WINDOW RESEARCH INSTITUTE

連載 藤森照信の「百窓」

藤森照信|第二回
擁翠亭の〈十三窓〉茶室がたどり着いた多様なる窓

藤森照信(建築史家・建築家)

24 Mar 2022

Keywords
Architecture
Columns
Japan

古今東西の建築を見て回った建築史家の藤森照信氏が、日本全国の歴史的建築から、よりすぐりの魅力をもった「窓」を1件ずつ紹介するシリーズ企画。第2回目に取り上げる建物は京都に再建された茶室、〈擁翠亭〉です。江戸時代初期を代表する茶人、小堀遠州の作によるもので、三畳台目の小さな空間に13もの窓が設けられていて、日本一窓が多い茶室とされます。それらの窓は、それぞれに異なる造作が施されています。

 

*2021年12月1日〜2022年4月24日(日)まで、起こし絵図を基に実寸大で再現された「擁翠亭」がジャパン・ハウス ロンドンで開催中の展覧会『Windowology: New Architectural Views from Japan 窓学 窓は文明であり、文化である』にて展示されています。

 

今から400年ほど前に作られた〈擁翠亭〉の室内写真の窓を見ていただこう。日本の伝統的建築に通じた人なら、ちょっと変わっているが茶室の一つとわかるだろうが、しかし、日本に住んだことのない外国人には、日本の伝統とも欧米とも違うし、中国は無論インドやイスラムでもないし、この窓の開け方は一体どこの何なんだ……?!

 

日本の伝統建築の普通の窓といえば、柱と柱を垂直の枠とし、床レヴェルを水平に走る敷居と、頭より少し高い位置を水平に走る鴨居を水平の枠として四角に作られるのに、この建築はそうした定石を無視し、柱と柱を中間で水平に区切ったりはまだしも、欧米のように壁の一部をくりぬいて窓にしたりしている。加えて、各窓には桟が入ったり、竹が細かく格子状に組み込まれたり、障子が白く見えたり、あまりに多様性が重視され過ぎているではないか。さほど広くない空間にこれほど多種多様な表情をしたたくさんの窓が開く例は世界になく、“窓の建築”と評しても構わない。

  • 点前座の側から見た三畳台目の内部空間。10の窓を一度にのぞむ
  • 十窓を開放すると内部はとたんに明るくなる

なぜこのような日本の伝統ともズレ、世界にも類のない建築が生み出されたかを知るため、〈擁翠亭〉の作られた江戸時代初期よりもう一歩前の安土桃山時代までさかのぼりたい。

時は戦国時代の末にあたり、国内的には織田信長が日本統一をほぼ果たし、国際的にはポルトガルとスペインとの交流が初めて始まり、キリスト教が日本に広まり、ヨーロッパの文明と芸術が日本の人々に強い刺激を与えているさなか。政治と経済と文化と宗教が激しく動くなかで、建築はとみると、二つの新しいビルディングタイプが出現する、それも極端に対比的なタイプが。

天守閣と茶室。天守閣は、織田信長の安土城によって生み出されたビルディングタイプで、城下町の目立つ位置の高い石垣の上に五層、六層の屋根を重ね、瓦には金箔を貼り、町の中からだけでなく遠くから望んでも、都市のシンボルとして認めることができた。ポルトガルの宣教師に見せられたヨーロッパの大聖堂の絵に刺激されて、負けずに作ったとの説もあり、信長は安土城の姿を屏風絵に仕立ててバチカンに送っているから、この説は正しいと思われる。

  • 正面外観。「擁翠亭」と書かれた扁額は、中国明時代の書家、除渭(じょい)が書いたものを復元している

茶室は、その信長、そして信長の後を継いだ秀吉の下で茶道を仕切った千利休が創案したビルディングタイプで、第一号の〈待庵〉は、面積は建物全体でも四畳半(2.7m四方)の平屋、肝心の茶を飲む部屋は二畳(1.8m四方)に小さな床の間がつくだけ。

面積も異様なら作りはもっと奇妙で、小さな“躙り口”と呼ばれる穴から身をかがめて入り込むばかりか、中に入ると炉が切ってあり、その狭い中で亭主は茶を点て、客はそれを喫む。それ以外には使いようがない小建築で、茶を喫みながら、建築の作りをはじめ床に掛かる軸(書と絵)や茶碗はむろん釜や諸道具について、その来歴と良し悪しを語り合う。

  • 躙り口側の外観。沓脱石は幅が七尺(約2m)もある
  • 台目の点前座と給仕口。中柱は杉丸太

具体的な作りについて、詳しく見てみよう。一目見て誰でも気づくように、材も仕上げも貧相というしかない。屋根は瓦ではなく杮(こけら・板片)で葺かれ、柱には角材ではなく山から伐ってきたような丸太を立て、壁は貼付紙(紙張)ではなく土壁、それも仕上げの一歩前のスサ入り荒壁のまま。窓には、竹の桟が入ったり、土壁の一部を塗り残して下地の竹木舞を露わにし、これを「下地窓」と呼ぶが、これだけでは風が入るので小さな「掛け障子」を蓋のように掛ける。

当時、日本の住宅は二つの流れからなり、貴族、大名、僧、神官といった社会の指導的階層は「書院造」と呼ばれる “瓦葺/天井付き/畳敷/床の間アリ/角柱/貼付壁/窓と仕切りは障子と襖” からなる住まいに住み、一方、人口の大多数を占める農民は「民家」と呼ばれる “茅葺/杮葺/板敷/丸太柱/荒壁/下地窓” の小さな家に暮らしていた。
火についてみると、書院造の場合、主人の居住部分とは別に土間に竈(かまど)の使用人の場があり、民家の場合、板敷に炉を切り、火を囲んで料理し、食べ、憩い、寝ていた。

  • 正面側の下地窓と連子窓

利休が確立した茶室は、書院造からは畳敷、床の間、天井を、民家からは茅葺、杮葺、丸太柱、荒壁、下地窓そして炉を借りてきて、一つの新しい建築様式を作っている。別々の体系から構成部分を借り、一つにまとめて新しい体系を創出する方法をレヴィ=ストロースはブリコラージュと言ったが、まさに利休はそれを成したのだった。

面積の非実用的なまでの狭さについては、〈待庵〉の畳二畳の面積が教えてくれよう。畳半分は一人が座し、一枚は寝、二枚は手脚を広げた面積に相当する。このことが何を意味するかは、私の描いた絵を見ていただけばわかるだろう。レオナルド・ダ・ヴィンチは建築の本質を示すため左の絵を描き、70年後に生まれた利休は右の面積の建築を作っている。二人とも建築というものの基本単位を求め、極小に到達していた。建築の原子(アトム)状態。

  • 『藤森照信の茶室学―日本の極小空間の謎』(六耀社、2012)より

利休は、茶室に入ってからは外を見ることを禁じ、極小空間に内向して茶の時間を過ごすよう指導した。躙り口の戸も、障子も閉め、閉じた空間の中で主客対座して一期一会のひと時(2時間もしくは4時間)を過ごす。その時、茶を喫む茶碗は黒楽茶碗。空間の基本単位の中で、黒という色彩の究極を手にするのだ。

棺桶のように自閉した極小空間が、生きた人間のための空間となるには二つの力が必要になる。一つは炉の火の力。もう一つは太陽の日の力。ただし、火も日も直接では極小空間の完結性を乱すから、火は炎の立たない炭火とし、日は障子の紙で漉して、柔らかい明かりとする。
利休にとって窓は、炉の火と並んで空間に生を与える力であり、そのデザインは茶室の勘所となる。ゴシックの大聖堂にとってのステンドグラスと同じように、利休の茶室にあっても、空間が小さくすべての作りが身近だからこそ、どこからどんな明かりを採るかは切実な建築上のテーマであった。〈待庵〉の東側の窓は、障子と掛け障子の二つからなり、その分割の美しさは完璧。

  • 客座の躙り口側
  • 畳に接する低い位置の連子窓から差し込む光
  • 躙り口を内側から見る
  • 下地窓の木舞が影となって床に映る
  • 点前座の二重釣棚

信長の作った城も、利休の茶室も、安土桃山時代の激動期を終えて江戸時代の安定期に入ると、変質を余儀なくされる。城は実戦用からシンボルへと変わり、茶室は大名を頂点とする身分制の確立により、狭い空間で身分の違う主客が膝を交えて対等に茶を喫むことは許されなくなり、面積も広がり、茶を点てる者、茶を運ぶ者、茶を飲む者と身分に応じて座す位置が決まってくる。

こうした時期を代表する茶室が、今回の〈擁翠亭〉で、1620~48年の間に、小堀遠州が、加賀三代藩主前田利常のため京都に建てている。しかし明治に入ってから解体され、部材は保存されていたものを当時の克明な図面(起こし絵図)に従い、2015年、中村昌生(1927 – 2018)の指導で再建されている。遠州作の茶室としては孤篷庵の〈忘筌〉が名高いが、私は〈擁翠亭〉こそ遠州のデザイン力が存分に発揮されていると評価している。

  • 窓を開放した状態で床を見る

窓の数は13。茶室が窓の建築であることをこれほどよく伝えてくれる例はない。日本の茶室は〈待庵〉に始まり、〈擁翠亭〉に到り、そこで進化は止まり、後は「昨日と同じ」時代へと入り、今に到る。

 

 

建築概要

擁翠亭 ようすいてい
設計者:小堀遠州
所在地:京都市北区大宮釈迦谷10-37(太閤山荘内)
竣工:江戸時代前期、2015年(平成27年)再建

江戸時代前期に、加賀藩主の前田利常が京の彫金師だった後藤勘兵衛の屋敷に建てさせた草庵茶室。3代将軍徳川家光の茶の湯指南役であった小堀遠州が設計した。江戸時代中期に清蓮院へ移築され、明治時代には解体されてしまったが、数寄屋大工の平井家が保存していた材料が発見され、起こし図をもとに当初の姿で太閤山荘内に再建された。

 

藤森照信/Terunobu Fujimori

1946年、長野県生まれ。東京大学大学院博士課程修了。東京大学生産技術研究所教授、工学院大学教授を経て、現在は、東京大学名誉教授、工学院大学特任教授、江戸東京博物館館長。45歳より設計を始め今に至る。近著に『磯崎新と藤森照信の茶席建築談義』(六耀社)、『近代日本の洋風建築 開化篇・栄華篇』(筑摩書房)等、建築史・建築探偵・建築設計活動関係の著書多数。近作に〈草屋根〉〈銅屋根〉(近江八幡市、たねや総合販売場・本社屋)等、史料館・美術館・住宅・茶室など建築作品多数。

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