WINDOW RESEARCH INSTITUTE

連載 国内モダニズム建築の窓ー保存と継承

村野藤吾《宇部市民館》の窓:
被覆と開口が導くヒューマナイズされた建築の経験

河田智成

09 Jun 2025

Keywords
Architecture
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Essays
Togo Murano

村野藤吾による戦前期の代表作の一つとして知られる宇部市民館(現・宇部市渡辺翁記念会館)。世界に開かれた工業都市・宇部の理念を体現する独特の空間に込められた思想を、その開口部から読み解く。

 

宇部市民館建設の背景

1937年4月に竣工した宇部市民館(現・宇部市渡辺翁記念会館)は、村野藤吾(1891-1984)が戦前期日本のモダニズム建築の達成を示した記念碑的作品として名高い1

きっかけは、渡辺節建築事務所を辞し、2回目の海外建築視察から帰国した村野が取り組んでいた大阪そごう(1935)の鉄骨工事を宇部の建設業者が請け負っていたことにある。ここから、工業都市宇部の礎を築いた政治家・実業家である渡辺祐策(1864-1934)の功績を顕彰する記念館の設計者として、渡辺を継いで文化的工業都市の建設に邁進していた俵田明(1884-1958)に、村野が紹介されたのである2

「様式の上にあれ」3と説き、世界を「動きつつ見る」4ことで独自の建築観を鍛えていた関西の気鋭の建築家と世界に伍する文化的工業都市の実現に向けて宇部を牽引していた実業家との出会いが、世界に開かれた宇部市民館を生むことになった5

 

世界の窓としての宇部市民館

宇部市民館は、渡辺翁記念公園を前庭として、東南東に正面を向けて、1.5mほど持ち上げられた舞台状の基壇に建っている。この舞台中央にキュービックな台座、脇に左右3本ずつのコンクリート独立柱が配される。これが、渡辺創業の沖ノ山炭鉱と、そこから発した6つの関連工業企業を象徴していることは、広く知られている。

この舞台の背景となるように、中央に膨らんで緩く弧を描いて立ち上がる2枚のスクリーンが外壁として重なり、さらにセットバックしながら、強い縦目地を刻まれた長楕円ヴォリュームがペントハウスとして置かれている。この正面ファサード中央には、水平の玄関キャノピーが舞台へと突き出す6。垂直・水平要素の混在、2枚の外壁面のズレ、塩焼タイルのテカリと凹凸が7、対称的で静的な正面ファサードを押し広げつつも引き締め、動きと揺らぎを与えている。

正面ファサードのスクリーン背後には、劇場ロビーを内包するボックス状のヴォリュームが置かれ、さらに、逆梁の構造体がゲート状に連なって露出する劇場観客席のヴォリューム8、そして、そこに舞台フライタワーが接続する。逆スラブの観客席は、のちの日生劇場に通じる被覆で包まれた洞窟的内部となり、オープンなプロセニアムを窓として、世界的演奏家たちが登壇した舞台へと開く。

宇部市民館は、正面中央を貫く軸上に、面的な被覆による外に開いた劇場と包み込む被覆による内に閉じた劇場を連ねることで、都市公園と統合され、工業都市宇部における世界文化の窓として働いたのである9

 

被覆と開口によるロビーの対照性

玄関キャノピーの下、左右壁面に施された炭鉱労働者たちのレリーフに迎えられて、正面ファサードを形成する2枚のスクリーンを抜けると、印象的な劇場ロビーが広がっている。ロビー1階と2階は共通して、存在感を放つ独立円柱と真鍮で目地割された市松の床となっているが、その性格は大きく異なる。

  • 正面玄関脇屋の炭鉱夫をかたどったレリーフ

1階ロビーは白大理石で被覆された円柱列と有機的配色で市松に組まれたテラゾーの床面からなる。独立円柱は、低いフラットスラブの天井を受け、圧し潰されたマッシュルーム状の柱頭には、円柱の磁場を形成するように淡い色彩が色相を変えながらリング状に広がっている。柔らかく光を反射する円柱列の大理石被覆と光を拡散して満たすロビー両翼のガラスブロック壁によって、1階ロビーでは、力の流れを示す構造的論理性が後退し、海底炭鉱を示唆するような洞窟的な雰囲気が漂うのである。

  • 1階ロビー

それに対して、2階ロビーは有機的な「長州オニックス」で被覆された円柱と白黒で市松に組まれたテラゾーの床面からなる。独立円柱は、浅く溝彫りされた天井に設けられた登り梁と接続し、梁が架かる高い天井部を支えており、その構造論理は視覚化されている。こうした構造の視覚的明解性は、2階ロビーに設けられた水平連続窓からの視界の広がり、高い天井部の左右端に備えられたハイサイドライトからの視線の抜け、さらには、水平連続窓とハイサイドライトからの光を映しながら展開する、床を覆う白黒市松の抽象性とも呼応する。

イメージとリアルの交錯

1・2階ロビーの対照性は、かつては地下から屋上へと至る動線のなかに組み込まれて、この工業都市のイメージとリアルが交錯する建築経験の一部であった。

下駄ばきの来場者が玄関キャノピーから左右に降りて履物を預ける地下階と1階ロビーをつなぐ左右の階段には、ロビー側の手摺板に波のレリーフが施され、階段側壁面に未来の工場群が描かれている。暗く閉じた地下から淡色を基調とするロビー空間へのアプローチが、海底炭鉱から海面上に広がる未来の工業都市への展開を物語っているとすれば、これは、ロビー1階から2階への動線での体験を、イメージとしてあらかじめ示したものと解釈できる。

海底炭鉱を示唆する洞窟的な1階ロビーから、両翼ガラスブロック壁の拡散光に誘われて、正面ファサードを形成する2枚のスクリーンのあいだに差し込まれた左右の大階段に導かれる。この2枚のスクリーンを分節するように嵌め込まれたガラスブロック壁を背にして、大階段の先に設けられた水平連続窓からの光の帯に照らされて2階ロビーへと向かう。大階段の天井には、ダンベル型に象られた天窓が、奥行を強調するようにスケールを変えながら並んでいる。このユニークな天窓は、その内に光の点群を埋め込んで、労働にともなうフィジカルなエネルギーを象徴するように光を象っている。さらに、2階ロビーへ進んでから階段方向を振り返ると、水平連続窓にフレーミングされて展開する、工業都市宇部の今を目の当たりにする。地下階から1階ロビーへの階段で示されたイメージを、私たちはリアルに経験し直すのである。

  • 2階ロビーへの階段
  • 2階ロビーから階段室のガラスブロック壁を見る

2階ロビーから3階テラス、そして屋上への動線には、ル・コルビュジエの階段や屋上庭園を想起させるモチーフが散りばめられている。かつて屋上からは、宇部の工場群、周防灘から九州まで展望できたという。村野は、屋上という最も開かれた場所に、当時彼を刺激した世界に開かれたモチーフを動員して10、そこを劇場空間とは別のかたちで、イメージとリアルが交錯する先での、開かれた世界との出会いの場として構想したのではないか。

貴賓室の窓、その内外での現れ

2階ロビー脇に位置する貴賓室の窓、これは、宇部市民館での光の経験を主導しているガラスブロック壁と水平連続窓をハイブリッドしたものである。貴賓室に拡散し満たす光と、見通しを与え、射し照らす光をもたらしている。

この窓の室内側には、床から天井に届く大きなガラスブロック壁のなかに透明板ガラスを嵌め込む機構として、金属サッシュを支持する細身の木製支柱が2本装備されている。これが、この窓にガラスブロック・透明板ガラス・金属・木を組み合わせた複合的な素材感を与えると同時に、大きなガラス面を古典的に対称に分節しながら、人間的なスケールに調整している。古典性と近代性、有機性と即物性とが村野の身体を通して折衷され、人と窓を、さらには、人と宇部の風景を近づける装置として働いている。ここに、のちの村野の数寄屋に通じるものを観て取ることも可能だろう。

  • 貴賓室の窓

貴賓室の窓は、同様の窓とともに正面ファサード左右に2つずつ配されている。正面左中央寄りのものが貴賓室のそれである。この窓はファサードでは正面全体の対称性を強調しつつ、そのガラスブロックが壁と開口の鋭い対立を和らげるように塩焼タイルに接続している。ファサード全体のスケールにおいて、塩焼タイルに連続する被覆として働く窓を、室内では装置的工夫によってスケールを変換し、人間に近づけるという村野の窓に対する操作は、宇部市民館での建築的達成が窓の次元にも鮮やかに現れていることを示している。

宇部市民館に先立って、村野は、欧米でのガラスブロックの活用に刺激を受けて、すでにキャバレー赤玉(1933)のファサードにおいて、ネオン看板と面的に一体化して、それを非対称に構成的に縁取るようなガラスブロックの大規模使用を試みていた11。ガラスブロックとネオンが強烈な光の広告と化す夜の建築での実験が、都市の顔となる公共的なファサードに相応しく多角的に展開されたのである。

  • 前庭から貴賓室の窓を見る
  • 玄関横のガラスブロック壁

ヒューマナイズされた建築経験

被覆・素材と開口・光の操作によって導かれる宇部市民館における建築経験は、村野が説いた「科学をヒュウマナイズする」12という制作の核心にあるものを端的に示している。私たちは、即物性と身体性、イメージとリアルとが交差するこの建築において、被覆に包まれ、光に満たされ、照らされつつ、都市と出会い、世界に開かれるのである。

 

注釈

1 :宇部市民館についてはすでに、長谷川堯『村野藤吾の建築 昭和・戦前』鹿島出版会、2011年で詳細に分析・考察されている。ほかに、『村野藤吾建築設計図展カタログ 8』京都工芸繊維大学美術工芸資料館、2006年や『村野藤吾建築設計図展 11 ―新出資料に見る村野藤吾の世界―』京都工芸繊維大学美術工芸資料館、2012年でも、図面資料とともに論じられている。栗田勇(監修)『現代日本建築家全集2 村野藤吾』三一書房、1972年、131頁での、福田晴虔による宇部市民館の解説「空間の『装置化』」も示唆的だろう。また、堀雅昭『村野藤吾と俵田明 ―革新の建築家と実業家』弦書房、2021年には、専門的な建築研究とは趣の異なる作家視点での見解が提示されている。

2 :村野藤吾・長谷川堯(聞き手)「村野藤吾氏に聞く 宇部市民館のことなど」『SPACE MODULATOR』 No.52、1978年12月号、42-56頁は、村野が宇部市民館について直接語った貴重な記録である。冒頭に、村野が宇部市民館に関わることになった経緯が語られている。

3 :村野藤吾「様式の上にあれ」『日本建築協会雑誌』(現・『建築と社会』)、1919年5-8月号は、大学卒業直後の村野が自らの建築家としての針路を宣言したテクストである。

4 :村野藤吾「動きつつ見る」『建築と社会』、1931年1月号は、村野が渡辺節建築事務所を辞した翌年、建築家として独立するに際して最新の欧米建築を視察した体験を独自の視点でレポートしたテクストである。この時期の村野の建築観を示すテクストとしては、村野藤吾「日本における折衷主義建築の功禍」『建築と社会』、1933年6月号も重要だろう。

5 :宇部市民館の竣工が日中戦争開戦直前であったことを思うと、村野と俵田の出会いのタイミングが少しでも違っていれば、宇部市民館も、その後の村野の宇部での仕事も現在のようなかたちでは存在していなかったかもしれない。

6 :松隈洋「宇部市民館 ―新資料から見えてきた設計プロセスと村野藤吾の方法論―」『村野藤吾建築設計図展 11 ―新出資料に見る村野藤吾の世界―』京都工芸繊維大学美術工芸資料館、2012年、88-91頁では、こうした宇部市民館の大きな構えがどのように成立したのかを、現存する4段階の設計図面等を分析して明らかにしている。

7 :正面ファサードを被覆していた塩焼タイルは、1992-1994年の建築主体を含む大改修の際に還元焼成タイルに貼り替えられている。タイルの寸法、ファサード表層のタイル凸凹を合わせ、目地や色調を工夫することで、オリジナルに近づける努力がなされたものの、完全な再現は困難であったという。村野・森建築事務所「宇部市渡辺翁記念会館改修」『新建築』 69(4)、1994年4月号、185-192頁参照。村野は塩焼タイルによる壁面の凸凹について、村野・長谷川(聞き手)、前掲書、50-54頁で、欧米建築視察の際に訪れたハンブルクの表現主義建築、フリッツ・ヘーガーによるチリハウスの「まねですよ」と語っている。

8 :劇場観客席を架構する逆梁の構造体は、1958-1959年の空調設備充実のための改修の際に、逆梁を塞いで大屋根を架け、その小屋裏にダクトを配したため、オリジナルの姿は失われている。とは言え、控壁状の柱とそのあいだを塞ぐ壁との明解な分節は健在であり、逆梁の門型構造体が連なるオリジナルの面影を留めている。村野・森建築事務所、前掲書、186頁参照。

9 :宇部市渡辺翁記念会館のパンフレットには、宇部市民館が開館当初から音響に優れたホールとして知られ、国内外の演奏家に愛されたことが紹介されている。ヴァイオリニストのメニューイン、シゲティ、ピアニストのコルトー、ケンプら、地方都市のホールとしては異例な世界的音楽家たちの演奏記録もあり、この建築が文字通り市民にとっての世界文化の窓となっていたことがうかがえる。

10 :前掲「動きつつ見る」にも、当時の村野のル・コルビュジエ評価をうかがうことができる。それは、グロピウスに対する厳しい批判的眼差しとは対照的に、ル・コルビュジエに対しては一目置き、「コルはついにコルのほかにコルではない」と評するなど、一種の敬意を込めた評価であった。宇部市民館の随所に滲むル・コルビュジエの影響については、多くの識者が指摘している。なかでも実証的という意味で、松隈、前掲書、88-89頁における、宇部市民館の平面構成がル・コルビュジエによる国際連盟会館コンペ案における扇形平面の大会議室を下敷きにしたものであるという指摘は重要であろう。

11 :村野・長谷川(聞き手)、前掲書、50頁で、キャバレー赤玉でのガラスブロックの実験的使用を振り返って、「多分ガラス・ブロックを大量に使ったのは日本では私が最初だと思います」と語っている。村野は、東京高島屋増築(1952)、フジカワ画廊(1953)、千日前グランド劇場(1953)、読売会館(1957)などでも、ガラスブロックを印象的に用いている。

12 :前掲「様式の上にあれ」の結び近くで、村野は「科学をヒュウマナイズする以外にわれらに残されたるなんらの方法もない」と説いている。

窓の事例集
宇部市民館(現・宇部市渡辺翁記念館)
09 Jun 2025

河田智成/Tomonari Kawata

広島工業大学環境学部教授・博士(工学)。1967年、山口県生まれ。1999年、九州大学大学院人間環境学研究科博士後期課程修了。専攻は近代建築史・建築意匠。編訳書に『ゼムパーからフィードラーへ』(中央公論美術出版、2016年)、主たる論考に「フィードラーの芸術論成立におけるゼムパーの被覆論の影響について」(日本建築学会計画系論文集、2013年1月)、「オットー・ヴァーグナーの時代の建築芸術」(『分離派建築会 ―日本のモダニズム建築誕生』京都大学学術出版会、2020年)など。

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