ジョージア・オキーフの窓
建築史家に訊くニューメキシコの二つの住まい
24 Jun 2022
大判の花や動物の骨などを鮮やかに描いた20世紀を代表する画家、ジョージア・オキーフ。ニューヨークを拠点にしていたオキーフは、次第にニューメキシコの土地と風景に魅了され、62歳にしてサンタフェの荒野に永住の地を得る。廃墟同然の家を買い取り、彼女はその後数十年にわたり住まいに手を加え続けた──なかでも繰り返し行われたのが「窓」の改修だったという。
オキーフとはどのような人物だったのか。ジョージア・オキーフ美術館のリサーチ・フェローとしてオキーフの家の保存管理計画に関わった、サラ・ローヴァン博士に話を伺い、住まいの遍歴から作家の足跡を辿る。
──オキーフ美術館でリサーチ・フェローとして研究されるようになった経緯について教えてください。
数年前、ジョージア・オキーフ美術館では、ニューメキシコ州アビキューにあるオキーフの家の保存管理計画を進めようとしていました。そこに建築史家である私も招かれ、建築の仕上げ、敷地内の核シェルター、そして居間の窓という三つの領域について調査し、知見を提供することになったのです。保存チームには、ほかに史跡保護や歴史的建造物に詳しい建築家、アドビ保存修復師、史跡管理者、構造・環境・地質に関するエンジニアたちがいました。
私は研究者として、かねてより20世紀初頭〜中盤における生産技術と伝統的な建築技術の衝突に関心を持っていました。オキーフの、とりわけアビキューの家は、鉄やガラスといった大量生産された素材と、アドビ(日干しレンガ)によるバナキュラーな建築が、ひとつの建物のなかにいかに共存できるかを示す素晴らしい例だったのです。
──オキーフがサンタフェに家をつくった経緯からお伺いします。彼女は当初、夫であるアルフレッド・スティーグリッツ(写真家、1864 -1946)とともにニューヨークに暮らしていましたが、1933年、46歳のときにニューメキシコの「ゴースト・ランチ」という土地に家を手に入れています。移住を決意した理由は何だったのでしょうか?
移住にはさまざまな要素が絡んでいたと思いますが、彼女は元来ニューヨークのアート界の一員であること、それに伴うあらゆるコネクション、機会、出会いがもたらす価値を強く意識していました。一方で、彼女には強く個人主義的な傾向と、アメリカ南西部の風景に対する親近感がありました。ニューメキシコのスケール、色彩、土地がもたらす構図、そして住居環境は、彼女が作品のなかで探求していた形式への問いや抽象化へのアプローチの多くと密接に結びついていたのだと思います。
──しかし程なくして、彼女はそこから20キロほど離れた「アビキュー」という別の場所に、土地と家を再度購入しています。
オキーフは庭を持つことを強く望んでおり、アビキューの土地には水利権が付いていたのです。これはニューメキシコに住む者にとっては大きな問題です。最初の住まいであるゴースト・ランチの家は、ボックスキャニオンの入口近くにある野ざらしの土地に建てられており、景色は息をのむほど素晴らしく──インスピレーションの源でもありました──が、冬はとても寒く、ひどく乾燥します。
一方のアビキューはゴースト・ランチから20キロしか離れていませんが、気候はずいぶん穏やかで、冬を過ごすにはこちらの方が良かったのです。
──とはいえ、アビキューの家は、当時「廃墟」のような状態だったそうですね。
屋根はほとんど崩れていて、ヤギ小屋として使われている部屋さえあったそうです。私はオキーフがそこを初めて見て回ったときの描写が、とても気に入っています。
「初めて見たアビキューの家は廃墟で、庭を囲むアドビの壁は倒れた木のせいで何箇所か壊れていた。なかに入って歩き回っていると、とてもかわいらしい井戸小屋と、水汲みのバケツがあるパティオを見つけた。パティオはかなり広く、長い壁には片側にドアが付いている。そのドア付きの壁こそ、私が何より求めるものだった。この壁と出会うまでに10年かかった──そして住めるように改修し終えるまでに、もう3年かかった──それ以降、そのドア付きの壁は何度も塗り替えられることになった」
──一つのドアの存在が、10年かけてオキーフが家を購入するきっかけになったのですね。そのドアはその後何度も作品のモチーフにもなっています。家の修復はどのように始まったのでしょうか?
1945年の終わりに、晴れてアビキューの家を手に入れた直後、夫スティーグリッツがニューヨークで亡くなります。彼女はそれからの3年間、ほとんどをニューヨークで過ごし、夫の遺品整理をおこないました。
そのあいだ、彼女は友人のマリア・チャボットに、アビキューの家の建て替え作業を任せました。流暢なスペイン語を話すチャボットは、ゼネコンのような役割を果たし、地元の労働者の雇用や、資材の購入を統括しました。
1949年、ようやくオキーフがアビキューに移ってきます。チャボットはオキーフがアビキューの家にどのような空間や眺め、快適さを求めているか、先回りして考えていたのです。やがてオキーフ自身も、住まいについてのさまざまなニーズや、美的感覚に合った決断を下せるようになっていきます。彼女が同じモチーフを何度も繰り返し描いたように、アビキューの家は建築の実験と再発明の場であり続けたのです。
──オキーフは、とりわけ「窓」を何度も改修しようとしていたようですね。例えばゴースト・ランチでは、寝室、浴室、ダイニング、食料室、キッチンの窓を次々に大きな窓に変え、アビキューでも居間やアトリエの窓を拡張し、各所に天窓を取り付けています。なぜ彼女は窓の改修にこだわったのでしょうか?
オキーフの創作の要点は常に、景色をフレーミングすることにありました。夫スティーグリッツをはじめとして、数多くの写真家と親しい友人関係を築いていたことを考えると、研究者たちがオキーフの作品に対する写真の重要性や影響を指摘してきたことも頷けます。しかしオキーフを理解するためには、建築によるフレーミングという概念も、同様に重要だと私は考えています。そこには彼女の窓への魅了があります。例えば1953年、彼女は友人のフランシス・オブライエンにこう語っています。
「あなたは笑うかもしれないけど、実に多くの人が、私のアトリエの窓でフレーミングされるまで、そこにある景色に気づかなかったのよ」
オキーフは、モダニズム建築の表現形式を確かに意識していましたが、一方で彼女の窓の改修は「よりモダンに」という意図でなされたものではなかったと思います。むしろ、ある特定の風景、つまり彼女が言うところの「遠くて近い」(faraway nearby)窓の外に広がる景色をとらえるためのものだったのではないか。オキーフの言葉を借りるなら、「家のいろいろなものを手直しした。先住民族風にはしたくなかった。モダンにもしたくなかった。わたしはただ、わたしの家にしたかったのです」。
さらに彼女がみずからの絵画でモチーフの反復を好んだように、二つの家でいくつかの建築的モチーフを反復したこと──特に窓に繰り返し手を加えたことも、重要な点だと考えています。例えば、どちらの住まいにも──アビキューには寝室に、ゴースト・ランチには1960年代に増築した軽食用スペースに──彼女は包み込むようなコーナー窓を設置しています。
──こうした住居の改修はオキーフの作品制作にも影響したのでしょうか。
窓の改修と作品制作は、相互に影響を与えたと私は考えています。窓の改修を繰り返していた時期、オキーフは非常に大きな抽象的な風景画(『雲の上の空 Ⅳ』)を描いていました。これは彼女が海外旅行中、飛行機の窓からの眺めにインスピレーションを得て描かれたものですが、この時期にオキーフが居間の壁を取り払い、巨大なピクチャーウィンドウを設置したのは偶然ではないと思っています。
──他方、「オキーフが構図をイメージするプロセスには、何もないニュートラルな壁のスペースが必要だった」とも過去の記事で書かれていましたね。
オキーフは、作品が建築空間に占める影響に特に注意を払っていました。彼女は自分の作品が、自分の家であろうと、コレクターの家であろうと、あるいはニューヨーク近代美術館であろうと、壁に掛けられることを確信して絵を描いていました。二つの住まいで、オキーフが作品を部屋の壁に吊るして、訪問者や同居人に試していたという話もあります。
──先ほどピクチャーウィンドウのお話がありましたが、なかでも4.8m×3mのアトリエの窓は圧巻ですね。ニューメキシコの気候では、これだけ大きな窓があっても、室温や湿度、換気に問題はなかったのでしょうか。
いい質問ですね! この巨大な窓がこの地で長年変わらぬ状態で存在し続けているのは驚くべきことです。第二次世界大戦後のニューメキシコは深刻な資材不足だったにもかかわらず、マリア・チャボットはローカルなコネクションを活かし、窓を支える巨大な鋼鉄の梁を手に入れることができたのです。
ただ、アドビは非常に重いため、窓は伝統的にとても小さく、わずかしか光が入りません。モダニスト的な美しさを保ちながら、そこに大きな見晴らし窓をつけたいというオキーフの願望は、当時の地元の施工業者たちにとっては難題であったに違いありません。
さらに、アドビ建築は適切につくられれば、とても効率的に気温や湿度の変化を緩和できますが、とはいえ、アトリエの寒さ対策はもちろん懸念材料でした。チャボットの元々のプランでは、床にとても洗練された放射暖房システムを導入するべく取り組んでいたようです。最終的には室内にガスヒーターと暖炉を設置することになったんですけどね。
──オキーフの家はバナキュラーな印象に反して、実際にはかなり近代的なものが目指されていたのですね。オキーフの死後30年以上が経過していますが、そのような状況で彼女の家や改修の履歴を調べることは困難ではありませんでしたか?
オキーフは、自身の作品に関しては大変細かく記録をとる人でした。彼女は、自分が残していく遺産について、また自分の人生や作品が、将来的に美術史の研究対象になることを強く意識していたのです。手紙のやりとりはイェール大学のバイネッキ図書館で目録化・保管されており、そのほかの書類や本や記録はジョージア・オキーフ美術館のリサーチセンターに収蔵されています。
その一方、彼女にはレシートをしおりにしたり、本の余白に自分用のメモを書き込んだりと、人間らしい部分もありました。1986年の死後、彼女の資料や書斎を調査して保存にあたったアーキビストたちは、素晴らしい仕事ぶりで、オキーフの書類に残された人間性を保存しカタログ化しました。しかし、彼女の家に関する文書は他のコレクションに含まれていることが多く、探しているものを見つけるには、それなりの偶然性が伴います。書簡の山から、居間の窓を改修した日が特定できる領収書を見つけられたのは、大変な幸運でした。
──家や庭はどのように維持されていたのでしょうか。どちらもかなり広いので、手入れには手がかかったのではないですか。
アビキューでの彼女の生活は(実際のところ)コミュニティが与えてくれるサポートと労働力に大きく支えられていました。生涯を通して、オキーフは家政婦、庭師、アドベロス(伝統的なアドビ職人)、大工などを雇い、家を維持し続けてもらっていたのです。
とりわけアドビの維持には非常に手間がかかり、伝統的な技術や手法が数多く必要になります。こうした維持作業が創作の妨げになっているとオキーフが判断したことさえありました。1959年、彼女はアドビの壁を塗り直さないことを決意します。作業は少なくとも年に一度必要で、しかも地域の労働者を多数呼ばねばならなかったからです。そこで彼女はアドビの代わりに、茶色のコンクリートスタッコで外壁を覆いました。しかしこの決断は、維持費やトラブルを減らすことにはつながったものの、構造上の問題を引き起こしてしまいます。スタッコは伝統的なアドビのように通気性がないため、壁の内部に湿気がたまってしまったのです。
その一方、オキーフは、室内には伝統的なアドビの床を多く残しました。その一部は当時、家や敷地を手入れしていた労働者の子供たちが、今も定期的に補修をおこなっています。
──ところで「オキーフはサンタフェの家でカーテンにベッドのシーツを使っていた」とある本で読んだことがあったのですが、それは本当ですか。
本当です! 彼女は生涯にわたりベッドのシーツをカーテン代わりにしていました。間違いなく本物のカーテンを買うお金は持っていたわけですけどね。ベッドのシーツは、人生の大半で家具カバーとしても使っていました(アビキューのキッチンにあるソファーは、今でも白いベッドシーツで覆われています)。シーツを使うことは彼女にとって、身の回りの空間を視覚的に簡素化し、環境をコントロールする方法であり、モダニストとしての美学の一部でもあったのです。
──1960年以降、オキーフの住まいが多くのメディアに取り上げられ「ファッショナブル」なものとして捉えられるようになったとも書かれていましたね。オキーフはこれらの報道や受け止められ方に肯定的だったのでしょうか。
オキーフは、服装、絵画、家、愛犬のチャウチャウに至るまで、自身のイメージを厳密に作り上げていました。1960年代のはじめに改修したアビキューの居間の内装は、イームズやサーリネン、ベルトイアの椅子にナバホのラグ、彼女が愛した石、骨、植物の根などのコレクションとアドビが組み合わされ、彼女の作品のようにカラフルに構成されています。まるで写真に撮られ、カラーで見せるためにデザインされたようでした。これは、当時カラー印刷やカラー写真が広まりだしていたことや、同じくサンタフェを拠点にしており、インテリア・デザインに色鮮やかで民芸的な美学を持ち込んだ、アレキサンダー・ジラード(建築家/デザイナー、1907-1993)との交流が関係していると思います。ジラードの親しい友人でもあった彼女は、彼の家とデザイン美学に大きな敬意を抱いていました。
また、オキーフは絵を描いている様子をほとんど誰にも見せたり写真に撮らせたりすることがなかったため、代わりに住居空間が創作過程に関する彼女の考えを伝える手段となったのです。
──オキーフには「ニューメキシコの荒野で孤高に生きるアーティスト」というイメージがあったのですが、実際にはかなりの数の人々が彼女の家を行き来しており、さまざまな交流があったようですね。
確かに、あらゆる面でオキーフは、サンタフェのアートシーンから一定の距離を取り続けていましたが、さまざまなトピックについて深い会話のできる相手に自然と引き付けられてもいました。例えば、オキーフは1962〜63年頃、地元の業者を雇い、入手可能な政府の設計図をもとに、自宅の敷地に核シェルターをつくっています(シェルターはアトリエの下の丘にしっかりと隠れていますが、換気パイプだけは見晴らし窓から見えるんです!)。このシェルターの調査をしているとき、オキーフが原子核物理学に大きな関心を寄せ、ロスアラモス国立研究所の科学者たちと親交があったと分かりました。彼女は核の拡散や、ロスアラモスでの科学的発見がもたらす破滅の可能性を大いに危惧していたのです。ある科学者の妻は、のちにこう語っています。
「オキーフは天性の好奇心を持っていて、とても博識だった。だから、ふたりは会話をとても楽しんでいた。技術的な内容の話になっても、彼女はいつも気の利いた質問を投げかける。上っ面だけの軽薄さはまったくなかった。楽しい時間だった」
わたし自身、彼女の住まいについて調査に乗り出してから、オキーフの関心がどれほど広いものであったかを知りました。彼女の絵画は、花や牛の頭蓋骨、風景を描いた、一見極めてシンプルなものです。しかしその背後には、実に幅広い分野の知識があったのです。
──彼女の家は、オキーフという人物そのものの表れでもあったのですね。
『Georgia OʼKeeffe: Living Modern(未邦訳)』という素晴らしい本では、オキーフの芸術と私生活に明確な区別はなかったと指摘されています──彼女の服装も、家も、庭も、アートも、すべてがより大きな実践の一部だったのです。彼女自身も1976年に発表された自伝のなかで、次のように語っています。
「空間を美しく満たすという発想は──意識されているかどうかにかかわらず──私にはどんな人にも役立つものに思える。それは家の窓やドアの位置、宛名の書き方や切手の貼り方、選ぶ靴や髪のとかし方だっていい」
Top: Georgia O’Keeffe House, Abiquiu, New Mexico. Interior. Studio with O’Keeffe present. Balthazar Korab Studios, Ltd. LC-DIG-ppmsca-72243
サラ・ローヴァン
ニューメキシコ州サンタフェの建築史家。トーマ財団のプログラム・オフィサーとして、地方のアートや教育に関連した助成事業や研究を統括。ニューメキシコに生まれ育ち、ブラウン大学で美術史・建築史学科の博士号を取得。過去にはミシガン大学で建築史を教え、建築史学会H・アレン・ブルックス・トラベリング・フェローとして世界中を旅する。ジョージア・オキーフ美術館ではリサーチ・フェローを務めた。