第1回 吉阪隆正《三澤邸》
山の斜面にお辞儀して のぞき込む窓
30 Mar 2022
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室内に光を導くため、あるいは風を通すため。窓には住環境を快適にするという大きな役割がある。また店舗の窓のように、あえて中の様子を外に見せるための窓もある。しかし私たちの多くが、「窓」といえば、窓越しの外の景色を想像するだろう。窓の向こうに何があるのか、それがどんな景色を切り取っているのか。その「マドソト」が、たとえ壮大な自然や立派な庭、あるいはダイナミックな都市の風景でなくても、私たちはマドを「通して」ソトを見ている。
住み手と四季を感じながら
生み出された住宅
場所は神奈川県・葉山の住宅地。やや奥まった小高い敷地に立つ、一見小ぶりだが量感のあるコンクリートの住宅。吉阪隆正+U研究室が設計した三澤邸だ。
建主は、三澤至さんと満智子さん。満智子さんの父は、語学専門学校のアテネ・フランセや早稲田大学でフランス語やラテン語を教えた大村雄治氏で、吉阪家とは家族ぐるみの親交があった。葉山の海からの帰り道、この土地を偶然見つけて衝動買いしたおふたりは、予算にも設計にも何ひとつ注文をつけることなく、吉阪に家づくりのすべてを任せた。
少年期からアルプスの山に親しみ、長年登山家としても活躍した吉阪は、南には緑の山と谷が広がり、西の果てには富士山をも望むこの土地を非常に気に入ったという。そんなこの地の自然と調和しようとしたのだろうか。当初、吉阪は地面を掘り、地中に住居をつくろうとしていたという。しかし、想像以上に地盤が固くて掘削できなかったためにこの計画は断念された。代わりに、それぞれ個性的な形状をした3つの分棟を配し、それらをテラスでつなぐという現在のプランが成立した。分棟のひとつで、南西に位置する円筒型の建物(1階が倉庫、2階が書斎)が、タラップをつたい、まるで地下へと潜るようにして入るかたちになっているのは、この最初の構想の名残なのかもしれない。
なんとも独創的な設計だが、設計だけでなく、つくり方までもが自由そのものだった。吉阪率いるU研究室のメンバーは、寝袋持参で現場に住み込み、毎日設計と工事に励んだ。ようやく三澤さんたちが引っ越してきたときには、まだ1部屋しか完成していなかった。三澤さんたちは、絶賛工事中の我が家に住みながら、レンガ貼りなどの施工にも参加したそうだ。そんな、昼は工事、夜は酒盛りの賑やかな日々は、なんと10年も続いたという。今では到底考えられないような家づくりだが、当時を振り返る満智子さんの笑顔からは、おふたりも、吉阪とU研究室のメンバーも、本当に楽しみながらこの建築をつくったことがうかがえた。実際に吉阪も、三澤邸に対して「私たちはどうも日本の四季を経験しながら、注文主とのやりとりを絵や模型にしながら対話することになる場合が多い。そうした時にはかなり満足して頂ける。(中略)住み手と私たちとで一つの作品に仕上げていくのだからだ」と記している。葉山の自然と四季を感じながら、建築家と住み手が対話し、ともに手を動かし、寝食をも分かち合った結果、この三澤邸という傑作は生まれた。
二方向にカーブする壁
分棟型配置であること以外に、三澤邸のもうひとつの大きな特徴はやはりその造形だろう。3つとも、建物のテラスに接する部分の壁が曲線を描いている。先に紹介した円筒形の建物は、言わずもがな壁が曲線である(しかし、それはテラスに対して閉じている)。けれども、南東の2階建ての建物(1階が子ども室、2階が居間)は、平面図の上で台形の斜辺部分にあたる西壁がカーブしている。そして、北の住居棟(1階が客室、2階が食堂、3階が寝室)は、断面図上で南壁がまるでお辞儀をするようにゆるやかな弧を描いている。水平/垂直は違えど、いずれも2階のテラスの空間を包み込んでいるようだ。なぜ、このふたつの壁はカーブしているのだろうか。ちなみに吉阪は、これらふたつの壁について「水平、垂直の2枚の曲壁面は空気を切り裂く結界である」と記述している。真意をとらえるには難しいものの、なんとも吉阪らしい表現だ。
一方で、三澤邸の建具や家具に対しては「建築の部分で、仕掛けを考えることは楽しい。必要かつ十分、条件と茶目気の精神を混ぜ合わせると特色が出てくる」「家具を逐一製作して、アット・ホームな雰囲気にしていくつもりである」と、とても率直な想いを綴っている。
たとえば、今回取材させてもらった、住居棟3階にある寝室の窓を見てみたい。お辞儀をする南壁に設えられたこの窓は、上部はフィックス窓で、反射率30%のハーフミラーになっている。下部は開閉可能な通気用の内倒し窓で、留め金に大型の旅行かばん用のパチン錠が用いられている。各ガラスを囲む厚みのあるラワンの桟は、目の前の山の木々のような深い緑色に塗装されていた。確かに吉阪の言葉どおり、木のやさしい手ざわりと、手づくりの温かみと愛らしさが感じられる窓だ。下部の通気窓を開けると、新鮮な外の風が勢いよく室内に吹き入った。風は、春には山から桜の花びらを連れてくるという。
この横長の窓は、眼前の山の斜面の杉林の風景を美しく切り取っているわけだが、壁に沿ってやや下向きで、見せる景色は真正面のものではない。しかしこれこそが、壁がなぜカーブしているのか、という問いに対する答えだと思った。吉阪は、目の前の山肌の斜面と谷を俯瞰し、景色を広く深く見せようと意図した。その結果、住居棟の南壁はテラスおよび谷に向かってお辞儀をしたかたちになった。上部をあえてハーフミラーとしたのも、太陽の反射光で谷底を照らして眺めるための工夫だろう。これと同様に考えれば、南東の建物棟の西壁がへこんでいるのだって、遠くの富士山の眺望に向かって、より広く開口部を確保した結果なのだろう。つまり、三澤邸の壁の曲線の決め手は「マドソト」であり、それは吉阪が生涯愛した「山」という自然だったといえるのだ。
……と、やや大袈裟に書いてみたものの、一方で、敷地固有の景観が建築を規定するのはごく自然なことでもある。「マドソト」を意識してリビングや寝室の平面計画をしたり、窓の位置とサイズを決定することは、設計において普通のことだ。しかし、それを壁の曲率に反映させたのが、吉阪らしいと思う。そもそも今回のお題である「マドソト」とは、建築の内側にいる自分が窓を通して外を見たときの、物理的・現実的な景色のことを指している。でもやはりそこには、建築という守られた閉鎖的な空間にいる自分が、窓を通して開かれた外の世界を見たときの憧憬のような、感情的な意味合いも含まれているように思う。山という自然と、建築という人工。人間に不可欠なのに相反するいずれの環境もともに愛し向き合った吉阪が、憧憬に強く引っ張られたかのように建築を造形した。そんなふうに私には見えた。
外にも開かれた窓
三澤邸の「マドソト」とは、葉山の豊かな山の自然だった。しかし、三澤邸の窓はそれだけにとどまらなかった。
私たちが取材をしたその日、関東では猛発達した低気圧と前線の影響で、深夜から早朝にかけて嵐のような大雨と強風が続いた。出発の時間になっても止まず、正直なところ、取材は絶望的かに思われた。しかし、都内から現地に向かううちに、嵐は嘘のように消え去った。依然として強風ではあったが、私たちには都合よく、豪雨は「マドソト」の世界を洗い流し終えたかのように止み、雲ひとつない真っ青な空が広がった。
3階の寝室を拝見したのち、2階に降りてテラスの椅子に座らせてもらった。嵐の後の最上級の晴天の下、今度は窓を「通さずに」吉阪が魅かれた景色を見たのだが、それはあらためてとても美しかった。すると、向かいに座っていた満智子さんがおもしろい話を聞かせてくれた。「こうやって谷のほうに背を向けて座っても、景色が楽しめるのよ」と。勧められるがまま、南の山に背を向ける満智子さんの隣に座り直し、お辞儀をする3階の窓を見上げた。すると、上部のフィックス窓のミラーは、この強い光を反射して背後の青空と山と谷をくっきり映し出していた。
室内から窓越しに見るものだけが「マドソト」ではない。この窓は、室内では透過によって、外のテラスでは反射によって、窓の両面から景色を見せるという、究極の窓だった。
吉阪隆正/よしざか・たかまさ
1917年東京生まれ。スイスで幼年時代を過ごす。1941年早稲田大学理工学部建築学科卒業。今和次郎に師事し、民家や農家の調査を行う。1950年よりパリのル・コルビュジエのアトリエで学ぶ。帰国後、1954年に吉阪研究室(後にU研究室に改称)を設立。その後、早稲田大学で教鞭をとり、すぐれた建築教育者として数多の建築家を輩出する。また、登山家・探検家としても活躍し、1960年の早大アラスカ・マッキンリー遠征ではその隊長を務めた。1980年逝去。
提供/アルキテクト