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レストレーション・ルーイン:
窓と廃墟とソウト・デ・モウラ

佐伯達也

25 May 2026

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Architecture
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肖像画としての窓

窓には棺と同じく信じ難い歴史が宿っている。むろん、構造という面から見ると窓と棺は互いに似ている。そして窓と棺は、宮殿あるいは他のいかなるものにも似て、ここかしこでかつて起こった出来事をどこか予感させる。1

ポルトガルの建築家エドゥアルド・ソウト・デ・モウラ(Eduardo Souto de Moura、1952–)は、ユハニ・パッラスマーとの対話のなかで、アルド・ロッシ(Aldo Rossi、1931–1997)と窓について何度も議論したことを回想している。若かりしデ・モウラにとって、窓を設計することは恐るべきことであり、建築においてもっとも難しいことでもあった。彼は、窓について考えることを「まるで肖像画を描くようなもの」2だと述べている。芸術作品そのものではなく、「芸術作品を通して立ち現れる世界を見る」3ように、建築家は窓を通して世界を見る。しかし、それは同時に自身の肖像を見ることでもある。

デ・モウラがもっとも恐れていたのは、自分がフレーミングした窓からなにも見えない、という事態が起こることだったのかもしれない。しかし、デ・モウラの初期のプロジェクトである《ブラガの市営市場》(1980–1984、1999–2001、2004–2010)(図1)には、廃墟の建築家としての彼自身の肖像画となるような、奇妙な開口が残されている(図2)。中庭に向かって水平に穿たれたこの開口は、もはや本来の窓の機能をほとんど失ってしまっている。ここでかつて彼がフレーミングした開口は、後に建築家自らの手で市場を廃墟化することによって「死後の生」を与えられ、まさにロッシ的な、出来事を予感させる窓として立ち現れているかのように見える。

ソウト・デ・モウラの廃墟

《ブラガの市営市場》は、デ・モウラが独立して取り組んだ最初期のプロジェクトのひとつであり、その後2010年までに二度の改修を経て現在の姿へと至っている。彼が最初に市場の設計をした時期には、アルヴァロ・シザの事務所で担当したポルトの《サン・ヴィトール地区の集合住宅》(1974–1977)の経験4を通じて、既存の構築物と新しい要素を組み合わせる自身のスタイルをすでに確立しつつあった。

先在する環境を設計に取り込む姿勢は、シザによる《レサのスイミングプール》(1966)に代表され、後にポルト学派5と呼ばれる系譜に連なるものである。シザの師であり、デ・モウラがポルト大学で直接教えを受けたフェルナンド・タヴォラ(Fernando Távora, 1923–2005)は、すでに1950年代からポルトガルの民衆建築に関する広範な調査6を行っており、さらに1972年には廃墟となっていた《ギマランイスのサンタ・マリーニャ修道院》(1972–1985)の改修にも着手している。

このようにポルト学派の三人の建築家には、敷地に先在する要素への強い関心が確かに共有されていた。そのため、彼らの建築はしばしば批判的地域主義の文脈で一括りに語られるが、一方でそれぞれの差異ついては見落とされがちである。後述するように、デ・モウラの初期のプロジェクトには、師であるタヴォラとシザの改修プロジェクトとは根本的に異なるアプローチが見られる。「ねじれ」と呼ぶべきその方法は、やはりアルド・ロッシの直接的な影響を感じさせるものだ。デ・モウラは1976年のサンティアゴ・デ・コンポステーラでのセミナーにおけるロッシとの出会い7について繰り返し語っており、建築を出来事の装置として捉えるロッシから大きな理論的影響を受けている。

デ・モウラによる特異なアプローチは、その最初の個人プロジェクトである《ジェレスの住宅》(1980–1982)(図3)にもっともシンプルかつラディカルに表れている。自身の事務所を設立したばかりのソウト・デ・モウラは、ブラガ郊外のソエンガスの山奥の村にあった二階建ての農業用の小屋を住宅に転用することを求められた。

もともと廃墟状態となっていた小屋だが、介入前の写真(図4)が示すように、この時点ではポルトガル北部の伝統的な石積みの壁と切妻屋根の原型をとどめていた。デ・モウラは、道路と反対側のカヴァド川に向けて眺望がひらけるように壁の一部を解体し、そこにリビングと寝室に面する大きなガラス窓を設けた。そして、切妻屋根の代わりに水平な屋根スラブを組み込むことで、ミース・ファン・デル・ローエ流の洗練されたミニマリズムと、より原始的で荒々しい自然の質感を対比させている。

ところが、介入後の道路側の写真(図5)を見ると、デ・モウラは屋根と二階部分の壁の一部を破壊することで、介入前よりも視覚的な廃墟性を強化していることがわかる。アルヴァロ・シザによる農業建築の改修プロジェクトである《カルドーソ邸》(1973–1979)(図6)と比較してみると、デ・モウラの介入のラディカルさがいっそう際立つ。シザのプロジェクトの主眼は、新旧の要素を対比させつつも、外観のボリュームや特徴を復元することにある。しかし《ジェレスの住宅》には、既存の要素を土台としながら、廃墟がもつ詩的な力を強化しようとする明確な意志がみられる。つまり先存する環境への応答は、ここでは構築ではなく、むしろ破壊として現れている。

このような操作は、《カール・フリードリヒ・シンケルのための家》(1979)のコンペ案、《SEC文化センター》(1981–1991)、《ネヴォジルデの住宅Ⅱ》(1983–1988)、《バイアンの住宅》(1990–1993)など、その後のデ・モウラのプロジェクトに繰り返し現れることになる。

  • 図3 ソウト・デ・モウラ《ジェレスの住宅》(1980–1982)© Luis Ferreira Alves | Arquivo Casa da Arquitectura, Matosinhos

ブラガの市営市場の廃墟化と再生

《ブラガの市営市場》においても、ソウト・デ・モウラはかつて農場だった敷地に残存する要素を、廃墟の断片として自身の設計に取り入れている。ここで彼は敷地の文脈を丁寧に読み解き提案に反映させる一方で、やはりミース的な建築言語によって全体を構成している。さらに敷地にある素材と新しい構築物を対比させる、といった手法は他のプロジェクトとも一貫している。これに加えて、デ・モウラは伝統的な市場のプログラムに合わせた構成と十分な換気性能、二つの大通りをつなぐ通路としての都市的機能、といったいくつかの要件をギリシャのストア(列柱廊)の類型8を参照することで解決している。

しかし、このプロジェクトのもっとも特異な「ねじれ」は、約20年のあいだに衰退し、その役割をほぼ完全に失った市場を、建築家自らがさらに廃墟化することで新たに生まれ変わらせたことだ。当初、建築的な評価の高まりからこの場所を保存しようと考えた市当局に自ら反対したというデ・モウラは、最終的な解決策として、かつて農場跡地の構築物の断片を新たな市場の設計に組み込んだのと同じように、自らが設計した建築物自体を敷地に先存する要素として扱い、それを廃墟化することによって新たなプログラムに適応させた。市場の代わりに、残っていた通路としての都市的機能を拾い上げ、それを強化するという現実的な選択がこの場所でなされた。具体的には、円柱によって支えられた屋根スラブを撤去し、かつての内部をまるごと外部化することで空間の性格を反転させ、市場を公共の街路へと転用している。鉄筋コンクリートの円柱はそのまま残されており、柱頭部からは鉄筋が露出し、それがさらに廃墟の喚起力を高めている。

そして、もうひとつの注目すべき点が、そのまま残置されたかつての魚売り場のカウンター窓(図2)である。これは後に増築されるダンススクールのファサードとして残り、まさに「死後の生」を与えられた市場の断片となった。かつて商品が並び、売り手と客をつないだ開口は、市場の廃墟化によって街路に対して開いた窓へと変わったように見える。この窓が縁取るのは廃墟化した庭であり、メデューサのような奇妙な柱だ。切り取られた風景は、この場所で起こった出来事を喚起させると同時に、廃墟の建築家の肖像となっている。

《ジェレスの住宅》や《ブラガの市営市場》は、必ずしも成功したプロジェクトだったとは言えないかもしれない。これらはある種の実験的な側面もあり、現実的な制約のなかで材料として用いられた廃墟は、おそらく常に積極的に選択された結果ではないだろう9。しかし、この時期における廃墟への傾倒がデ・モウラのその後の仕事の方向性を決定づけたことは間違いない。世界的に知られた《ブラガの市営競技場》(2000–2003)でも、あらかじめ決められていた敷地を変更することを建築家自らが提案し、採石場跡というある種の廃墟を設計に組み込んだ。

 

おわりに

アルド・ロッシが『科学的自伝』に書いたように、窓は棺と同様、「ここかしこでかつて起こった出来事をどこか予感させる」装置10である。しかし、ロッシはなぜ窓に対して棺を並べたのだろうか。窓はフレーミングの仕方によって、さまざまな出来事を予感させることができる。一本の桜を縁取る窓は、桜が咲いていた過去を、春という季節があったことを、どこかで花見をしたことを、そしてまた春になると桜が咲くということを、予感させる。つまり、窓がその枠に納めるものは、生きた現実である。一方で、棺が納めているものは死んだ過去であり、異なる時間のなかにある。窓と棺はむしろ対照的でもあるが、類推によって結びつけられた二つの概念は、ロッシにとっては表裏一体であり、ふいに変容し、互いに混じり合ってしまうような感情を反映したものだったのかもしれない。

彼は『科学的自伝』の別の箇所で、自身の戸惑いにも似た二つの感情について以下のように打ち明けている。

私がもっとも恐れるのは、欲望が死んでしまった人間の過去である。こうした状態の人間にとって過去は逆説的に未来の色彩、希望の色調をもって大きく膨れ上がる。私のプロジェクトはどれも過去から遠ざかることがない。それも多分、プロジェクト、対象、旅、人物といったものが私にかなえてくれる未来への歓びを、すべて表現することはとてもできなかったからだ。そのどれだけが歓びで、どれだけが実のところメランコリーなのかよくわからない。11

ソウト・デ・モウラもまた、このような感情を抱えながら廃墟に向かっていたのかもしれない。しかし彼自身語っているように、廃墟は単なるロマンチックな残骸ではなく、「建設を待ち構える」12ものだ。つまり、廃墟は過去を想起させると同時に、未来の建築の時を待ち続けている。

 

注釈

1:アルド・ロッシ著、三宅理一訳『アルド・ロッシ自伝』鹿島出版会、1984年、104頁。

2:Eduardo Souto de Moura, Juhani Pallasmaa, “Souto de Moura and Pallasmaa in Dialogue”, Arquitectura Viva, 2011. 筆者訳。なお、2025年に著者がデ・モウラ氏本人と対話した際にも、氏は開口一番に「窓を設計するのは苦手だ」と語っていた。

3:前掲書(注2)、筆者訳。以下の箇所を参照。「窓は建築と風景を結びつけるもっとも力強い方法であり、それは再び〈場所〉という概念へと私たちを立ち戻らせる。メルロ=ポンティは興味深い指摘をしている──私たちは芸術作品そのものを見に行くのではなく、芸術作品を通して立ち現れる世界を見るのだ、と。建築の本質とはまさにそこにある。窓が私たちに示すもの、それこそが建築の本質なのだ。」

4:デ・モウラは、在学中にSAALに提案した計画が採択され、着手にあたりアルヴァロ・シザに助言を求めたことからシザとの協働がはじまったことを回想している。以下を参照。Souto de Moura, Luis Fernández-Galiano, “A Biographical Conversation”, Souto de Moura 1980-2025, Arquitectura Viva, 2025, p.335.

5:フェルナンド・タヴォラ、アルヴァロ・シザ、エドゥアルド・ソウト・デ・モウラを中心とし、ポルト大学建築学科FAUPでの建築教育を基盤とする、ポルト周辺の地域主義的な潮流。

6:調査はポルトガル建築家協会が主導し、ポルトガル北部をフェルナンド・タヴォラが統括した。その成果は1961年に『ポルトガルの民衆建築(Arquitectura Popular em Portugal)』として刊行された。

7:詳細については以下を参照。ディオゴ・セイシャス・ロペス著、佐伯達也訳『北方なき南:アルド・ロッシとポルトガル建築に関する覚書』FORGET BOOKS、2025年。

8:デ・モウラのスタジオに貼られた写真や絵葉書などの参照イメージを集めた書籍には、アテネの《アッタロスの柱廊》の写真が収められている。以下を参照。Floating Images: Eduardo Souto de Moura’s Wall Atlas, Lars Müller Publishers, 2019.

9:たとえばデ・モウラは、壁の材料にコンクリートではなく石材を使用し始めた理由を、次のように述べている。「私が石材を使ったのは、その土地特有の文化に共感したからではなく、ブラガの市場の施工業者がこういったからです。〈コンクリートを使うお金はありません。もしよければ、石もいいですよ。石材は不足していませんから〉と。それで、実用的な理由から石材を使い始めました。安価だったからです」。以下を参照。Eduardo Souto de Moura, interview by Pedro Levi Bismarck, Electra, no.22, 2023. 筆者訳。

10:ロッシは『科学的自伝』のなかで、「装置」という言葉をアルフォンソ・デイ・リグオリの「死の装置」なる書物の記憶と関連づけて説明している。「この本をただ手にしているだけで十分で、何も読む必要などないと感じられた。つまり、装置だったのである。…この視点に立って、私は建築を事物の展開を可能ならしめる道具とみなすようになった。」 以下を参照。前掲書(注1)、17-18頁。

11:前掲書(注1)、165-168頁。

12:前掲書(注4)、p.339。筆者訳。

佐伯 達也 / Tatsuya Saeki

東京大学大学院工学系研究科建築学専攻修士課程修了後、ゲンスラー・アンド・アソシエイツを経て2025年にFORGET STUDIO設立。2023-2025年、東京都市大学非常勤講師。主な出版物として、ディオゴ・セイシャス・ロペス『メランコリーと建築:アルド・ロッシ』(フリックスタジオ、2023)、『北方なき南:アルド・ロッシとポルトガル建築に関する覚書』(FORGET BOOKS、2025)、『アマルコルド:類推と建築』(FORGET BOOKS、2025)、塩崎太伸+小林佐絵子/アトリエコ『k邸の双子』(FORGET BOOKS、2026)など。

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