24 Aug 2022
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古今東西の建築を見て回った建築史家の藤森照信氏が、日本全国の歴史的建築から、よりすぐりの魅力をもった「窓」を一件ずつ紹介するシリーズ企画。第三回目に取り上げるのは慶應義塾大学の三田キャンパス内にある三田演説館の〈上げ下げ窓〉です。西洋で行っている「スピーチ」をこの国で実践するため、福沢諭吉が「演説」の訳語とともに作った会堂は、ナマコ壁のいわゆる「擬洋風建築」でした。そこにはそれまでの日本にはなかった、上下にスライドする窓が取り付けられました。
日本の伝統建築に、今日誰もが思い浮かべるような“窓”というものはなかった。“窓”と聞いて誰もがイメージするのは、ガラスのはまった窓にちがいないが、その肝心のガラスが近代以前の日本にはなかったのだから、仕方ない。
というとすぐ、薩摩切子とか江戸切子とか、喜多川歌麿の名作「ポッピンを吹く女」に描かれているポッピンとか、人によると正倉院に伝わる白瑠璃碗とか、考古学ファンなら古墳から出土する管玉やトンボ玉を反証としてあげるかもしれないが、それらはすべて美術工芸品に限られ、窓用の板ガラスではない。
ガラスという超貴重な材料は、美術工芸品に使うことはあっても、大量に必要な窓という実用品に回すなど、世界でも古代ローマ人以外には許されなかった。その古代ローマ人だって、教会のような特別な建築の一部の窓に「クラウンガラス」と呼ばれる円型の小板をはめただけ。クラウンガラスはやがてゴシック大聖堂のステンドグラスに続き、さらに産業革命の成果として、大量のガラスを安価に作ることが可能になり、今日の窓ガラスが誕生する。
古代ローマも産業革命もなかったヨーロッパ以外では、近代以前の窓にガラスはなかった。
ガラスの代わりに、板か紙を張って済ましていた。
そこに、産業革命を済ませたヨーロッパから、ガラスのはまった窓が持ち込まれる。以後の過程は建材の割には詳しく分かっているが、ここではパスし、日本の社会に広がったその第一歩の事情を語りたい。
第一歩を踏み出したのは
“擬洋風建築”
だった。
ヨコハマの外国人居留地に次々と作られたガラス窓付き洋館に接した大工棟梁の清水喜助は、アメリカ人建築家のリチャード・ブリッジェンスと組んで、ヨコハマのイギリス領事館を建設する。そして、ブリッジェンスがサンフランシスコより持ち込んだアメリカ開拓用洋風建築と日本の伝統建築の折衷を試み、見事に成功する。建物は木造でありながら全体としては洋風に見え、ガラス窓もはまり、防火性能もそこそこ保証され、かつ日本的デザインも混じる。
ポイントは、日本の大工棟梁にも作ることのできる洋風建築。
この大成功によってブリッジェンスと清水のコンビは、ヨコハマに続いて開かれた築地外国人居留地に〈築地ホテル館〉を実現し、「大工でもできる洋風建築」を江戸から東京と名前を変えた首都にもたらした。
築地ホテル館の衝撃は日本の社会には決定的で、誰もが、ヨコハマの外国人居留地など訪れる機会がない東京の人々はむろん、地方の人々も、錦絵に刷られた画像を通して築地ホテル館のイメージを脳裏に刻んでゆく。
明治の新政権は、新しい時代の到来を二つの方法で日本の社会に告げようとしていた。
ひとつはもちろん、政治体制と経済の革新で、これを「富国強兵」、もうひとつは思想と文化の脱皮で、「文明開化」と呼ぶ。
文明開化を推し進めるうえで大いに働いてくれたのが擬洋風建築だった。
日本にはなかったホテルというオシャレなビルディングタイプ(建築類型)から始まったことが象徴しているように、新政府が主導して進める官庁、学校、病院、郵便局、兵舎、そして民間が取り組む銀行や会社、などの新しいビルディングタイプは、ことごとく擬洋風を旨として全国に広がってゆく。
その時、建築の外観を特徴付けたのが、外壁のナマコ壁(平瓦と漆喰の目地を組み合わせた仕上げ)とガラス窓だった。ガラス窓は、明治の初期、文明開化の世相のなかで、まずナマコ壁とコンビを組んで日本の社会に浸透していったのである。
ナマコ壁擬洋風は全国各地に作られたけれど今に残る例はごく限られ、明治2年の〈新潟税関〉、8年の〈慶應義塾三田演説館〉、13年の伊豆の〈岩科学校〉の三件に過ぎない。
窓を考えるうえで一番ふさわしい慶應の演説館を具体的に見てみよう。
もちろん慶應を創設した福沢諭吉が、アメリカで体験した演説という政治的行為の重要性を日本に伝えるために作っている。慶應義塾は当初、外国人居留地の隣の築地の地で創設されているから、このナマコ壁擬洋風こそ築地ホテル館の直系といって構わない。
その後、慶應義塾の三田への移転にともなって三田の丘の上に場を変えているが、小さい割にその視覚的印象は強く、木々の緑を背にまずナマコ壁が映える。
映えて当然。世界でも黒地に白の建築仕上げなんてないし、そのうえあろうことか線が斜めに走る。白・黒・斜め。こんな地味なような派手なような、日本離れした仕上げがいつどこでどのようにして生まれたのか不明だが、江戸の大名屋敷の外壁には出現しており、推測するに、江戸時代初期の城郭建築で防火のために工夫されたのだろう。城の実例としては金沢城の石垣の上の塀が名高いが(ただし斜めではなく垂直・水平)、その他は知らない。
派手なような地味なような一度目にしたら忘れられない表情をした壁の中に縦長のガラス窓がはまり、一度目にしたくらいでは見逃すかもしれない窓形式がそっと実現している。
“上げ下げ窓”。
擬洋風建築は、ナマコ壁を含む“木骨石造系擬洋風”に始まり、続いて“漆喰系擬洋風”でピークを画し、その後“下見板系擬洋風”に至ってやがて消えてゆくが、いずれの擬洋風においても窓の形式の主流は上げ下げ窓だった。
当時すでに、今に至る普通の窓である“観音開き”もよく知られていたのに、どうして上げ下げに偏ったのか。
と自問してから、上げ下げ形式が欧米のどこで生まれたのか知らないことに気付き、あわてて手近な本に当たってみたが分からない。英語ではdouble windowというらしいが、あるいはアメリカの開拓時代とつながっているのかもしれない。
double windowには、三つの開け方があり、一番簡単なのは下のほうの窓だけをすりあげ、上がりきったところで出っ張りに引っ掛けて止める。軽いし簡単だし防水も十分。
もっと大きな窓だとすり上げるのに腕力が必要になるので、窓の上端に滑車を入れ、上の窓と下の窓を紐でつなぐ。重さはゼロとなるが、しかし、下を上げると上は下がり、目の位置に窓が二重になって結構煩わしい。
一番進んだやり方は、この演説館のように左右の窓枠の内部の上端に滑車を仕込み、錘(おもり)を入れて上下させる。学生時代に下見板系擬洋風を現地調査した時、窓を上げるとガラガラ音がするので不思議に思い、窓枠の破損個所をのぞくと、紐につながれた鉄の丸棒が上下していて仕組みが分かった。100年以上もちゃんと動いており、上げ下げ窓の威力に感銘を受けた。
さて、文の途中で発した問いに戻り、どうして明治最初期の大工棟梁たちは、上げ下げ窓を偏愛したのだろう。
伝統的な窓の障子や板戸と違い、水平ではなく垂直の方向に動くことが、彼らの好奇心を刺激した、からではないか。
建築概要
三田演説館 みたえんぜつかん
設計者:不詳
所在地:東京都港区三田2-15-45(慶應義塾大学三田キャンパス内)
竣工:1875年(明治8年)、1924年(大正13年)移築
日本で初めての演説会堂として福沢諭吉が建てたもの。木造2階建て、瓦葺き、ナマコ壁の洋風建築で、米国から取り寄せた図面を参考に建てたとされる。当初は旧図書館と塾監局の間に位置していたが、1924年(大正13年)に現在の場所に移築された。東京都内に残る最も古い洋風建築のひとつ。1967 年(昭和42年)、国指定の重要文化財となった。
藤森照信/Terunobu Fujimori
1946年、長野県生まれ。東京大学大学院博士課程修了。東京大学生産技術研究所教授、工学院大学教授を経て、現在は、東京大学名誉教授、工学院大学特任教授、江戸東京博物館館長。45歳より設計を始め今に至る。近著に『磯崎新と藤森照信の茶席建築談義』(六耀社)、『近代日本の洋風建築 開化篇・栄華篇』(筑摩書房)等、建築史・建築探偵・建築設計活動関係の著書多数。近作に〈草屋根〉〈銅屋根〉(近江八幡市、たねや総合販売場・本社屋)等、史料館・美術館・住宅・茶室など建築作品多数。