16 Feb 2017
日本における「窓が増える社会」は、明治以降にやってきたと考えられます。ガラス窓が一般住宅に普及し始めるのも、大正・昭和初期からです。この時期はちょうど、資本主義が発達し都市文化が繁栄する時代と重なっているわけですが、同時に経済格差や貧困、病気が社会問題化していく時代でもありました。都市化によって人口が過密になり、清浄な空気や清潔な水、そして日光が圧倒的に不足したことで、結核が蔓延していきます。結核は「国民病」とも呼ばれ、「光線の来ない所へ医者が来る」と言われたりもしました。日光に社会的な関心が集まるようになるのは、こうした時代でした。
当時、結核は不治の病であり、さまざまな治療法が考案されては実践されていました。そのなかで、日光が結核の予防および治療上で有効だとされ、日光浴や「日光療法」というかたちで用いられていくようになります。日光療法とは、日光に含まれる紫外線がもつ殺菌作用と刺激作用を治療に用いる療法です。20世紀初頭に欧米各国で盛んに行われ、日本では1920年代半ば頃から導入されたと推測されます。
なかでも、1926年に長野県富士見町に開設された「富士見高原療養所」は、本格的に日光療法を導入したはじめての結核療養所 (サナトリウム) だと言われています。ここの初代院長であり作家でもあった正木不如丘 (本名は俊二、1887-1962) は、日光療法を実施するだけでなく、出版を通じて日光がもたらす効用の啓蒙活動に努めました。『日光療法』 (1928年) のなかで正木は、「特に結核性疾患の大部分は、最も治療のむずかしいものでありますから、それに対して日光療法が著明の効果をもたらし得ると云う事は、日光療法の最も顕著なる功績と云う可き」 (p. 83) ものであると言っています。
実はこの富士見高原療養所は、堀辰雄の小説『風立ちぬ』 (1938年) の舞台としても知られています。有名なこの小説から着想された宮崎駿監督のアニメーション映画『風立ちぬ』 (2013年) においても、やはりこの療養所は登場しています。しかし、あいにく療養所の建物は数年前に取り壊されて現存していません。そこで次に、現存しているサナトリウムを紹介しましょう。
滋賀県の近江八幡市に、建築家のウィリアム・メレル・ヴォーリズ (William Merrell Vories、1880-1964) によって設立された結核療養所があります。「近江療養院」と名付けられたこの療養所は、町の中心部から少し離れたところにある八幡山の麓に1918年に設立されました。偶然にも、この年は日本の結核死亡率が史上最高を記録した年でした。この近江療養院の本館は、アメリカ人のメアリー・ツッカーの寄付金をもとに建てられたことから、「ツッカーハウス」としても親しまれています。
写真からもわかるように、かなり傷んではいますが建物はほぼ当時のまま残されています。建物の中央部のみ3階建てとなっていますが、それ以外は2階建てで左右対称のかたちをしていることがわかります。一目見て気づくのは、窓の数の多さとその大きさでしょう。この建物は南向きに建てられており、太陽の光をできる限り室内へ取り込もうとしていることがわかります。ここでさらに注目してもらいたいのが、建物の両端にある円筒形の部分です。この内部に設けられた部屋は日光浴室として使用されていました。円筒形にすることで窓の数を増やし、より多くの日光を集めようとしたのではないかと思われます。上部の窓を開閉することで新鮮な空気を取り込んでもいました。療養中の結核患者たちがこの部屋で日光浴をしていたといわれています。
ヴォーリズがいかに窓からの採光を重視していたのかは、彼の著書『吾家の設計』 (1923年) からもよくわかります。たいへん興味深いので、いくつかそのまま引用してみます。
私の居ます関西の方では、殊に昔の住宅は、むこうの迷信とでも言いましょうか、非常に光線を嫌って、何でも、光線が余り家に入りますならば、財産は逃げて行って了う、というので大変苦心して造り上っております。 (pp. 22-23)
決して合理的とはいえないような人々の迷信に直面して困惑する様子が、率直に語られています。それにしても、日本の住居の中が暗かったというのはよく言われることですが、わざと太陽の光が射し込まないようにしていたというのは驚きです。では、ヴォーリズはなにゆえに採光が大事だと考えていたのでしょうか。
光線が立派に部屋の中に入るとすれば、それは自然に殺菌ができるのであって、健康のため何より必要だと思います。/そんならどういふ風にして光線をとるか、言うまでもなく窓の設備です。余り廂を出さずに、よく光線の入るように窓をつけるのです。 (pp. 23-24)
このように、健康という理由から、採光に不自由な住居づくりを否定しています。もちろん、これは住居について語られたものですが、ヴォーリズが近江療養院においても日光が不可欠であり、そのために窓の設備に大きな関心を寄せていたことは明らかでしょう。その証拠に、近江療養院のパンフレットにも「当地の気候上の特徴、建築物内外の日射関係、その他諸般の衛生的条件について精細なる観察を遂げて設計された」とはっきり書かれていました(『OMI SANATORIUM 近江八幡町外北の庄 近江療養院一覧』、1929年)。
サナトリウムでの日光療法と聞くと、限定された場所での特殊な実践だと感じるかもしれません。しかし、結核対策や健康増進が社会的に大きな関心事となったこの時代、一般の住宅でも日光浴室 (サンルーム) が設置され、そこでの日光浴が推奨されるようになります。その意味では、サナトリウムは戦前日本の「窓が増える社会」を象徴するひとつの建物であるようにも思えます。
このように、「見る/見られる」という可視光線だけではなく、「見えない光」である紫外線に着目するならば、窓のより多様な (あるいは他様な) あり方へと目を向けることができます。それは「見る」ための窓とは異なる窓のあり方やそれに関わる人びとの営みを垣間見させてくれるでしょう。
付記
近江療養院(現・ヴォーリズ記念病院)の調査にあたりご協力いただきました、公益財団法人近江兄弟社本部事務局長の藪秀実様と公益財団法人近江兄弟社嘱託研究員の芹野与幸様に深く感謝いたします。
近江療養院本館の写真は、すべて許可を得たうえで撮影し掲載しています。
なお、引用にあたっては、読みやすさを優先して、旧仮名遣いは現代仮名遣いに、旧字体は新字体に変えてあります。
西川純司/Nishikawa Junji
1983年、滋賀県生まれ。2013年に京都大学大学院文学研究科博士後期課程研究指導認定退学。日本学術振興会特別研究員DC2、日本学術振興会特別研究員PDなどを経て、現在、神戸松蔭女子学院大学文学部専任講師。主な業績として、「社会のなかの窓ガラス」他(『窓へ――社会と文化を映しだすもの』日刊建設通信新聞社、2013年)や「イメージからみる近代日本の窓ガラス受容」(『窓から建築を考える』彰国社、2014年)、「家庭衛生と窓ガラス――1920〜30年代日本の住宅言説における「明るさ」をめぐって」(『ソシオロジ』第56巻3号、2012年)、「近代日本の都市計画と統治――内務官僚池田宏の都市計画論の分析から」(『ソシオロジ』第58巻3号、2014年)、「ヴァルター・ベンヤミンにおけるガラスのモティーフ――「経験と貧困」と『パサージュ論』の理論的検討」(『京都社会学年報』第18号、2010年)など。