09 Dec 2021
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古今東西の建築を見て回った建築史家の藤森照信氏が、日本全国の歴史的建築から、よりすぐりの魅力をもった「窓」を1件ずつ紹介するシリーズ企画。第1回は、明治から昭和初期にかけて住宅作家として活躍した保岡勝也の設計による平野家住宅の〈ガラス戸〉を採り上げます。和風住宅でも当たり前のように使われる〈ガラス戸〉ですが、これを実現させた初期の例がこの住宅です。
窓、といえば、日本はむろん世界の誰でも、窓枠やカーテンではなくガラスを思い浮かべるにちがいない。
古代ローマにスタートするガラス入りの窓は、しかし、日本の場合、遅れに遅れる。工芸用のガラスは知っていても、窓用の板ガラスについては知識も技術もなかったのだから仕方がない。やっと幕末、欧米列強の日本への接近の動きの中で、当時、唯一の開港場だった長崎に窓用ガラスが持ち込まれている。ひとつは長崎出島のオランダ商館で、在留するオランダ人の食堂、といっても木造の伝統的建築に何枚ものガラスをはめたガラス戸が用いられていた。
その後すぐ、1859年、江戸時代を通してオランダと中国のみに長崎での貿易を許してきた幕府は、ついに長崎、横浜、神戸の港を開き、待ちかねたように欧米列強各国の貿易商人は日本上陸を果たし、開港場の外国人居留地に次々と自分たちの商館と住宅を建ててゆく。これらの建築は洋風建築として建てられ、当然のようにガラス窓が使われていた。現在、残る例では長崎の〈グラバー邸〉(1862年)や〈オルト邸〉(1865 or 1866年)などが名高い。
かくして日本上陸を果たしたガラス窓であったが、しかし上陸地は外国人居留地の外国人用洋風建築というごく一部の場所に限られていた。限られた特異点から以後日本中に広がってゆく。まず一歩目は、明治の新政府がヨーロッパを範にして新築した公官庁や工場や兵舎や学校や銀行の建築にガラス窓がはめられる。引き続いて二歩目でいよいよ普通の人々の暮らしの器である住まいに入ってゆく。
明治初期の普通の人が貴重なガラス板一枚を入手したら、どこをどう明るくするのかについて調べると、一番よく使う部屋の屋根に一枚はめて、暗い部屋を明るくしたことが分かる。当時、普通の住宅は平屋が大半で、天井は張られていなかったから、屋根の瓦をはいでガラスを置けば、暗く湿った土間や部屋に光が差し込む。1881年に東京府が防火政策立案のため行った家屋調査票を見ると、「ガラス葺き」と称する1㎡未満の屋根葺材が現れるが、これがそう。明治21年(1888年)にニコライ堂の上から神田方面を写した写真を見ると、瓦屋根に小さな四角な盤の置かれた家が点在するのもそう。
雨風は防ぎながら光だけは通すという古代ローマ以来の建築的秘技は、今からおよそ140年前、日本列島の普通の家々にまでやっと光を届けてくれた。これを「天窓」というが、和製英語の「トップライト」にくらべやや大げさな言い方には、当時の人々が一枚のガラスの恩恵に込めた思いが込められている。
二歩目の天窓に続く三歩目は、普通のガラス窓ということになるが、しかし、壁の一部を縦長に切りとって開くヨーロッパ式の窓を思い浮かべてもらっては建築史家としては困る。なぜなら、明治の段階で洋館に住むような日本人は全国で十数軒に満たなかった。たとえば天皇家、有栖川宮家、住友家……。しかし、洋館付の住まいは何百軒か千数百軒か、その程度はあった。岩崎家、三井家、徳川家……。でも彼らとて洋館に住んでいたわけではなく、洋館に隣接して広がる広大な和館で暮らし、大事な客が来た時だけ応接用に洋館を使っている。
まず公共建築に、ついで天窓に、さらに応接用洋館に入ったガラスは、さてでは、貴顕紳士から普通の日本人までが日々を送る伝統的な日本の家にどう入っていくのか。これが四歩目。四歩目を正しく知るためには、伝統的な日本の家の窓事情というか、家の内外の仕切りが、ガラス登場以前にどんな状態にあったかを理解しておかなければならない。
軒の出というものがわずかしかないヨーロッパと対比的に、日本の家の内外の仕切りは、外から順に “雨戸”、“縁側(廊下)”、“障子”、となり、障子の内側に畳を敷いた部屋が広がる。その間、壁はなく、雨戸位置に接する内側のラインに柱が、障子位置のラインにも柱が立つ。雨戸を戸袋に引き込み、障子を開ければ、外と内は直接的に連続し、視覚も行動も内外を自由に流動可能。
しかし、風通しもよく視覚的にもモダン極まりないこの仕切り方は一つ大問題をはらんでいた。風雨の強い日や雪の日、夜は雨戸を立てればいいが、朝、陽が出てから夕に沈むまでの間、どう室内に吹き込む風雨や雪を防げばいいのか。紙の障子は役に立たないから、昼でも雨戸を閉めたままにしておかなければならない。そこに、光だけ通す魔法のガラスがやってきたのである。
雨戸の内側のラインにガラスを入れ、外から順に、雨戸、ガラス戸、廊下、障子へと替わった。雨戸とガラス戸の二枚が引き込まれるから、戸袋は2倍深くなったばかりか、雨戸よりはるかに重いガラス戸を敷居の溝の上を滑らせ、さらに横に滑らせて戸袋に収納するのはそれなりの技術を要し、大きな屋敷では、女中さんが朝から昼まで雨戸やガラス戸を順に開け、昼から夕方までは閉め続けたという。
雨戸のように薄い面として工夫された日本独自のガラス戸がオランダ商館以外にいつどこで出現したかは、林丈二(エッセイスト、路上観察学会会員)により明らかにされており、明治2年、横浜外国人居留地の西洋理髪店バーバー・フジドコで外国人用に工夫されている。
かくして四歩目を踏み、伝統的住宅に巧みに入り込むことに成功したガラスは、明治、大正、昭和初期と、1945年の敗戦まで、日本の暮らしを支えて続けてゆく。
最後に実例を紹介しよう。戦前までに作られた住宅はほとんどがこの形式を採るから、どれでもいいが、ここでは、日本最初の住宅作家として名を残す保岡勝也*1 の〈平野家住宅〉(旧麻田駒之助邸)を取り上げる。東京の良好な住宅地に大正11年に作られ、大きな和館と小さな洋館からなり、出版業(中央公論社)を創業した麻田は2階建ての和館に住み、2階建てのセセッションスタイルの洋館を事務所兼応接間として使っている。倉と茶室も付いていたから、大邸宅ではないが充実した内容の住宅であった。
2階の家族用居間も、2階の接客用座敷も、畳の部屋の外側に障子がはまり、その外側に廊下(縁側)があって、その先にガラス戸がはまっているのが分かるだろう。ガラス戸の外側には、もちろん雨戸がつく。1階と2階では障子と廊下の様子が少し異なり、1階の場合、障子の中央のみ小さくガラスが入り、2階の場合、廊下の座敷側に畳がはめられ、これを入側(いりがわ)と呼ぶ。
ガラス戸は一見すると1、2階とも同じに見えるが、注意すると2階のほうが手の込んだ作りになっていることが分かるだろう。ふつうガラス戸のガラスは横長にはめるが、ここでは洋館のセセッションを意識して縦長としている。1階の障子がふつうに横長の桟なのに対し、2階の障子が縦長という異例をとるのも、セセッションを意識してのこと。
ガラス戸と障子という内外を隔てる2種類のスクリーンにより、日本の伝統的木造住宅は多様な表情を持つようになった。
註
1 :保岡勝也
やすおか・かつや。1877年生、1942年没。東京帝国大学工科大学の大学院で建築を学んだのち、三菱合資会社丸の内建築所に就職。曾禰達蔵の後を受けて、丸の内の赤煉瓦オフィス街のビル群を設計した。35歳で独立すると、銀行や商店建築のほかに、邸宅や庭園の設計も多く手がけるようになり、住宅作家としての地位を築く。現存する作品に〈旧三菱合資会社長崎支店唐津出張所〉(唐津市、1908年)、〈旧第八十五銀行本店〉(川越市、1918年)、〈旧山崎家別邸・庭園〉(川越市、1925年)などがある。
建築概要
平野家住宅 ひらのけじゅうたく
設計者: 保岡勝也
所在地:東京都文京区
竣工:1921年(大正10年)
中央公論社の初代社長である麻田駒之助の住まいとして建てられた
1946年、長野県生まれ。東京大学大学院博士課程修了。東京大学生産技術研究所教授、工学院大学教授を経て、現在は、東京大学名誉教授、工学院大学特任教授、江戸東京博物館館長。45歳より設計を始め今に至る。近著に『磯崎新と藤森照信の茶席建築談義』(六耀社)、『近代日本の洋風建築 開化篇・栄華篇』(筑摩書房)等、建築史・建築探偵・建築設計活動関係の著書多数。近作に〈草屋根〉〈銅屋根〉(近江八幡市、たねや総合販売場・本社屋)等、史料館・美術館・住宅・茶室など建築作品多数。
藤森照信/Terunobu Fujimori
1946年、長野県生まれ。東京大学大学院博士課程修了。東京大学生産技術研究所教授、工学院大学教授を経て、現在は、東京大学名誉教授、工学院大学特任教授、江戸東京博物館館長。45歳より設計を始め今に至る。近著に『磯崎新と藤森照信の茶席建築談義』(六耀社)、『近代日本の洋風建築 開化篇・栄華篇』(筑摩書房)等、建築史・建築探偵・建築設計活動関係の著書多数。近作に〈草屋根〉〈銅屋根〉(近江八幡市、たねや総合販売場・本社屋)等、史料館・美術館・住宅・茶室など建築作品多数。