第3回 涼亭の行方 蘭嶼・後編
12 Jan 2022
(前編より)
野銀集落をあとにして、島を一周してみる。
道中では岩山の上から人間を見下ろすヤギの群れに出くわしたり、岩場の窪みにあるタオ族の聖地のような場所を見つけたり、台湾本島とも違った異国感がある。聖地の岩にペンキで描かれた十字架から、台湾原住民にはキリスト教徒が多いことを思い出す。17世紀よりスペインやオランダの伝道師が台湾にキリスト教を広めていったことは事実として知っていたが、太平洋に浮かぶ熱帯の島の、このゴツゴツとした岩の窪みにまで辿り着いた彼らの思想を目にすると、気が遠くなる思いがする。
山上にある気象台から島全体を見てみようと、坂道をのぼる。途中、さっきまで見学していた野銀集落を見下ろして、おどろいた。「地下屋」からなる黒い集落の隣には、それと同じような規模で、コンクリートでできた集落が並んでいたのである。案内をしてくれたタオ族の女性をはじめ、蘭嶼の若い世代が普段暮らしている「水泥屋」(コンクリート住宅)である。あの暗い地下屋から脱出した若い世代が、旧集落とはしっかり線引きをして、その隣にパステルカラーの家をポンポンと建てていた。
このような新旧集落の対比を見ると、中国・黄土高原のヤオトンを思い出す。そこでは村の高齢化で使い勝手が悪くなった地下住居の多くがそのまま放棄され(埋めるのが大変だからだろう)、無数に開いた地面の「穴」を避けるように、新しいレンガ造りの家が、その隙間を見つけては増殖していたのだ。ここ野銀集落でも、台風対策のため、長い時間かけて大地をいじくってできた遺跡のような地形を壊すのは、簡単ではなさそうだ。結果、そっくりそのまま隣に移動したように新たな集落がつくられ、黒い集落は残ったわずかな老人たちと、静かに海を見ている。
島の人の話では、水泥屋は1970年前後、政府による原住民の「生活改善」政策によって入ってきたものらしい。そこでは過去の暗い家を捨て、清潔で明るいコンクリートの家に住むことが推奨された。地下屋と水泥屋の集落が他人のように並ぶこの風景は、外からもたらされたものによる断絶を何度も経験してきた台湾社会を表しているような気がする。
もういちど、カメラをぐっと寄せて、上から旧集落を覗く。ほぼ完全に埋もれて屋根の先だけが見えているのが主屋(地下屋)、壁が半分埋もれているのが作業小屋で、さらにそれと対照的に「涼亭(リャンティン)」という高床の小屋が見受けられる。彼らの伝統的な家は、実は基本的にこの3つをセットとして構成されている。どうやらこの分棟式は、この島で長く生活していくうちに彼らが辿り着いた住まい方であるらしい。作業小屋は文字通り仕事のために使われていたようで、涼亭は古くは敵を監視したり、ご飯を食べたり、夏の寝床として使われたりする多用途のスペースだったようだ。
この涼亭が気になった。シェルターとしての地下屋の切実さとは対照的に、4本か6本の木の柱に屋根が架かっただけの「からっぽの床」は、なんともあっさりとして、呑気なものに見えるからだ。
簡朴な建物だが、鳥居龍蔵も「余モ紅頭嶼(筆者注:蘭嶼のこと)滞在中屢々コノ所ニ夜ヲアカセシコトアリキ。」(『紅頭嶼土俗調査報告』、1902年 )と記録しているように、来客などほとんどなかったであろうその当時、客人をもてなすためのスペースとして使われていたことからも、その開放性がうかがわれる。ここで風に吹かれる夏の夜は、さぞかし気持ちよさそうだ。
地下屋と涼亭を同時にもっていたタオ族の住まい方。これは「暗く暖かい空間+明るく開放的な空間」という、以前アジアの多くの集落で見てきた住まい方を思い出させる。ある時には中庭とそれを囲うレンガの家として、ある時には泥の家とその周りにとりつく広いベランダとして。そしてここでは、分棟として。世界各地でこんなにも散見されるこの住まい方には、やっぱり人間のつくりだすものの真理や、普遍性を感ぜずにはおれない。
ところで、島の主要な農作物であるタロイモ畑の中には、さきほど集落で見た涼亭に似た休憩小屋がぽつんと建っていた。他にも蘭嶼の農地には、やたらと涼亭が目につく。集落から離れた農地での休憩や雨宿りには、必須の空間なのだろう。
島で宿泊する「漁人(ユーレン)集落」という集落に着いた。随分直接的な名前だが、今はこの集落には宿も多く、縦横に比較的綺麗に分割された傾斜地に水泥屋が密集している。
「この集落も昔は全部地下屋だったんだよ。」
ここに住むおばさんは言う。ここでは、伝統家屋と石垣は壊され、埋められ、何百年もかけて形づくられていた複雑なランドスケープは、車が入り込める道にとって代えられた。あるいは港や空港から近いこともあり、野銀集落とは違う運命を辿ったのかもしれない。とにかく、この集落では、過去の面影はほぼ見つからないようにみえた。
たしかに、頑強なコンクリートが台風から守ってくれるようになった今、地下屋が淘汰されていくのも当然に思える。
そんなことを考えながら集落を歩き、路地を入った先に見つけたのは、コンクリートでつくられた、物見台のような空間。形は少し変化しているけれど、すぐに涼亭だとわかった。都会で古い友人に再会したような嬉しさがあった。その目で集落を見渡すと、コンクリートあるいは鉄骨でこしらえた涼亭が、多くの水泥屋に付属していることがわかった。
タオ族の涼亭は、形を変えながら、新しい集落にも建てられ続けている。無理に保存しようとしたわけでもなく、土地に適した植物がしぶとく生えてくるように、やっぱりつくられてしまうのだ。
集落の一番手前にある海の見える家に付属する涼亭は、古い集落の木材を再利用して建てたものだった。そばにはトビウオが干されている。鉄のはしごで登った先の高床に、おばあさんが横になって、いつまでも眠っていた。
僕は今この文章を、台湾北東部にある「水泥屋」の自室で書いている。2階から外を見れば、そこには田んぼが広がっている。うんざりするような雨が降り続き、まとわりつく空気は重く、少しでも快適にしようと除湿器を稼働すれば、外の空気には触れられない。ここにも涼亭があれば、と時々思うのである。
(第4回へ続く)
田熊隆樹/Ryuki Taguma
1992年東京生まれ。2017年早稲田大学大学院・建築史中谷礼仁研究室修士課程卒業。大学院休学中に中国からイスラエルまで、アジア・中東11カ国の集落・民家をめぐって旅する(エッセイ「窓からのぞくアジアの旅」として窓研究所ウェブサイトで連載)。2017年より台湾・宜蘭(イーラン)の田中央工作群(Fieldoffice Architects)にて黃聲遠に師事。2018年ユニオン造形文化財団在外研修、2019年文化庁新進芸術家海外研修制度採用。一年の半分以上が雨の宜蘭を中心に、公園や文化施設、駐車場やバスターミナルなど様々な公共建築を設計する。