12 Sep 2023
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古今東西の建築を見て回った建築史家の藤森照信氏が、日本全国の歴史的建築から、よりすぐりの魅力をもった「窓」を1件ずつ紹介するシリーズ企画。6回目は京都の仁和寺金堂の〈蔀〉を取り上げます。仁和寺金堂は京都御所の紫宸殿を移築したものです。そこには、上に跳ね上げて開ける蔀が使われています。世界の建築史を見ても類例のないこの窓形式は、どのように誕生し、日本の宮殿建築に取り入れられていったのでしょうか。
日本の数ある伝統的な窓形式の中で、もっとも取り上げてみたいのは、
「蔀」。「蔀戸」ともいう。
まず実例を紹介しよう。近畿地方には、特に皇室と縁の深い古寺が多く残るが、やはり取り上げるなら、天皇の住まいである紫宸殿にしたい。現在の京都御所の紫宸殿は寛政2年(1790年)、反幕府の想いを込め、復古的に建設したものを安政元年(1854年)に再建したもので、建築思想的には興味深いが、ここではその前の時期の紫宸殿を取り上げる。
慶長18年(1613年)につくられた紫宸殿が、寛永20年(1643年)に皇室と縁の深い京都の名刹、仁和寺に移されて本堂として使われている。古の紫宸殿と違い、檜皮葺きの屋根は瓦葺きに変わっているが、平面の形式も古を残し、もちろん蔀も古を伝える。
お寺の方に跳ね上げ方を実演していただいたので、どう使っていたかがよく分かる。跳ね上げるだけでなく、下半分を取り外すつくりもあるが、これは寝殿造の階高が次第に上がっていった進化に応じた工夫である。
大きいものになると大人でも跳ね上げられなくなるほど重い理由は、蔀のつくりにある。広い面を固定化する働きをするタテヨコの桟が密に入り過ぎているのだ。安土桃山時代直前の頃に成立する雨戸のように、鋸で挽いた杉の薄板を、小さな桟で片側のみから固定すれば軽くできるが、そうしなかったのは木の枝を密に組んで両側から押さえた古式を守ったからだった。
蔀と書いて「しとみ」という慣れない読み方からして由緒不明、来歴不詳感を免れないが、しかしその由緒来歴は日本の窓のなかではあまりに深く、かつ古く、平安時代の歴史と文化を語るうえで欠かせないかの寝殿造に付いていた窓形式にほかならない。世界最古の物語として知られる紫式部の『源氏物語』や、清少納言の『枕草子』の舞台を飾った窓、と聞けば文学ファンや美術ファンなら「ははん、あれのことか」とイメージできるだろう。
日本における由緒も来歴もしっかりしているにもかかわらず、その形式は世界的に見るとあまりに異様で、どうしてこんなことになってしまったのかと訝しくなる。
なんせ、窓を開けると窓が消えるのだ。世界の窓では、ヨーロッパのように内開きの窓の場合、開けても室内側の壁側の左右に張りついているし、外開きのときも、窓から顔を出して左右に目をやるとそこにじっとしている。なのに、蔀の場合はどこに隠れたか探すのに苦労する。
人の顔は左右に振りやすいし、人の目は左右に2つ並んでいるから、対象物を探すとき勢い左右両側に視線を向けるが、わが蔀はそこにはおらず、なんと頭上に、それも壁の外側の頭上に隠れているから、なかなか見つからない。消える窓。
世界でただひとつの消える窓には、もうひとつの「世界でただひとつ」がある。一般的な日本の窓の場合、たとえ開口面積の大きい雨戸や障子やガラス戸のような場合でも、窓を開けても壁面は見えるのに、蔀の場合、頭上に身を隠すと、壁面に見えるのは点々と立ち並ぶ線状の柱と一部に取り付く板扉(妻戸か遣戸)のみ。ちなみに妻戸は側面固定、遣戸は引き違い。つまり、蔀という窓を開けると部屋が外に向かって全面的にオープンするのだ。
寝殿造に壁はなく、点々と立ち並ぶ柱だけで屋根が支えられ、その立ち並ぶ柱と柱の間は、上に跳ね上げれば軒の下に隠れる蔀により塞がれているだけなので、こうなる。
世界の建築史上にも例のない、こんな窓のつくりはどうして誕生したかについて考えてみよう。
まず考える必要があるのは、柱だけで屋根を支える住まいの起源で、これは弥生時代にあると見て、まず間違いない。1万年以上続いた狩猟採集の縄文時代が終わり、紀元前3世紀頃、大陸から水稲耕作と鉄器が伝わって弥生時代が始まったとき、新しい時代を容れる器として、高床式住宅が入ってくる。それまでの縄文時代の竪穴住居は、防寒を第一として成立し、地面を掘り下げ、屋根には土を盛った自閉的なつくりを特徴としたが、一方、弥生時代の高床住居は、温暖で湿潤な中国・長江流域で水田稲作用に誕生したから、洪水と強い湿気を避けるため、柱を伸ばして床を高く張り、屋根を支えて並ぶ柱の間にきちんとした壁はつくらず、通風をよくするための簡単なカバーというか、蓋のようなものを押し当てて済ませていたにちがいない。
タイの王宮の一角に保存されている古式の高床式住宅を見ると、丸柱の外側から板をあてがっただけの例があり、日本の高床式とのつながりを思った。長江下流域から水田稲作とともに北に向かい日本の高床式に、南に流れてタイの高床式になったのであろう。
とすると、そのカバーというか蓋は、どんなつくりだったのか。タイの現存例は薄い板であったが、古代においては薄い板をつくるのは困難を極めた。柱は斧で伐ればいいが、板をつくるには縦挽きの鋸が必要になり、縦挽き鋸の発明はヨーロッパでもアジアでも中世を待たなければならなかった。日本には鎌倉時代に、中国から禅宗寺院建設に伴って導入されている。
板の代わりに使われたのは、おそらく樹の皮か葉だったと思われる。タイなら椰子の葉を、日本なら檜か杉の樹皮を網代状に編んで薄い面をつくり、面の縁は2本の太めの枝で挟み、面そのものは細い枝を両側から差し渡し、両側から面を貫いて縄で縛って固定した。つくりについては具体的な証拠が残っているわけではないが、私ならこうしただろう。
こうして生まれた蓋をどう柱に取り付ければよいのか。昔も今も、シャッター式ではない蓋を建築に取り付けるには、次の5つのやり方しかない。
① 必要に応じて付けたり外したりする。
② 柱か壁に蓋の側面2か所を固定し、回転性を持たせる。回転可能にするため、ヒンジ(蝶番)か、妻戸方式を使う。
③ 上端と下端の溝を水平に滑らせる。日本の雨戸と障子の方式。
④ 上端を固定し、回転して跳ね上げる。
⑤ 側面を固定し、垂直に滑らせる。ヨーロッパ由来の上げ下げ窓。
タイの古式高床住宅は①の方式を取っていた。日本の蔀も、おそらく当初は①であったが、たとえば毎日、朝に外して夜に取り付けたりするのは不便なので、④に進化したと考えてまず間違いない。以上のように、上吊り跳ね上げ形式が長江下流域の米作地帯で生まれ、やがて日本に伝わって蔀となった、まではいいが、ここに大きな謎がある。なぜ、日本にのみいつまでも蔀が生き続けたのか。
渡来後の蔀形式の歴史を辿ると、蔀は皇室関係の具体的には寝殿造の中で使われ、寺院においては、鎌倉時代に禅宗建築が入って以後、使われなくなることも増えるが、古い寺院の一部では使われ続けて今に至る。天皇を頂点とする平安貴族の住まいの形式として、『源氏物語』や『源氏物語絵巻』に描かれてきたことから知られるように、天皇の住まいは、なぜか古式を守ることを旨とし、たとえば飛鳥時代に大陸から仏教建築が入ってきても、天皇自身が創設する寺院と自身が司る行政庁には新しい形式を取り入れる一方、自らの住まいと先祖を祀る神社の形式を変えることはなかった。「昨日と同じ」を旨とし、そして蔀も残った。
最後に、蔀の致命的欠陥を付記しておこう。全面的な蓋だから、気候の悪い時期に開けると風雨が直接室内を吹き抜けるし、閉めると昼でも真っ暗。少しだけ開けて我慢していたにちがいない。『枕草子』の「香炉峰の雪いかならん」の景などは、ヤケクソの描写だったのかもしれない。
建築概要
仁和寺 金堂 にんなじ こんどう
設計者:不詳
所在地:京都府京都市右京区御室大内33
竣工:慶長18年(1613年)
京都の仁和寺は第59代宇多天皇が仁和4年(888年)に創建。応仁の乱で建物のほとんどを焼失したが、江戸時代になって復興が図られ、京都御所の建て替えに際して、その建物も下賜された。金堂もそのひとつで、御所の正殿である紫宸殿を、寬永20年(1643年)に移築したものである。現存する最古の紫宸殿であり、近世における紫宸殿の唯一となる遺構として、国宝にも指定されている。堂内には仁和寺の本尊である阿弥陀三尊のほか、四天王像や梵天像を安置する(通常は非公開)。
藤森照信/Terunobu Fujimori
1946年、長野県生まれ。東京大学大学院博士課程修了。東京大学生産技術研究所教授、工学院大学教授を経て、現在は、東京大学名誉教授、工学院大学特任教授、江戸東京博物館館長。45歳より設計を始め今に至る。近著に『磯崎新と藤森照信の茶席建築談義』(六耀社)、『近代日本の洋風建築 開化篇・栄華篇』(筑摩書房)等、建築史・建築探偵・建築設計活動関係の著書多数。近作に〈草屋根〉〈銅屋根〉(近江八幡市、たねや総合販売場・本社屋)等、史料館・美術館・住宅・茶室など建築作品多数。