WINDOW RESEARCH INSTITUTE

連載 国内モダニズム建築の窓ー保存と継承

原広司「粟津邸」の窓 
闇を照らす光の空間

贄川雪

30 Nov 2023

Keywords
Architecture
Essays
Featured Architecture
Japan

原広司設計の「粟津邸」が、このたび継承への道を模索することとなった。世界的なグラフィックデザイナー・粟津潔の自宅兼アトリエで、ここから数々の傑作が生み出された。ご子息であり継承者である粟津ケン氏(アートプロデューサー・ディレクター)に、粟津潔という人、そして「粟津邸」という場のあゆみを伺った。

 

粟津潔とは誰か

「粟津邸」(1972)は、戦後日本を代表するグラフィックデザイナー・粟津潔(1929-2009)の自邸兼アトリエである。独学で絵画とデザインを学んだ粟津は、1955年に制作したポスター『海を返せ』で日本宣伝美術会賞を受賞し、一躍社会派のデザイナーとして脚光を浴びる。そこに描かれたのは、米軍の射撃場建設のために漁場を奪われた、九十九里浜の無名の漁師の肖像であった。

その後、粟津は映画や舞台、コンサート等のポスターデザインから、書籍の装幀や映画のタイトルカットのデザイン、そして映像作品の制作に至るまで、グラフィックの範疇にとどまることなく、分野を越境しながら表現を追求していく。その挑戦は、建築デザインや環境設計にも及んでいった。1960年、粟津は菊竹清訓や黒川紀章、槇文彦らと建築運動「メタボリズム」へ参加する。そして彼らとともに、1970年に開催された大阪万国博覧会の構想やデザイン等に携わるなど、建築分野にも馴染み深い

  • 南側外観。ヴォールト屋根の両脇に煙突状の通風塔が並ぶ

粟津潔と原広司 二人の出会い

神奈川県川崎市、小田急線・読売ランド前駅より約1キロほど離れた住宅街にあるやや急な傾斜地に、「粟津邸」は立っている。ご子息であり「粟津邸」の継承者である粟津ケンさんが、私たちを迎え、中を案内してくれた。晩年まで、幾多の傑作がこの場所から生み出されたという。「粟津邸」を設計したのは、原広司(1936-)氏である。粟津が編集長を務めた雑誌『デザイン批評』(風土社、1966-70年)で、二人は執筆者として、あるいは対談者として協働するようになる

 

  • 南側の窓は二つのすべり出し窓とFIX窓、引き違い窓で構成される

「この時代は、建築家以外にも、映画監督で後に草月の家元となる勅使河原宏さんや美術批評家の針生一郎さん、音楽家の一柳慧さん、詩人の寺山修司さんや富岡多恵子さんなど、様々なジャンルの実験精神旺盛な表現者たちが、粟津の周辺で新しい表現の可能性を模索し、ときには反戦運動などにも取り組んでいました。60年代、日本の優れた芸術家はそれぞれのアイデンティティーを探っていました。そのプロセスが当時とても重要だったのだと思います。つまり自分はだれで、今、何を表現すべきか。そんな時代に粟津は原さんと出会い、二人の才能と感性が共鳴し、この家が計画されたのです。原さんはまだ30代半ば、粟津も40歳を過ぎた頃でした。」

原氏も雑誌のなかで「住居の設計をもって、こうした文化の空間に誘い出しに来てくれたのが粟津潔だった」と記している。設計に際して原氏らは粟津と幾度も話し合いの時間を持ったが、粟津は「住居には触れることは少なく、いま自分がどんな仕事をし、何を表現しようとしてるのか」という話をもっぱらしていたようだ。そして、2年もの模索の末に「粟津邸」はついに完成し、同時にそれは、原氏がその後10年にわたって世界中の集落を調査しながらつくっていくこととなる、〈反射性住居〉の原型となった。今からおよそ50年前、1972年のことだ。

  • アプローチと玄関


〈反射性住居〉とは何か

〈反射性住居〉とは何か。それは大まかにいえば、原氏が70年代の設計のなかで追求した「ひとつの住居の形式」である。あるいは、この当時彼が「実現しようとしたのは〈内核をもつ住居〉の形式であり、住居の内部の状態に係わって表現すれば、〈反射性住居 reflection house〉とでもいえるのであろうか」とも表現されている。ここで登場した〈内核〉とは、「従来の建物でいうなら、ホールとか、中庭とか呼ばれてきた場所に相当する。私たちが建ててきた実例に即していえば、透明な屋根がかけられた中庭である。(中略)内核とは、いわば住居にもち込まれた〈中心〉である」という

  • スカイライト両脇には通風のための開閉機構が付く
  • フィックスのドームと換気ダクトが組み合わされた通風塔

〈反射性住居〉の特徴は、原氏自らが、次のように整理している

1 内核。(スカイライトをもち、天井が高い通路と居間部分。その住居固有の造形的景観をもつなかば外の空間)
2 対称軸を基準としたものの配列。
3 慣習的な住居の外観。あるいは、周辺で目立たない外観。
4 必要以上に開口部をもたない外壁。比較的閉じた住居。(しかし、自然にむけては大きく開かれた住居。)
5 内核から採光する小さな個室群。
6 住居内における季節に対応するゾーニング。そのための日本間。
7 地形が斜面であれば、斜面に沿った床の高さの設定。
8 明るい室内。音響的には、ほぼ一室住居。やや長い残響時間。煙突効果にもたよる通風。

照らし合わせると、まさに「粟津邸」の構成はほとんどこの通りだ。敷地の傾斜に沿って細長いコンクリートのヴォリュームが置かれ、建物内部へは屋上階からアプローチする。内部空間では、全フロアを貫く階段を軸とした配置計画がなされる。たとえば2階では居室が左右対称に配列されている。さらにこの階段を1階へと降りていくと、吹抜けのアトリエへと行き当たる。


光が支配する空間 「粟津邸」と開口部

同様に開口部にも、〈反射性住居〉の思想は強く表れている。特に建物上部に設けられたスカイライトは、いずれも非常に印象的だ。「粟津邸」の内核である階段とアトリエの上部には、それぞれアクリルのヴォールト屋根と、左右対称に配置されたスカイライトが設えられ、そこから内部空間全体に光が降り注ぐ。また、ヴォールト屋根の両サイドには、各居室に光を導くドームを載せた、煙突状の通風塔が4本ずつ立ち並ぶ。いずれのスカイライト=「孔」も、空間的、立体的である

  • 2階ホールからアトリエを見る
  • キッチンの天窓。電球が取り付けられ、夜間にはドーム部分が浮かび上がる

一方、これらのスカイライトと比較しながら壁面の窓を見てみる。各部屋の壁に設えられたそれぞれの窓は、内部からの要請に基づいて多様にデザインされてはいるが、たしかにどれも平面的に感じられる。また、同じ壁面の窓でも、自然に面する庭側のほうが、接道側に比べて、大きな窓が表情豊かに配置されているように思われる。実際のところ、今後の住宅開発によって周囲の木立や自然が失われることを見越して、「窓からの風景はなしと考えたほうがよいとすれば、見るための窓は必要ない。むしろ通風のための窓が大事なのだ。あとは孔はほとんど上に向かって開いて行く」という考えのもとでデザインされているという。

直前で引用した記事のなかに、とても興味深い言葉があった。「粟津さんのアトリエと住居をつくるときに、光が主要に支配する空間を想った」「建物の設計をはじめたころ、粟津さんが闇について建物とは関係なく語ったことがある。そのとき、私は明るすぎる空間の魅力をそれに対応させたことを記憶している」と、原氏は光と闇への自分なりの対峙について語っている

こうして光を強く意識しながら設計された「粟津邸」は、粟津の制作にどのような影響を及ぼしたのか。

「この家ができるまで、粟津は原宿の40平米ほどの小さなマンションの一室で仕事をしていたんですね。そこからこの『粟津邸』に引っ越してからは、以前よりも大きな絵を描いたり、外に出て映画を撮影したりするなど、表現に変化がありました。単純に場所が広くなったからというだけでなく、確実に『粟津邸』の空間が影響していると思います。」

開口部の設計や、そこから室内に降り注ぐ光に対する粟津の反応はどうだったのだろう。

「粟津も、外の景色を見るより、窓から入ってくる光に魅了されたんじゃないかな。季節や天気によっても、室内への光の入り方が全然変わるし、一日の中でも様々な表情を見せてくれることに、僕もここに住んでみて気がついた。床にうつる、サッシュのストライプの影や、天窓に打ち付ける雨の模様が、濃くなったり薄くなったりする。あるいは、時間が経過するにつれて、窓を通って四角い光が現れて、それが大きさや形を変えながら床面から壁面をのぼっていったり、木漏れ日が水面みたいにきらきらと揺らぎながら差し込んだりする。粟津もこの家の光を面白がっていたのだと思います。」


闇を照らす芸術 粟津潔の原点

そういってケンさんが紹介してくれたのが、粟津が制作した16mmの映像作品『風流』(1972)だ。「粟津邸」の窓から差し込む光が、室内の白い壁面上に、風に揺れる木々の影を映しだす。それらがただ揺らぎ変化していくさまを、粟津は撮影して作品にした。予想どおり、窓外の木々や実際の風景が登場することはない。ただひたすら、壁に投影される光と影だけが映し続けられる。光と影が作り出す図と地は、まるで一枚の絵のようだ。そして、光と影(あるいは闇)は、デザイナー・粟津潔を強く表すキーワードでもあったという。

  • 粟津邸に差し込む光

「日本では、60年代に「イラストレーション」や「イラストレーター」という言葉が輸入され、そこに当時のグラフィックデザイナーたちの解釈が加わって、日本独自のイラストレーションが成立しますよね。それまでは、絵っていうと絵画のような重い感じのものだったけれど、メディアに複製され、広く届くものになっていきます。イラストレーション(Illustration)の語源は、照らす(Illumination)という言葉にある、だからイラストレーションとは人や社会の暗闇を照らし出現させるものである。粟津はそう解釈したんです。粟津は終戦後、焦土と化した東京の荒野からキャリアをスタートさせました。それが原風景で、その時、彼は若干16歳でした。復興や成長という光に照らされることのない民衆をまなざし、彼らを照らすことは、同時に言葉にはできない自らの魂を露出させることでもありました。それがやっぱり、粟津の仕事と思想にあるバックボーンだと思うんです。」

  • 2階東側子ども部屋の内部。足元に突き出し窓が設えられる
  • 子ども部屋のコーナー窓。逆側から見ると室内照明の機能も果たす

芸術の生まれる場所 「粟津邸」継承に向けて

現在「粟津邸」は、一般社団法人住宅遺産トラストとともに継承と活用の道を探っている真っ最中である。最後に「粟津邸」の未来への想いを、ケンさんに訊いた。

「十数年前に粟津潔の作品や資料の3500点以上が金沢21世紀美術館のコレクションになりました。この『粟津邸』で制作された作品がその中にも無数にあります。そして、この家は3年前に空き家になりました。今年になって残った作品の整理や内装の解体工事をして、『粟津邸』を1972年の竣工当時の姿にほぼ戻しました。すると当時のアウラというか、建設当時の素晴らしい空間がそこに『再誕生』しました。圧倒されました。これはただ事ではないな、と思いました。ここは粟津潔が何十年も仕事をした場所。そして、たくさんの芸術家たちがここを出入りしました。結局、どんなすごい建築家が、どんなすごい建物をつくったとしても、そこで何も起こっていなければ、我々にとってそれは何でもない。原さんがつくったこの空間と粟津の芸術が共鳴し、ここに集った芸術家たちも一緒になって、新しい芸術や思想や文化を生みだした。ここは生活と芸術の境目がなかった粟津潔のアートの現場でした。記念的な建築を、単に貴重な骨董品のように残しても意味がありません。どうせなら、ここを生きた芸術メディアとして活用したい。ここで何が起こったかを記録し、それを次の世代に繋げられるかが大切だし、それが今の自分の役割だと感じています。つまりそれは、ここにまた別の魂を宿らせること。どうあれまずは、色々な分野の人たちに『粟津邸』を見にきてほしいと思っています。」

贄川雪/Yuki Niekawa

2011年早稲田大学理工学術院創造理工学研究科建築学専攻修了。青土社『現代思想』 編集部および書籍編集部、その他出版社勤務を経て2020年に独立。書籍の編集やウェブ記事の企画・執筆を行っている。関心がある分野は建築に加え、社会運動、精神医療やメンタルヘルス、フェミニズムやジェンダーや社会的マイノリティの問題など。また文京区の書店plateau booksで、選書および本と建築にまつわるイベント企画を担当している。

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