
連載 第19回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展(2025)
制作と出来事──台の上の充実
03 Feb 2026
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現在京都市京セラ美術館で巡回展が開催中の、第19回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館展示「中立点(IN-BETWEEN)」。青木淳氏(建築家)をキュレーターに、藤倉麻子+大村高広、SUNAKI(木内俊克&砂山太一)が出展した。前回の大村氏による解説に次ぎ、本稿では美術家の藤倉氏が、映像作品《Construction Video》のいくつかのシーンから、その「制作」とヴェネチア滞在中の「出来事」について記述する。
展示室の中はあの緑。青味が強く明るい。鶯色(黄色味が強く彩度の低い緑)に近い緑を避けて選んだ。私が見るたびにうっすらとした不安を感じていた宝石、ペリドットは、マントルに多く含まれる鉱物であるカンラン石のうち特に透明度の高いものであるということを最近知った。マントルの色は緑色らしい。夢にまで出てくる古くて手に負えないあの壺は緑色だった。
色があるということは、その色と強く関連のある別の色が、そこに同時に存在しているということだ。たとえば「あの緑」は、鮮烈な檸檬色の光、壁などの表面に柔らかく取り憑くオレンジ色とピンク色が混じり合った塊、気温18度くらいの乾いた空の色、といった情報を含んでもいる。ところで、たいていの建築家は、色やかたちや素材を選ぶとき、常にその理由を「問われている」ように見える。たとえば展示室の壁面や床に敷かれたこの緑色はさしあたり「キャンセルカラー」(「作品でないもの」を表明する色、ということだろう)と位置付けられたが、私にとってはあくまで「あの緑」だから、この呼び方は不思議にも思えた。建築家は自らのあらゆる決定事項が、自らの身体を離れても常に合理的に説明されなければいけないと、苛まれているのではないか。それゆえに作者の主観に囚われず制作物を他者にひらくことが可能になる。それぞれの必然性はさておき、こうした差があるということを興味深く経験した。
日本館の展示室の床は大理石でできている。しばしば人間は大理石をピカピカに磨いて使うが、これは本来、外気に晒してはいけないものではないか、とぞっとする。掘り起こしてはいけないものを掘り起こし、巨大生物の剥き出しの内臓を装飾として、美的なものを含む判断のもとに採用し、長い時間、建築の表面として固定し、見ている。と、私の身体とこの身に宿る主観性はそう感じるのだ。そんな大理石だが、ここでは向こうの映像の光を反射させ、絶え間なく移り変わる薄まった色を間接的に伝えている。大理石に開いた穴を覗くと、通り過ぎる人や、ベンチのまわりで立ち止まる人などが見える。自然光に満ちた外の空間はこちらから見るとやや唐突で、演劇が上演されているようだ。モニターに映る黄緑色の文字(スクリプト)は、暗い道沿いに煌々と輝く物流拠点を見つけたときの、車の前方窓ガラスににじむ光に抱く安らかな気持ちを想起させる。隣接するファストフード店の赤と黄色のLED光と混ざり合いながら、国道沿いのガソリンスタンドが「いつまでもやってるよ」と優しく語りかける。
〈私〉と世界が触れるとき、対象の意味やかたちやイメージは、半ば自動的に別の対象へと連鎖する。それは自然と起こるもので、止められるものでもない。ガソリンスタンドの光が展示室のモニターの文字の光と共鳴し、ヴェネチアに郊外のロードサイドの風景を呼び込むこと。これは特別なことではない。私たちは常にこうした連想の流れの中にいる。この流れこそが、今回の映像作品で私と大村高広が実行していることでもある。以下では展示室で上映される映像のひとつ、《Construction Video》のいくつかのシーンが映し出している状況について、できる限り忠実に言語に置き換えてみる。そしてそのシーンをつくる上で、主観的に関係のある出来事についても書き残しておく。多くのシーンは、ヴェネチアに滞在しながらつくられた。イメージを制作するということは、制作中に起こる身の回りのあらゆる出来事と切り離すことができない。
砂漠のショッピングモール。オレンジ色に発光する店舗の前に糸杉が立っている。街灯が巡回する時間帯。真っ青な空、明るい。週1、作業員による渾身の剪定。切り落とされた葉、丁寧に回収され、それでも大理石の床に残る屑、粉。深緑色の点は少し気持ち悪くて、手で口を覆う。私が黒いヤシの木の幹をぽきっと折り、縦にしてくっつける。写真の前には岩とバスタブが置かれた。周縁の先には何もない。にぎやかな明かりが唐突に終わる。門はなく、モニュメントもなく、最後のガソリンスタンドがあって、くすんだ青い作業着を着た人がいる。
関係のある出来事:Lidoから対岸のSant’Elenaを見る。運河から陸地へ投げ込まれる荷は区別なく石畳きにたたきつけられる。物流の反復の中に生み出される仮設的建設──展示のために呼び込まれた日本館の展示用モニターもそのひとつで、電源をつけると液晶が割れていた。島を取り囲む大量の水、無限遠の光を反射して銀色に光る波が全てを洗い流すだろう。転送先はどこなのか、というのが作業員の一番の関心事だった。よく高架下に来る人が探している広がりとは何か? 色をつけたときにはじめて思い出す。他の人も「この風景ね」と言う。
波打つ青タイルにタービンの影が落ちる。いつまでも眺めている通行人。太陽が黄色い平原の下に沈み始めるときに帰宅する。オレンジ色の巨大な壁に長い非常階段がついていて、上へ上へと自らを複製し、人が行ける範囲を垂直方向に増やしている。偉大な角があり、おそらく壁は閉じきっていなくて、上から抜け出せるだろう。ラムネ味の表面に金具とネジが埋め込まれたものは今はY字のかたちをとる。床、色褪せている。画鋲が硬いプレートに刺さる。農業用ネットを叩いて延ばして面にする。プラスチックが溶けて甘苦い。隅っこにある気持ち悪い網。到着する集団。水色の影が綺麗。エアコンが正常に送風する。
関係のある出来事:波の間に杭が立っている。「あれが『何かの道具』だったんだね」と言われた。確かに似ているから、あれが先に来たのかもしれないが、わからない。ついでに床が波打つことにして、タイルも丁度青いので、「あ、ここは海だったんだね」と言われても、「そうです」と言える。波が切断される場所に立っている。目の前の水面が揺れている。石畳の上にいる。3DCG空間の座標系の中にもいる。石畳は波のように揺れることもできる。
上の世界は乾いていて、下の世界は湿潤な気候。湿度が高いから、夜、街灯のまわりに白い粉が密集している。私はふたつの層の間にある分厚い岩盤に穴を開けて照明を供給する。繋がるはずがなかった世界。間違って交わってしまったから爆発が起こる。普段陽気な人が驚いて叫ぶほど、それを目撃することはみんなの頭に違和感をもたらした。ピンク色の大腿骨が階段を上る。
関係のある出来事:ピスタチオのアイスクリーム。甘さが控えめで豆の風味がよく残るものもあれば、砂糖でごまかされた少し緑なだけの白いものもある。海上のピンク色の朝焼けを一度も見なかった。ある状況が起こることを意図してつくられた対象を仮に「台」と呼ぶ。台は地表と太陽光のある関係を満たせば発生するものだった。かつては。状況が変わったのは、台が高速道路へと変形した後、ごく最近のことだ。台の成立に必要な条件は太陽光と地表のみであったところに、街灯が出現した。
ご機嫌なハイウェイ音楽。車内でラジオが流れている。くぐもった音。丸太がミントグリーンの高速道路の上を滑る。回転する。追い越し追い越される。金色に縁取られた碑文が高所に置かれている。振り向き、少し読み、進路に戻る。うしろの太陽がそれらを目立たせていた。メモ書きをする主体は分岐点で頭を空にした後、白い大看板の方を向く。
関係のある出来事:2名の展示アシスタントと母と祖母はLidoに宿泊している。毎日波の上を滑ってやってきて帰る。終電はない。アパートとGiardiniの間の路、左に波と杭。畑の隣の鉄塔を囲む複雑な形象の鉄の強度について考えたことを思い出す。母が水上バスの直行便を逃したとき、祖母はひとりで帰り、偶然門の外にいた人の後について建物に入り、先に部屋で寝た。均質な時間から抜け出すこと。分岐の方向について、まだうまく説明できないが、屈折的ではあるものの、誰がなんと言おうと実は線形なのだ。
土管が、塀のすぐ外の広大な土地で回っている。綺麗な大看板。上部に取り付けられた小さいスポットライトがグラフィックを照らし、看板の周囲はますます幻想的にぼうっとしている。小さいタイヤだけが越境して向こう側に飛んで行くことができる。向こう側はこちら側から見ると灰色に曇っていて、生暖かい。日中、停滞の中に閉じ込められることはなさそうだ。
関係のある出来事:サッカースタジアムの囲い。選手は見えず、歓声と怒号が聞こえる。休日に観戦したい。兄におすすめの試合を聞くが行けなかった。スタジアム照明のまわりが青緑色に光るとき、通ることのできない入り口が現れる。隅田川沿いを走っていたときに、ある橋桁に目を止めた時間が少し長かった。その日は大変で、水が入った容器は大体倒してしまって、水が床にたまり、こんな量の水が入っていたのかと驚く。夜は久々に「古くて手に負えない夢」を見た。人には手を出してはいけない緑があるのだ。特に水の流れが滞る場所、ある物のまわりにその停滞した水がひっついているところは、覗いてはいけない。
ミネラルウォーターの陳列棚。黄色い板の下にオレンジ色のLEDが取り付けられて、ジリジリと音を出している。探るように動く向こう側の文字。外壁塗装された表面。マス目、縁が盛り上がっていて、豪華に光輝く破片が隙間に滑り落ちないようになっている。あの怖い緑色の巨大な袋の向こうに黄色い柱を見る。フェンスにぐっと寄り、網目のひとつから、柱の素早い動きを捉えるのだ。黒いタイルの目地は少し汚れていて、四方から標識が倒れてくる。一番下になった標識の頭は、心地よく横たわる。
関係のある出来事:Sant’Elena島の東端、ベンチに座って水路を眺める。人々がある方向に向かう。行ってみる。穏やかな中庭を取り囲む回廊のある教会を通りすぎ、水路の脇道を北の海の方に向かう。犬を連れた人は行き止まりまで行ってヨットが停泊する港を少し眺めた後に戻ってくる。軽装の集団が古い建物の敷地内に消える。設備室の入り口を囲む古いレンガ。囲いの写真を撮ろうと思ったが、むやみに記憶に留めて特別な場所と認識するとよくない。体の向きを変える。
偉大な橋脚からピンク色の綺麗な排水が流れ落ちる。垂直に落下し、周囲半径2kmに轟音を響かせる。ここはだいぶ離れた場所。音は聞こえないが、壮大な景色に圧倒される。すさまじい水量が見えもしない下に消えていくから、おののく。あの橋脚の高さを測った人はいないだろう。糸杉が水路の両側に等間隔に並び立っている。
関係のある出来事:San Micheleは墓の島。人が角を曲がり続け、突如垂直方向に逸脱し、消える。島はそこに見えている。白いキューブに規則的に開いた穴には、花が綺麗に飾り付けられていた。あるひらけた場所には糸杉が整列している。造船所の右にあり、東からさらに右、にある。島の周囲を門のような塀のようなものが取り囲んでいる。私は東京では自ら東に固定されている。東には海があり港があり、地表面の少し上に、強い力で広がりを限定する黒いものがあると感じるからだ。大型ビルのエントランスに設置された彫刻が人々の集中を削ぐが、ガントリークレーンがコンテナを横に滑らせ、軌道に引き戻すので、充実している。
場所と場所が、時間と時間が、文字通り重なり合う。波の上にも、ヴェネチアの石畳の上にも、3DCG空間の座標系の中にも、同時にいる。この往復運動の中にいるとき、制作は充実する。この往還を観客にもひらくために必要なもの──それが「台」だ。台とは、対象の内部へと性急に越境せず、境界にとどまり、持続的に奥を観測するための足場である。何もない荒野では、どこに佇めばいいのかわからない。むしろ、明確な構造や(できれば装飾的でなく機能的な)形象があった方が、かえって頭も身体も自由に働き動く。他方で、ある様式や形式に基づいて設計された空間──庭園であれ建築であれ──には、設計者の意図が織り込まれていて、無作為な偶然が介入する余地はないように見えるが、しかしその構造があるからこそ、対象を凝視することと、そしてそこから逸れて連想を展開することが両立する。
高速道路の遮音壁の外側で、蔦植物とコンクリートの組み合わせを眺めながら壁の向こうを想像するときの「あちら側」は、遮音壁の内側と外側が一緒くたになった茫漠とした広がりとして立ち上がる。あちらへ渡る橋がかけられていたとしても、実際に確かめることができるのは、橋の右と左に土地があるということだけだ。「こちら」と「あちら」の間にはただ運動がある。徒歩と凝視による立ち止まりがこの運動を支える。それぞれの速度は決して衝突しない。
藤倉 麻子/Asako Fujikura
1992年埼玉県生まれ。東京都在住。都市・郊外を横断的に整備するインフラストラクチャーや、それらに付属する風景の奥行きに注目し、主に3DCGアニメーションの手法を用いた作品を制作している。近年では、埋立地で日々繰り広げられている物流のダイナミズムと都市における庭の出現に注目した空間表現を展開している。近年の参加展覧会に、マシン・ラブ:ビデオゲーム、AIと現代アート(森美術館、2025)、第19回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 日本館『中立点—生成AIと未来』(ヴェネチア・ビエンナーレ日本館、2025)などがある。







