WINDOW RESEARCH INSTITUTE

連載 藤森照信の「百窓」

藤森照信|第十回 旧正伝院書院の〈舞良戸〉
書院造を成立させる

藤森照信(建築史家・建築家)

20 Mar 2025

Keywords
Architecture
Essays
History
Japan

古今東西の建築を見て回った建築史家の藤森照信氏が、日本全国の歴史的建築から、よりすぐりの魅力をもった「窓」を1件ずつ紹介するシリーズ企画。10回目に取り上げるのは、国宝茶室「如庵」に付属して建てられた旧正伝院書院の舞良戸です。横桟を並べた板戸は、紙の明障子との組み合わせで、室内への光や空気の取り入れを自在にコントロールし、外への視界も必要な時に確保することを可能にします。開口部のあり方を根本的に変え、近代建築へもつながる窓となりました。

 

歴史に確かめることのできる日本最古の窓は、といっても神社や寺院ではなく人々の日々の暮らしの器としての住宅の窓は、平安時代の寝殿造に取り付けられていた

しとみ

であった。このシリーズで既に取り上げたように、柱の表側に格子で押さえた板を上吊りし、陽が上がると突き上げ、陽が落ちる頃には下げる。上端に固定された回転軸を設けた大きな蓋のような姿をしていた。寝殿造で暮らす天皇や貴族にとって困るのは、寒さや風、さらには雨や雪が吹き込むのを防げないこと。

と聞くと、“閉めればいいだろうに”と訝しく思うかもしれないが、閉めると室内は真っ暗闇。夜はいいとして、冬の風の強い日は、陽が出ても蔀を少しだけ上げて下から光を導くしかないし、雨や雪の時など、少し上げても吹き込むから、実際どうしていたのかと心配になる。天皇の寝殿はさまざまな年中行事の表舞台として使われていたから、寒い冬の正月の行事等、どのように執り行っていたんだろう。

開ければ外気が直接襲来し、閉めれば闇、という状態は、寝殿造だけでなく世界のどこでも変わらなかった。この原始的窓の欠陥を補うには、外気の流入を防ぎ、光だけを通す材料の発明を待たなければならない。それが紙とガラスだった。超高価なガラスはヨーロッパに限られ、中国はじめアジアは紙。その紙も平安時代には、紫式部は『源氏物語』を書くための紙を、時の最高権力者である藤原道長からわざわざ与えられていたくらいだから、建築に使われるのは平安時代も末になってからだろう。細い枠(かまち)にさらに細い桟を縦横に通して紙を張る明障子あかりしょうじが発明される。

もう一つ発明があった。明障子よりずっと早く、あけっぴろげの寝殿造の室内にも目隠し用の建具が求められるようになり、板状の間仕切りが工夫され、これを遣戸やりどとか舞良戸まいらどと呼ぶ。“遣る”は“向こうに行く”の意だし、“まいる”も同じだから、可動の引き戸形式だったことが分かる。貴重品の収納や、一部を部屋化して囲うための仕切り用に工夫された。

舞良戸のつくりは、枠として框を四周に回し、間に薄い板(綿板)を張り、細い横桟で押さえる。横桟は、ごく狭い間隔で入り、時に黒っぽく色付けされるから、板より桟の方が目立つという変わった特徴を持つ。紙の明障子と板の舞良戸の両方とも、あけっぴろげの寝殿造を間仕切るため、室内用に工夫され、発達してきた建具であったが、このコンビが建物の外側に持ち出され、蔀に取って代わる。

  • 書院の南縁側を庭から見る。舞良⼾を閉めた状態
  • 書院の南縁側

紙の戸と板の戸のコンビといえば、内側の障子と外側の雨戸のコンビを今の我々はすぐ思い浮かべるが、しかし雨戸の登場は戦国時代(安土桃山時代)を待たなければならない。

その前、鎌倉時代から室町時代にかけての、中世と呼ばれる300年ほどのどこかの時点で、室内用の舞良戸と明障子はコンビを組み、蔀に取って代わって日本の上層住宅の、住宅だけでなく社寺の、外壁用の窓となった。蔀とは大きくつくりが変わり、まず、柱の外側に吊り下がるのをやめ、柱と柱の間にはめられ、かつ左右への引き戸形式を採る。引き戸だから下の敷居と上の鴨居には浅く溝が彫られ、右へ左へと水平移動する。柱と柱の間の狭い溝の上で、板の戸と紙の戸は具体的にどうふるまったのか。今では考えにくい珍しい動きで、2本の板戸(舞良戸)と1本の紙戸(明障子)が3本の溝の上を行ったり来たりした。

柱の間に柱間(スパン)の半分の幅の2枚板戸と1本の紙戸が立っており、朝、外側の板戸を引くと奥から紙戸が現れて、光が透過してきて室内が明るくなり、さらに外の空気を入れたいなら奥の紙戸を引けば、内外はツーツーで人の出入りも可能。陽が落ちたら板戸を引けば、外気の侵入も防ぐことができる。

室内への外気と光の導入は、室内をどう使うかによる。例えば嵐の時、紙戸は1室に1つだけにするのもいいし、絵や美術品の好きな友人が訪れた時は、すべて紙戸にして光を十分入れればいいし、室内から庭を見たいなら紙戸も引いて、全開。全開といっても、2枚の舞良戸と明障子が重なっているから、柱間の2分の1の幅だが。

言葉では分かりにくいから、実例に当たってみよう。
蔀は、寝殿造の遺構はごく少ないものの古式を伝える社寺仏閣にはいくつも残るが、舞良戸と明障子のコンビは、こう思い出しても〈光浄院客殿〉などごく稀となる。理由は、寝殿造に続く上層邸宅形式である書院造の実例が稀にしか残されていないからだ。

寝殿造の窓としての蔀の時代が古代とともに終わり、鎌倉時代から室町時代にかけての中世に書院造が出現し、その代表的窓として舞良戸・明障子のコンビが登場してくるのは分かっているが、中世のいつのことだったか時期が定まらない。定まらないのは社寺に比べ、住宅は文献と実物の史料が乏しいから仕方がない。中世の様子をよくとどめるとして知られる光浄院客殿だって、つくられたのは1601年というから、中世から近世への過度期の安土桃山時代となる。

そんな実例欠乏症の中で取り上げるのは、国宝茶室として知られる〈如庵〉に付属する書院で、1618年頃、織田信長の弟、織田有楽により建てられている。光浄院が1601年、如庵が1618年といい、中世を代表する書院造が300年かけて成立した直後に当たるが、その後の近世において爆発的に隆盛する書院造の初期の姿をよく伝える実例となる。

茶室に付設する書院のことを“つなぎの間”ともいい、後に茶室の影響で書院造が変化して生まれる数寄屋造の先駆としても知られ、正式の書院造に比べれば床のつくりが地味で長押なげしを回さないなど簡略化を心掛け、茶室の質素な美学に寄り添っている。

写真を一見すると、雨戸のようにも見えるが、戸は雨戸のように縁の柱の外ではなく、縁の内側の柱の間に取り付けられ、雨戸のように戸袋がないからいつも壁面の半分を占めて姿を現している。障子も、舞良戸があるからいつも壁の半分しか占めていない。舞良戸2本、障子1本が3本の溝の上を走るという言葉による説明では一番分かりにくい特徴は、写真によって事情が判明しよう。

  • 舞良⼾と障子の組み合わせを外側から見る
  • 舞良⼾と障子の組み合わせを内側から見る

中世の書院造の舞良戸・障子コンビによって外壁の半分が明障子となった効果は日本文化にも大きな影響を与えている。蔀に比べはるかに室内は明るくなり、襖絵や障壁画や掛軸や美術工芸品の鑑賞が格段に進む。雪舟の水墨画などが、もし平安時代に描かれていたなら薄暗がりの中ではなんだかよく識別できなかったに違いない。室内から眺める石庭をはじめとする小さな庭も、明障子あっての視覚的体験だった。

日本建築史上、窓という樹の枝葉を落として幹だけ述べるなら、古代は寝殿造の蔀、中世は書院造の舞良戸、近世は書院造と数寄屋造の雨戸、と言ってかまわない。中世の書院造成立の過程で舞良戸・障子のコンビが出現した影響は、日本だけでなく世界の建築史上でも決定的だった。初めて引き違い窓という特異な開口部のつくり方が確立し、内についても外についても異例なほど開放的な空間のあり方が出現したからだ。この開放性がやがて20世紀に入ると、モダニズム建築につながってゆく。

 

藤森照信/Terunobu Fujimori

1946年、長野県生まれ。東京大学大学院博士課程修了。東京大学生産技術研究所教授、工学院大学教授を経て、現在は、東京大学名誉教授、工学院大学特任教授、江戸東京博物館館長。45歳より設計を始め今に至る。近著に『磯崎新と藤森照信の茶席建築談義』(六耀社)、『近代日本の洋風建築 開化篇・栄華篇』(筑摩書房)等、建築史・建築探偵・建築設計活動関係の著書多数。近作に〈草屋根〉〈銅屋根〉(近江八幡市、たねや総合販売場・本社屋)等、史料館・美術館・住宅・茶室など建築作品多数。

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