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連載 あの人のいる窓

第1回 名を知らぬ樹木と窓(前編)

福永信

09 Apr 2026

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小説家 福永信さんによる、窓をめぐる新連載です。窓と人。その距離感、窓を眺めること、ただそこにある窓。

 

黒井千次の『老いの深み』(中公新書/2024)というエッセイ集を読んでいたら、こんな書き出しの1編があった。

仕事部屋の大きな仕事机の前に腰をおろし、ぼんやりと辺りを見廻している。
部屋は二階なので視界は窓の外に開け、狭い庭から伸び上った名を知らぬ樹木の葉が弱い風に揺れているのが見える。電車の線路やバス通りからは離れているため、ほぼ一日、余計な音はしない。自動車の走る音と朝・夕に小鳥の声が聞えるくらいである。

このあと、仕事部屋にいても仕事もせずぼんやり過ごしてしまい、というふうに続く。「仕事机の前で無為の時間」というタイトルが付いている。

あとがきで「老年雑記」と著者自身が呼んでいるように、高齢の作家が感じる日々の些細な変化や日常の出来事を、飾らない筆致で書きとめたエッセイ集で、新聞に連載したものだから短く、読みやすい。彼は70歳前後から「老い」をめぐる小説やエッセイを積極的に書いてきた。引用した文章は彼が90歳の年のものである。

黒井千次という作家が昔から好きで、どう好きかというのはまた機会があればということにして今日は説明抜きに書くけれども、黒井千次は60年代後半に注目を浴びた内向の世代の代表的な作家である。

内向の世代とは、個人と社会との「関係」を、個人の身の回りに重きを置きながら書く新世代だったが、同時代の動向として、もの派と重なるところがあると、私はなんとなく思っていて、自分という存在がここにある、そのフィールドをひたすら黙々と自己確認していくような手つきが似ている。

黒井千次に話を戻せば、同じ内向の世代の古井由吉や後藤明生が好きな人が多いと思うけれども、私は断然黒井千次だった。彼の作品の魅力は、非凡な平凡さにある。とにかく普通なのだ。

文章が普通であり、書く内容が普通である。「普通」というのはこの場合「誰でも書けそうに見える」というほどの意味である。古井由吉のようには書けない。後藤明生のようにもむろん書けない。だが、黒井千次のようには書ける。そう思わせるのであるが、もちろんそんなことはない。大きな間違いだ。むしろ「黒井千次のように書く」のは誰より難しい。

その例のひとつが上に掲げた引用である。2階に仕事机があり、座ると窓がすぐ視界に入るようだ。明るく、静かで、小説を書くには最良の環境だろう。問題は窓から外を見たところを描写した部分で「名を知らぬ樹木の葉が弱い風に揺れて」という一節である。

なんてことのない文章のように見える。だが、そうではない。彼は30代半ばから東京西郊の同じ家にずっと住んでいる。そんなに長く住んでいながら、自分の家の庭の木のことを「名を知らぬ樹木」とさらりと言い切る。それがすごい。木の名前など調べたらすぐ分かるはずだし、家族とのふだんの会話の中で「あの木のことだが、気になっていたんだが、なんという木だろうか」と聞いてもいい。もちろん、誰かがこの木のことを話しているのを偶然聞くなどして、知りたくなくても知ってしまう可能性だってある。ずっと知らないままというのはむしろ難しいことではないか。

窓から見える、50年以上も立っているかもしれない庭の木のその葉っぱが、丸いのか、長細いのか、大きいのか、わからない。どんな枝か、幹の太さも、色も、読者には、わからない。わからないが、「こんなふうに庭の木を眺めてきた」そんな作家の目が、感じられる。偉い文学者ではなくて、木に詳しくない平凡な老人の背中が見える。

そんな背中を読者に見せるのは非凡な作家にしかできない。普通はみんな偉そうに自分を見せるから。格好をつけるからだ。「名を知らぬ樹木」という一見投げやりにも思える些細な、読み飛ばしてしまいそうな書き方には、作家がこの木を見つめてきたおおらかな「時間」そのものが保存されている。

木は、黒井千次の書く文学に欠かせない存在でもあるが、それは彼がずっと時間を主題にしてきたからだろう。時間は木そのものでもあるから。と、そんなことを思っているうちに、私は、私の知っている、ある「名を知らぬ樹木」のことを思い出した。

次回に続く、というわけだが、先に、私が知っているその「名を知らぬ樹木」を見てもらおう。後編は、この壁の絵のことを書きます。さて、誰が描いた絵でしょう?(ヒントはこのページの中に)

  • 撮影:上野則宏

(6月公開の後編に続く)

福永信/Shin Fukunaga

1972年生まれ。1998年短編「読み終えて」で第1回リトルモア・ストリートノベル大賞を受賞し、デビュー。主な著書に『星座から見た地球』、『一一一一一』。展覧会監修に『こうの史代 鳥がとび、ウサギもはねて、花ゆれて、走ってこけて、長い道のり』など。村瀬恭子との共著に『あっぷあっぷ』がある。

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