WINDOW RESEARCH INSTITUTE

連載 窓をかさねる

第3回 杉浦邦恵 私の窓

杉浦邦恵

19 Jan 2023

Keywords
Art
Columns
New York
Photography

窓は光を部屋の中に入れ、外界が見られるという構造物だが、写真に現れる窓は、主題の背景や説明になっていることが多い。たとえば、ロバート・フランクの『THE AMERICANS』のなかでニューオーリンズの汽車の窓から見える色々な人種の乗客や、アウグスト・ザンダーのサーカス・キャラバンから眺めている子役の子どもといった作品は、そこに写される人に焦点があたりながらも、窓がその構図を支える。あるいは、ウジェーヌ・アジェやリー・フリードランダーはショーウインドーをたくさん撮っているが、それは店というよりもウィンドウ越しに物語を感じるものだと思う。私にとって忘れられない写真としては、9.11のとき、世界貿易センターの高い窓から飛び降りた人たちのニュース写真も挙げられる。

彫刻や絵画でも窓はよく現れ、そのような様々な作品を見てきた。MOMA PS1のジェームス・タレルの『Meeting』は、ある時間になると正方形に天井窓が開き、晴れた日なら深々としたブルーの空が現れ、時折小さな飛行機やかもめが現れ、夜だと星空が現れる。マルセル・デュシャンの『Large Glass』も大きなガラス窓といえるだろう。同じくデュシャンの、いわゆるFrench Windowとの掛け言葉として発表された『Fresh Window』も気が利いているが、久保田成子の『メタマルセル:窓(3つのテープ)』はテレビのスノーノイズを雪に見立て、テレビと窓の組み合わせがおもしろいものだった。あるいは、ジョージア・オキーフのサンタフェのスタジオに行ってみると、天井に届く窓が180度のパノラマに開いていて、遠くの山並みが眼前に迫り、素晴らしい展望の窓だったことも覚えている。

 

私にとって人生を建物とすれば、窓はシカゴからニューヨークに来たことであろう。メタファーとして私の窓はある。建築を勉強したことのない私が窓について仔細に書くよりも、ニューヨークに50年以上住んでいるので、その経験を書いてみたい。「私の窓」から若い人たちに伝えられることもあるかもしれない。

学生時代、ニューヨークに来てみると、街行く人も皆自意識が強くあり、希望や自由を味わっているように感じた。教科書で見たアート作品が目白押しに並んだニューヨーク近代美術館やメトロポリタン美術館は、本物のパワーを突きつけてきたし、その質の高さにも目を奪われた。

それで1967年にシカゴ・アート・インステイチュートを卒業してすぐに、私とクラスメイトのモーリー(Molly Ryan)は夏の間限定のアパートを借りてニューヨークにやってきたのだった。

私は紹介された人に作品をもって会いに行った。なかにはリチャード ・アベドンなどもいて、“自分は仕事を取るのに苦労しているから雇えないけど”といって、次の人を紹介してくれ、その人が次の人をというように、会ってくれる人たちは作品をよく見てくれて、私が英語を話せるかどうかなんて(勿論話せなかったけれど)気にしないで、純粋にサポートする方法を考え出そうとしてくれていると感じた。南部では黒人の学生を警官が護って登校する記事が新聞に載っているような時代であったが、学校では黒人の生徒もいたし、私のクラスの黒人は冗談がうまくて人気者だった。私の体験では、拒絶をおそれないで何回も試みる努力が必要だとは思ったが、ニューヨークはやるだけそれが自分に戻ってくるような場所で、正当さも感じたのだった。

結局、エド・ラトゥーというマンハッタンの30丁目ぐらいにスタジオをもつファッション写真家のアシスタントに落ち着いた。当時はランチを食べるにも1ドル50セントぐらいないと入れなかったので、ぶらぶら散歩して時間を潰し、ヘミングウェイが若い時に空腹でルーブル美術館を周っているとアートがよく見えるなんて書いていたのを思い出したりもした。

自分の作品はというと、写真を使うことで生み出せる絵画作品を作ってみようと構想した。公園や海岸で木、岩、砂利、花などをとってきて、接写することも試した。暗室で感光剤を塗布したキャンバスに写真を印刷し、コントラストが足りない部分は、鉛筆やアクリルで濃い黒にしたし、色々な色を使って加筆もした。1971年に『フォトキャンバス』と名付けたシリーズが完成したので、その様子を収めたスライドを色々なところで見せると、ニューヨーク近代美術館からジョン・シャーカフスキー(「ミラーズ・アンド・ウィンドウズ」展を作った名物キュレーター)もアパートに来てくれて、とても熱心に見てくれ、“展覧会をしよう”といって帰っていった。ところが、その後1年経っても全く連絡はなく、ある日MoMAに映画を見に行ってみると、彼もいたので、“私の展覧会はどうなったのですか?”と聞くと、“あ〜、残念だね。予算が取れなかった”といわれたのだった。そういえば、“予算が取れたら展覧会をしよう”といっていたのだったが、私はその部分をすっかり忘れて、待っていたのだ!

しかし、同じく1971年、誰かの推薦があったのか、ホイットニー美術館のキューレーターのマーシャ・タッカーが突然電話をしてきて、新人の登竜門といわれる「ペインテイングアニュアル 1972年」のメンバーに入れてくれたのは幸いだった。

それからの作品制作は順調には進まず、作品はどんどん絵の部分が増していき、ついに写真の部分をスキップして数年は絵だけを描いていたのだが、その状況をリセットしようと今も住むチャイナタウンにロフトを見つけて引っ越したのだ。

今度は『フォトキャンバス』を離れて、写真と絵を並列させたパネルにしたらどうだろうかと構想した。写真の横の絵の部分は、単なる二次元としてのモノクロームの色にした。写真と色を同時に鑑賞すれば、人はそれらを一緒に吸収して、頭の中で混ぜ合わせるだろうと思ったのだった。写真も、接写をすることで生まれる抽象的なものではなくて、掴みやすい日常のイメージを撮ってみた。木材がスタジオに転がっていたので、キャンバスの周りにつけると彫刻の要素も入ってきて、作品は一気に進んだように感じた。

結果的に、1970年代の「写真+絵画」のシリーズは、大都会の華々しさや激しい生存競争を映すのでなく、私的で孤立し、虚無感さえあるイメージとなったと思う。

 

今も同じ場所に住む私のロフトの窓の木枠は古く、今ではどれも開かないのだが、隙間風が入ってくるのでプラスティックで覆ってしまっている。この記事に挿画として添えた作品『Confucious Plaza』 (1977)は、まだ窓が窓として機能していた頃に、近くの高層アパートを窓から撮ったイメージである。

 

  • Confucius Plaza
    1977
    28”x40” (71.1 x 101.6 cm)
    Photographic emulsion, acrylic on canvas

杉浦邦恵/Kunie Sugiura

1967年シカゴ美術館附属美術大学学士課程修了。在学中にコンセプチュアル・フォトグラフィの先駆者、ケネス・ジョセフソンに師事する。その後ニューヨークへ移り、現在に至るまで同地を拠点に活動。主な個展として「Time Emit」Visual Arts Center of New Jersey(サミット、2008年)、「Dark Matters / Light Affairs」Richard L. Nelson Gallery & Fine Arts Collection, University of California(デイヴィス、2001年)などがある。これまでに、第23回東川賞 国内作家賞(2007年)、Artist‘s Fellowship, New York Foundation for the Arts(1998年)を受賞。作品は、テート・モダン、デンバー美術館、ボストン美術館、ニューヨーク近代美術館、東京都写真美術館に収蔵されている。

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