WINDOW RESEARCH INSTITUTE

連載 内田祥哉 窓と建築ゼミナール

総論 窓の成り立ち《1》

内田祥哉 (建築家)

29 Sep 2017

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建築家・内田祥哉氏による、若手建築家・研究者と共に「窓」を通じて建築を考える「窓ゼミナール」。幹事である戸田穣氏による前回の内田祥哉論に続き、初回講義「第1講 総論 窓の成り立ち」を、全4回に分けてお送りする。第1回目は、“窓”の語源から、戦前の日本での窓サッシの誕生へと繋がる講義が展開。

 

「マド」の成り立ち

内田祥哉(以下:内田) かつて明治大学に木村徳国(のりくに)さんという歴史の先生がいて、めずらしく古代の研究をしている方でした。木村さんは、僕たちがわからないようなことをわかったように喋る人なんですね。堀口捨己先生のお弟子さんで、堀口先生のお宅に遊びにいくと木村さんの話が聞けました。その中で、窓は「間」と「戸」の合わさったものだという話がありました。大昔の日本語は、一語で「ア」とか「ク」と言うと通じていたようで、そのころは「マ」とか「ト」と言っていたものが、後になって「間戸」という言葉に変わっていき、窓の語源になったという説でした。

「ト」(戸)というのは、木村さんによると、どうやら扉そのものではなく、いわゆる通れるところのことを指していたようです。たとえば「瀬」は渡ることができませんが、渡れるところがあれば、そこが「瀬戸」になる。「杉戸」といえば、杉の森に通れるところがある、つまり道があるということ。「岩戸」といえば、岩があって越えられないようなところに、通れるところがあるという意味で、そこに天照大神が引きこもった、といった具合です。

そんなふうに考えると、日本には「やまと」という地名がたくさんありますが、もしかしたら「やまと」はもともと「山戸」で、山があって越えられない ようなところに、峠道があったところを指すんじゃないか、などと想像が膨らみます。真偽のほどはわかりませんが、とにかく木村さんからは、「戸は扉にあら ず」ということを教わりました。それから「マ」はもちろん「間」ですね。つまり柱の間。日本の建築には柱がありますが、その間は通れるので、「間戸」と呼 ばれたというわけです。

ガラスの導入

大昔の話はこれくらいにして、これからは僕が直接見聞きしたか、それより少し前の話をしたいと思います。最近の話は次回以降にするとして、今日は戦前までの話をします。

窓を考えるときに一番重要なことは、光を通す技術がいつからあったのかということです。そうなると、やっぱりガラスのことを話さざるをえない。日本の場合は 明かり障子­がありましたが、ヨーロッパはそうはいきませんでした【図1】。日本の障子はいつごろからあったのでしょうね。

  • 図1 東北の民家の明かり障子
    [内田祥哉所蔵写真]

戸田穣 (以下:戸田) 平安時代の遺構というのは残っていませんが、「明障子」は平安時代末期には用いられたようです。­12世紀後半に公卿の中山忠親が記した『山槐記』にある平清盛の六波羅泉殿の指図のなかに記されています

内田 おそらく昔は蔀(しとみ)戸だけですませていたんでしょうね。平安より前には障子を張った戸はなかったのでしょう。だから日本建築は庇を深くして、雨を防いで採光を確保していた。

そのように考えてみると、ガラスが広まる前のヨーロッパでは、どうやって窓から光を入れていたのか不思議です。雨があまり降らない地域ですから、窓は開けっ放しでよかったのかもしれないけど、寒いと思うんです。ところが、寒いからといって窓を閉めると、真っ暗になっちゃう。だからガラスは、窓にとって画期的だったんですよ。

というわけで、まずガラスの話から始めます。19世紀には、ガラスはまだ手吹きでつくられていました。1851年にロンドンで建設された《クリスタル・パレス》のガラスは30万枚。これもすべて手吹きでつくったそうです。このころのことは、旭硝子から助成金をもらって、ガラスの本をつくったときに調べました。

クリスタル・パレスのガラス

《クリスタル・パレス》は皆さんよくご存知だと思いますが、アーチ部分の骨組が木造であることは意外と知られていません。アーチはプレハブでつくっているんですね【図2】。僕はプレハブを研究していましたが、プレハブの大きな木造アーチは《クリスタル・パレス》が最初じゃないかと思います。

  • 図2 《クリスタル・パレス》の木造プレハブアーチ
    [出典:『Architectural Review』表紙]

この建物では、枠の中にどうやってガラスを嵌めたのか、ということが疑問として浮かびます。しかし《クリスタル・パレス》に先行する技術としては、温室があるんですね。温室はヨーロッパの貴族にとって大事なもので、東ドイツの宮殿では季節に先駆けてブドウを栽培していましたし、貴重なブドウを鳥に食べられないようにするためにも温室が必要でした【図3】­。その温室の屋根や壁がガラスでつくられていましたが、これが建築にガラスを取り入れた最初じゃないかと思います。

《クリスタル・パレス》のガラスは、瓦のかたちをしていました。1枚1枚を波形にして、雨を流すというもので、だから屋根にも波形が見えるでしょう。プレハブのアーチは、いまでいう木造の大型の集成材のようなもので、やっぱりロンドンの《クリスタル・パレス》は当時としては画期的であったことがわかります。それにガラスを嵌めたんですからね。

《クリスタル・パレス》のガラスは30万枚もありましたが、手吹きではつくるのがたいへんですから、なかなかガラスは普及しない。ガラスの生産を最初に工業化したのはベルギーですが、ベルギーでは1901年に「フルコール法」と呼ばれる引き上げ法が登場します。この技術は旭硝子の尼崎の工場にも採り入れられました。1914年にはロンドンで一時的にガラスがつくれなくなり、日本からガラスを輸出したという記録もあります。ガラスの製法はこの後いろいろ出てきますけど、旭硝子の資料館に行くとくわしく調べることができます。

  • 図3 ヨーロッパのガラス張り温室
    [出典:内田祥哉編『現代建築──写真集』共立出版、1968]

ガラスの普及とサッシの導入

こうしてガラスが徐々に普及し、窓がだんだんと現在の窓らしくなっていったわけですが、それにともなって登場したのが、鉄の引き抜き材でつくったサッシでした。非常に軽快なサッシです。これは当時のガラスと同じように、鉄を引っ張ってつくるんですね。ただ、この方式だと角が甘くなるので、冷えてからもう一度ダイアモンドの歯を通して、角をピシッと出します。現在のサッシはアルミニウムの押出しが主流ですが、それができるようになるまではこの方法が実力を発揮するわけです。

日本のガラス窓は、スティールサッシに関して言えば開き戸から始まっている。今は開き戸のアルミサッシはずいぶん減りましたよね。ところが、外国に行くと逆で、引き戸なんて滅多にないでしょ。だから引き戸というのはなんともいえず和風で、強力に日本人に根ざしたものなのです。

引き抜き式のスティールサッシの後に出てくるのが、鉄の曲げ板を使ったサッシです。アルミの押し出しは断面形状がどんなに複雑でも、一回で押し出すことができますが、曲げ板のサッシではそうもいかないので、断面形状を単純化したり、分割してつくっていました。

引き抜き式スティールサッシバーはふたたび可能か

僕が今知りたいのは、現在の技術を使えば、引き抜き式でアルミサッシのような断面のスティールサッシができないかということです。引き抜きの技術は、熱い鉄を型から引き抜くというものですが、一度ではうまくいかないから何度か型に通すんですね。今はそんなに手間のかかることはできないということで、すたれてしまっています。

ところが、静岡県にある内藤廣さんの設計した《倫理研究所富士高原研修所》では、引き抜きの十字柱が使われています。スティールの引き抜きは、型をつくる のにお金がかかるので、相当大きな単位をつくらないと採算が合わないと言われていますが、内藤さんの使った十字柱について八幡製鉄に話を聞くと、1 t分で型代は償却できたということでした。1 t程度でなぜ採算が合ったかというと、僕の聞いた話では、引き抜きの時の摩擦を軽減するために、潤滑剤としてガラスを使ったからだそうです。ガラスは鉄よ りずっと低い温度で溶けますから、鉄だけで引き抜くよりずっと簡単で、型代も安くなる。だからスティールサッシは、今でも本当はできるんだろうと思いま す。大きな力のある設計事務所は、ぜひスティールサッシを試してみてください。日建設計までいかなくても、そこそこの規模の事務所でも使えるんじゃないか というのが僕の感触です。

実際に新日鉄の担当者に聞いてみたら、「できます」とはいうんだけど、実際につくってみないと本当のところはわからない。しかし、鉄の引き抜きができると、アルミ以上にシャープな断面の、いろんなかたちのサッシが実現できると思っています。

スティールサッシとガラスの納まり

藤原徹平(以下:藤原) スティールサッシの問題は、ガラスが割れたときに交換ができないことでしょうか。

内田 では、その話をしましょう。千葉学さんが改修した《大多喜町役場》には、新築当時のサッシがまだ残っています。これがとてもきれいなんですよ。千葉さんもこ のスティールサッシを高く評価して、残すことに決めたんですね。そのスティールサッシにガラスがどう留まっているかというと、一見パテで留まっているように見えるわけです。今ではみんなそう信じている。

ところが、戦後に実際に僕が設計していたころは、パテだけで留めるような図面を描くと、上司から叱られました。パテはすぐ硬くなるので、それだけで留めるとガラスが割れるんですね。あのころのガラスは厚さが2mm程度で、非常に薄かったですしね。だから本当は、ガラスはクリップで留めるんです。クリップを通しておいて、パテが固まってとれてしまっても、ガラスが落ちないようにしておくわけです。千葉さんはクリップなんて知らないだろうと思って、《大多喜町役場》でのガラスの留め方について聞いたら、「クリップで留めました」と言っていましたから、さすがにちゃんと勉強したなと感心しました。

こういう留め方をした昔のガラスはシャープで美しいんです。こういうディテールがいまでも残っているところは少ないですが、僕が知っているかぎりでは東京女子大学の校舎がそうです。東京女子大学の建物では、 昔のスティールサッシがほとんど残っていて、しかも動いています。手入れさえ良ければ、戦前のものでもちゃんと動くんですね。

スティールサッシが残っている建物で、保存のためにいま修理をしているのが、港区白金台にある《旧国立公衆衛生院》(設計: 内田祥三[よしかず])です【図4】。この建物では、サッシがコンクリートから外れないようにコンクリートと一緒に打ち込んでいるんです。タイルも一緒に打ち込んでいる。一時期タイルの剥落が問題になって、前川國男さんが打ち込みタイル工法をやったでしょ。その工法の非常に早い時期の事例 です。ところが、コンクリートと一緒に打ち込まれたサッシを取り替えようとすると、非常にたいへんですし、無理に取り替えようとすると、今度は中の鉄筋まで傷めてしまうわけ。

  • 図4 《旧国立公衆衛生院》における窓サッシの打ち込み
    [出典:東京帝国大学工学部建築学科講義用資料]

これはサッシを打ち込んでいるときの写真です。鉄骨にアンカーで借り受けしておいて、そこに型枠をつくってコンクリートを打つ。これなら絶対にサッシが落 ちないという自信をもってやった工事です。ところが、手入れが悪いサッシがみんな錆ちゃって、アルミサッシに取り替えようというときにたいへんな騒ぎに なったわけですから、わからないものですね。この建物は、東京都の港区が買い上げて、郷土資料館になります。こんなに大きな建物が資料館になれば、港区の ものはかなりの量を保存できますね。修理は3年くらいかけてするようです。

戦前のサッシ、アルミサッシ

戦前の鉄の引き抜きサッシの時代に、窓の種類を整理しました。当時は外国から入ってきた上げ下げ窓の技術が残っていました。最近は上げ下げ式はほとんどなくなっていると思いますが、当時の上げ下げ窓には分銅がついているのと、ついていないものがありました。分銅があるものは上下を別々に、バランスで動かせますが、上下の建具でバランスさせるものは同時に動きます。日本になくて外国にあるのは、こういう突き出し窓です。開けた時に雨が降っていると雨が入ってきてしまうので、日本だと使えませんが、雨の少ない外国では普及しています。

  • 図5 《近三ビル》戦前のアルミサッシ
    [内田祥哉所蔵写真]

戦前のアルミサッシといえば、皆さんすぐに想像がつくだろうと思います。村野藤吾さんの設計した《近三ビル》(旧森五商店東京支店)が1931 年に竣工していますね【図5】。1931年に使われたアルミサッシというと、世界でもほとんど最初のころのものだろうと思います。どうして日本にアルミサッシがこんなに早い時期にあったのか、これについては工学院大学の後藤治【註11】さんが最近調べています。本当のアルミサッシだったのか、ブロンズのまわりにアルミを巻いただけだったのか、そのあたりは後藤さんが知っていると思います。とにかく、アルミサッシの世界初はこれだと、僕は思っています。この時期、アメリカでもアルミのサッシは報告されていないと思います。

 

本連載は、書籍『内田祥哉 窓と建築ゼミナール』より、内容の一部を抜粋したものです。

『内田祥哉 窓と建築ゼミナール』 内田祥哉: 著 門脇耕三/藤原徹平/戸田穣/YKK AP窓研究所: 編 出版: 鹿島出版会 出版年: 2017年

 

 

内田祥哉/Yositika Utida
建築家、建築学研究者、東京大学名誉教授。1925年東京生まれ。東京帝国大学第一工学部建築学科卒業。逓信省、日本電信電話公社を経て、東京大学教授、明治大学教授、金沢美術工芸大学特認教授・客員教授、日本学術会議会員、日本建築学会会長を歴任。工学博士、東京大学名誉教授、工学院大学特任教授、日本学士院会員。おもな作品に《東京電気通信第一学園宿舎》、《中央電気通信学園講堂》、《佐賀県立博物館》、《佐賀県立九州陶磁文化館》、《武蔵学園キャンパス再開発》、《大阪ガス実験集合住宅NEXT__》など多数。主著に『建築生産のオープンシステム』(彰国社、1977年)、『建築構法』(市ヶ谷出版、1981年)、『造ったり考えたり』(私家版、1986年)、『建築の生産とシステム』(住まいの図書館出版局、1993年)、『建築家の多様 内田祥哉 研究とデザインと』(建築ジャーナル、2014年)など多数。

戸田穣/Jo Toda
建築史、金沢工業大学准教授。1976年大阪府生まれ。2009年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程修了。博士(工学)。2017年より現職。おもな著書に奈良文化財研究所編『都市の営みの地層―宇治・金沢』(共著、文化的景観スタディーズ04、2017年刊行予定)。

藤原徹平/Teppei Fujiwara
建築家、横浜国立大学大学院Y-GSA准教授。1975年神奈川県生まれ。横浜国立大学大学院修士課程修了。2001年より隈研吾建築都市設計事務所勤務、設計室長・パートナーを経て2012年退社。2012年より現職。フジワラテッペイアーキテクツラボ主宰、NPO法人ドリフターズインターナショナル理事、宇部ビエンナーレ審査員・展示委員。おもな作品に《等々力の二重円環》、《代々木テラス》、《稲村の森の家》など多数。著書に『7 inch Project〈#01〉Teppei Fujiwara』(ニューハウス出版、2012年)、『20世紀の思想から考える、これからの都市・建築』(共著、彰国社、2016年)、『アジアの日常から』(共著、TOTO出版、2015年)『応答 漂うモダニズム』(共著、左右社、2015年)など。

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