30 Nov 2022
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(第1回 畠山直哉「鏡なのか窓なのか」を受けて)
光景と情景
透明なガラスが、建物や列車、車などに据えつけられる。するとそこには内と外という境界が出来るのだが、光がガラスを透過して人の目に届けられることで、ガラスの向こう側の光景を受け取ることができる。人々が行き交う都市の姿も山や海といった自然の様子も、ガラス越しに眺められるそれらの光景は、写真のみならず、絵画、映画、文学が枚挙に暇なく取り上げてきた文化的事象だといえる。カフェでコーヒーでも飲みながらぼうっとしているとき、車を走らせ海辺を過ぎるとき、列車に乗って見慣れぬ土地を過ぎ行くとき、それらの断片がふと頭を過ぎり、なんの変哲もない光景に感情が重ねられ、情景へと転化し忘れられないものとなることもあるだろう。一瞬一瞬の光景がガラスを透過してやってくる。あちこちに照明が灯る夕暮れ時、内と外が混ざったガラスにだけ映し出される世界の姿は、夢のように掴み難く夜へと消えていく。
Slow Glass
もしそのガラス越しの眺めが世界をそのまま伝えてくれないとしたら? 北アイルランド出身のSF作家ボブ・ショウは、その作品『去りにし日々、今ひとたびの幻』で光をゆっくりとしか通さないため景色が遅れて見えてくるというスロー・グラスについて書いている。スロー・グラスに翻弄される人間模様は、記憶や意識の在り様がどのようにして映像と結びついているのかを様々にみせてくれ、とてもおもしろいのだが、ここでふと気づくのは、遅れて見えてくるということーそれはつまり写真の性質を巧妙に言い当てているのではないだろうか、ということ。
ほんの少し前まで写真がフィルムで撮られることが当たり前だった頃、撮影をしてもそこに写されたものをすぐに見られるということはなかった。写されたものは、フィルムに一時保存され、後になって像が立ち現れてくるのだった。そこにはある種の取り返しのつかなさがあり、フィルムという素材やそれが生みだす時間の層が人を魅了し、様々な表現技法の発見へといたりつつ写真の歴史を豊かなものにしてきたことも事実だろう。たくさん撮って、すぐに加工して、誰かに見せて、といった写真の現代的な振る舞いが多くの人のものとなった今もなお、やはり写されたものと当事者との間には、ある種の溝があり続け、日々更新される新しいアプリは、それを広げたり、縮めたりしている。畠山さんの文章にある「鏡でもあり窓でもある」という写真の二重性は、写真のそうした根本的な条件も源泉のひとつであったのかもしれない。
畠山さんの作品のひとつに上記のスロー・グラスに着想を得た作品がある。本連載第1回の畠山さんの文章に添えられた写真作品『Slow Glass / Tokyo』は、畠山さんが自作したカメラによって東京の様々な場所が撮影されたものだ。カメラを覆う箱に窓が開けられていて、その窓にカメラの焦点が合うように設計されている。雨の日に街にそのカメラをもち出して撮影をすると、窓についた雨粒に写し出された景色が上下反転して無数に存在しているというもの。それは、目の前の風景に面した窓に付着した雨粒が鏡のように景色を映し出し、写真の二重性をメタ的に伝えてくれるものでありながら、そのパラドックスの隙間には、光に照らされながら流れゆく雨粒のように、浮かんでは消える人の記憶の根源的な様相が差し挟まれているように思えてならない。
杉浦邦恵さんへ
本連載の次回に登場いただこうと思っているのはアーティストの杉浦邦恵さんだ。杉浦さんは、1963年に渡米してシカゴ・アート・インスティテュートで学んだ後、50年以上にわたってニューヨークを拠点に制作を続けている。大学生だった畠山さんがカタログを通じて見ていた展覧会「ミラーズ・アンド・ウィンドウズー1960年以降のアメリカ写真」を杉浦さんはMoMAで実際に見て、“写真はそう簡単ではないなと思ったように記憶している”と、この連載への執筆依頼のやり取りの中で教えてくれた。畠山さんがこの展覧会について触れられたこと、そして、同じく写真というメディアを扱うアーティストである杉浦さんはきっとこの展覧会を会場でご覧になっているのではないかという直感から執筆をお願いしたのだった。
この展覧会が扱う1960年から展覧会が実際に開催された1979年という時代。杉浦さんは以前ある雑誌でのインタビューで、“当時のニューヨークはスピード感があって生きているという実感があった。ヒッピーの全盛期で世の中がどんどんよくなるという雰囲気がある一方、ベトナム戦争があり、若者のユートピア感覚が崩壊してゆく危機感やドラッグ・カルチャーの影響も強かった”とも語っていた。またつけ加えるなら、白人でも男性でもない杉浦さんが、女性アーティストとして当時のニューヨークで活動していくハードさは想像に難くない。そういう時代背景の中で開催されたのが、この展覧会だったことも付記しておきたい。
そして、この連載に杉浦さんにご登場いただきたかった何よりの理由がもうひとつある。もう何十年も拠点にしているというチャイナタウンにある杉浦さんのスタジオを訪れたことが私自身2度あるのだが、そのスタジオの様子が忘れられなかったのだった。言葉を選ばずにいうならば、あんなに素敵なスタジオに訪れたことはそれまで無かった。扉を開けると視界がぐっと開けるほど広い室内の片隅に無造作に作品が並べられ、そのあいだに傷んだカウチやカバーがかけられた来客用と思われるベッドが置かれている。そして、壁には作りかけの作品がいくつもかけられていた。
薄い曇りガラスがストリート側に張り巡らされた、100年ほど前に建てられたかつて劇場だったという古い建物の一室。中華料理屋などが軒を連ねるストリートは賑やかで、外からの物音が室内にも響く。
写真をキャンバスに現像し、アクリル絵の具で着色されたキャンバスと組み合わせて木枠に収めた作品たち。写真が捉えたニューヨークのとある場所と、傍らに象徴的に添えられた色面とがひとつの木枠に収められたそれは、都市という巨大な謎の奥深くから探し出された1枚の窓のようだった。
菊竹寛/Yutaka Kikutake
1982年生まれ。早稲田大学大学院文学研究科卒。タカ・イシイギャラリー勤務を経て、2015年夏にYutaka Kikutake Gallery を開廊。生活文化誌「疾駆/chic」の発行・編集長も務め、ギャラリーと出版という2つの場を軸に芸術と社会の繋がりをより太く、より豊かにするようなプロジェクトに挑戦中。