てのこの建物は、「SG(Serviços Gerais=一般サービス棟)」と名付けられた一連の建造物のなかの一棟であり、協働者としてのレレの役割がよくわかるもののひとつだろう。一見閉鎖的な外観の建物であるが、跳ね上げ式の扉を開けてなかに入ると小さな光庭があり、プレキャストの梁の隙間から陽光が差し込む、簡素ながら魅力のある空間が生み出されていた。
一方、キャンパスの中央を南北にのびる長大な《中央科学研究所(Instituto Central de Ciências, ICC)》(ニーマイヤー設計、1963-1971)を挟んで東側にある、(レレの友人でもあった)初代学長の人類学者ダルシー・リベイロ(Darcy Ribeiro、1922-1997)の名を冠した《ダルシー・リベイロ・メモリアル(Memorial Darcy Ribeiro)》(2010、われわれが訪れた際は一部改修中だった)は、レレ晩年の作として、また少し異なった表情を見せる。バックミンスター・フラー(Buckminster Fuller、1895–1983)の《ウィチタ・ハウス(Wichita House)》(1946)をいくらか思わせる、上部に通気口を有するドーム状の形態は、1980年代以降レレが取り組むことになるサラ・ネットワーク(Rede SARAH)の病院群のなかにも見られる類型である。しかし、興味深いことにレレ自身はこれを、アメリカ先住民の小屋になぞらえる言葉を残している。すなわち、自身が作品のなかで試みてきた構法や設備についての工夫はすでに、「彼ら〔先住民の人々〕によって直感的なやり方で採用されていた」のだと。
最小限の部材による合理的な建設と、通気口による自然な空気の循環を可能とするドームというモデルは一面において、前述したようなブラジリア以後のレレの歩みにおけるひとつの到達点といえるだろう。しかし同時に、それがヨーロッパによる植民以前──冒頭で触れたヴェローゾの「トロピカリア」は、ポルトガル人ペロ・ヴァス・デ・カミーニャによる15世紀のブラジル「発見」にまつわる語りから始まる──の先住民が有していた知恵と結びつけられることで、ブラジルの過去と未来は混線し、短絡する。「クレープ紙と銀」の都市を超えてレレが見出したのは、そんな寓喩的な歴史のあり方だったかもしれない。
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《ダルシー・リベイロ・メモリアル》(2010)
印牧岳彦/Takahiko Kanemaki
建築史研究。1990年福井県生まれ。2021年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程修了。博士(工学)。神奈川大学建築学部特別助教。 著書に『SSA:緊急事態下の建築ユートピア』(鹿島出版会、2023)、共訳書にハリー・F. マルグレイヴ『EXPERIENCE:生命科学が変える建築のデザイン』(鹿島出版会、2024)など。
辻優史/Masafumi Tsuji
写真家。1993年神奈川県横浜市生まれ。ドイツ在住。多摩美術大学造形表現学部映像演劇学科を卒業後、映像の習作として始めた写真を主軸に、本や空間を使った実験的なプレゼンテーション、建築家やデザイナーとのコラボレーション、展覧会やポップアップスペースのデザインなど、作家としてさまざまな活動を行う。おもな出版物に『Language: The documentation of WOTA office project / mtka』(mtka、2023)、『Everything is Repeating』(杉崎広空、2023)、『SM (smoke)』(w/、2024)などがある。
https://www.masafumitsuji.jp/