第16回 シェムリアップ 「洪水と床」(前編)
11 Jan 2018
カンボジアのシェムリアップは、アンコールワットをはじめとする遺跡群を見学する観光客で賑わう町である。多くの旅行者と同じように僕も遺跡を一通り見た後、現在どんな家に人々が住んでいるのか気になり、安宿で借りた自転車を川沿いに走らせた。地図で事前に確認したところによると、シェムリアップ川沿いを1時間ほど下っていくと、あのトンレサップ湖があるらしい。
トンレサップ湖はカンボジアで最も大きい、いや東南アジアで最も大きい湖として有名である。雨季にはその深さは9倍に、面積は6倍に変わるという、まるで「動く」湖である。この水量の変化がこの地の豊かな農業・漁業を成り立たせているのであるが、周辺の村は雨季には水に満たされるため、水上住居や高床住居が多く見られるらしい。
湖を目指して自転車を走らせていくと、だんだんと高床住居が目につくようになってきた。1、2メートルくらいの高床で、家の材料はだいたい木と屋根の波板であるが、レンガや、大きな家にはコンクリートを使う家もあった。
高床は徐々に高さを増していく。しばらくすると、フナム・クロムという遺跡のある丘が右手に見えた。古くから人が暮らしてきた場所なのかもしれない。その先のある集落に自転車を停めて歩いてみる。
集落には真っ直ぐな道が伸びており、その両脇の数メートルほど低くなっている土地に、高床住居がずらりと並んでいる。低い方の土地が本来の地面の高さで、そこに現在は道になっている部分を高く盛り上げ、水没を想定して計画的につくったものなのだろう。
道沿いの家々には、木材などで設えた簡易的な橋を渡って入っていく。商店の入り口で小さな子供が遊んでいた。建物の柱はか細く、地面に突き刺さっているだけである。
高床部分がどのくらい高いのか気になり、道の脇から地面へと急な坂を下りていった。下から見上げると、来る途中に見た高床住居よりもずっと高く、大体4メートルくらいある。湖の浸水具合が家の高さとして転写されているのだ。
高床に囲まれると妙な安心感があった。4メートルもあると、その空間は単なる「床の下」ではなく、ひとつの空間として独立しているような気がした。ペットボトルやビニールが投げ捨てられ、短い草が生え、牛が自由に闊歩するこの床下の空間に、人々はハンモックを吊るし、植物の葉っぱで壁を立て、さらに床をつくりそこで食事をとったりもする。ここは雨季には無くなるひとつの部屋になっているのだ。
家は、非常に安価な材料によってつくられる。細い木材で軸組をつくり、屋根も壁も薄いトタンで、簡単に打ち付けられているだけ。窓に注目してみると、ほとんどの家が引き戸でも開き戸でもなく、開口部でトタンを跳ね上げ、つかえ棒で支えている。窓庇のみといった感じであるが、上部でこの板を支えさえすれば、簡単に雨を防いで通風を確保できる非常に合理的な窓である。
あたりの家はまるで生き物のようにパタパタとこの窓を跳ね上げている。瞼のようにも見えて愛らしい。激しいスコールがきて、みな一斉に「パタン」と閉まる情景を想像しながら、自転車でもう少し湖に近づいて行く。(後編に続く)
田熊隆樹/Ryuki Taguma
1992年東京生まれ。2014年早稲田大学創造理工学部建築学科卒業。卒業論文にて優秀論文賞、卒業設計にて金賞受賞。2015年度休学し、東は中国、西はイスラエルまで、アジア・中東11カ国の集落・民家をめぐって旅する。2017年早稲田大学大学院・建築史中谷礼仁研究室修士課程卒業。修士論文早苗賞受賞。2017年5月より台湾・宜蘭の田中央工作群(Fieldoffice Architects)にて黃聲遠に師事。