WINDOW RESEARCH INSTITUTE

連載 窓をかさねる

第1回 畠山直哉 鏡なのか窓なのか

畠山直哉

12 Oct 2022

Keywords
Art
Columns
Photography

窓から外を眺めている。外の光景は動きを伴い明るく輝き、自分はただそれに見とれている。窓を挟んで、あちら側にはすべてがあり、こちら側には自分だけがいる。振り向けば部屋の壁にも、窓によく似たガラスが掛けられている。でもその奥に明るい外の光はない。覗き込めばそこには自分がおり、こちらを見返している。

むかし米国で「ミラーズ・アンド・ウィンドウズ – 1960年以降のアメリカ写真」という展覧会があった。あれは僕が大学に入った頃だったから70年代の末か。ニューヨーク近代美術館写真部門にいたジョン・シャーカフスキーという名物キュレーターが、米国におけるここ20年間の特筆すべき写真作品を集めた展覧会をつくったのだった。僕はそのことを輸入された展覧会カタログで知り、その内容に胸をときめかせた。なぜならそこには、その後日本で人気になる写真家たち、たとえばロバート・メイプルソープとか、あるいはエグルストンなどいわゆるニュー・カラーの作家たちや、ルイス・ボルツなどニュー・トポグラフィックスの作家たちが含まれていたのだから。すでに知られていたウィノグランドやフリードランダーも入っていたし、ウォーホルやラウシェンバーグ、ソル・ルウィットといった写真家とは呼べない人たちの作品も含まれていた。カタログの表紙を飾っていたのは、その頃はもう神話になっていたダイアン・アーバスの作品だった。

シャーカフスキーがカタログに載せていたエッセイはとても冷静なものだったが、その中でもなるほどと思ったのは、アメリカ写真の傾向が、ここ最近は大学での教育や研究によってつくられるようになったという指摘だった。そもそも19世紀前半の発明以来、写真術は大学などとは縁のない、実地で体験的に学んでゆくような、単なる技術だった。それが米国では戦後、それまでのフォト・ジャーナリズムの隆盛(とその後のグラフ雑誌の零落)や新しい視覚言語の大衆化などの影響もあってか、写真術を人文学的に考えたり語ったりする習慣が生まれ、総合大学などが積極的に写真術を扱うコースを設けるようになった。学生の中からは、大学に留まって研究や制作を続けたり、その後教師になったりする者も出てくるようになった。

そんな彼らに大きく影響を与えた、50年代を代表するふたりの写真家がいたとシャーカフスキーはいう。ひとりはマイナー・ホワイトという、有名な写真雑誌『アパチュア』を立ち上げた神秘主義的な写真家。もうひとりは日本でもお馴染みのロバート・フランク。前者は写真術を「セルフ・イクスプレッション=自己表現」の手段とみなす傾向の、後者は写真術を「イクスプロレイション=探検・探索」の方法とみなす傾向の、それぞれの代表者であったと彼はいう。

シャーカフスキーは、このふたりの存在を念頭におきながら、集めた84人の写真家の作品を、バッサリとふたつのグループに分けた。ひとつは自己や内面への強い関心を見せる作品群。もうひとつは外界に対する強い関心を見せる作品群。展覧会タイトルの「ミラーズ・アンド・ウィンドウズ」とは、この大胆な二分法を比喩的に言い表したものだった。

鏡と窓の比喩は、文学の世界などでは昔からお馴染みのものかもしれない。自分の読書体験を思い出しても、たとえば小説や詩は「鏡」、紀行文や伝記は「窓」、などと分類できるような気がしてくる。しかし写真は、最初に発明されたダゲレオタイプが「記憶のある鏡」などと呼ばれていたことからも分かるように、もともとその見た目が誰にでも、鏡や窓を連想させてしまうようなものである。だからもしそこに、比喩としての「鏡と窓」をさらに重ねようとするなら、どこかに循環論法的なややこしさが生じてくるのではないか。「ミラーズ・アンド・ウィンドウズ」のカタログを眺める読者の多くは、各々の写真作品の魅力に目を見張りつつも「どうしてこの作品がこちら側に分類されているのか?」とか「この作品は鏡と窓、どちらとも言えるのではないか?」といった疑問を抱くことになるだろう。

写真には確かにふたつの性質がある。写真はすべからく、なんらかの理由によってシャッターが切られ生まれているものだ。たとえ無自覚であれ、僕らはいつもその「理由」を探しながら写真を眺めている。目には見えないし明言もされていない、だが確かなメッセージとして、それは(めいめい勝手に)読み取られている。また同時に、写真はカメラで撮られるのだから、それはまず目の前の事物や出来事の、率直な記録や報告だと言える。そこに何が在ったのか、誰がいたのか? それはどんな様子だったのか?

写真における「鏡と窓」は、二分法というよりも二重性として理解されるべきものだろう。鏡でもあり窓でもある。その自然界にはあり得ない性質を比喩的に表す単語は、「ミラーズ・アンド・ウィンドウズ」から40年以上経った今でも、まだ存在していないように、僕には思われる。

 

Top: “Slow Glass / Tokyo #048” 2006
C-print, 90 x 60cm

©Naoya Hatakeyama
Courtesy of Taka Ishii Gallery

畠山直哉/Naoya Hatakeyama

1958年岩手県陸前高田市生まれ。 筑波大学芸術専門学群にて大辻清司に師事。1984年に同大学院芸術研究科修士課程修了。
以降東京を拠点に活動を行い、自然・都市・写真のかかわり合いに主眼をおいた、一連の作品を制 作。国内外の数々の個展・グループ展に参加。 作品は以下などのパブリック・コレクションに多数収蔵されている。 国立国際美術館(大阪)、東京国立近代美術館、東京都写真美術館、ヒューストン美術館、イェール 大学アートギャラリー(ニューヘブン)、スイス写真財団(ヴィンタートゥーア)、ヨーロッパ写真館(パリ)、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館(ロンドン)

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