「札幌の家・自邸」の試み
07 Feb 2023
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北海道を代表する建築家・上遠野徹(1924-2009)による「札幌の家・自邸」は、コールテン鋼の鉄骨フレームによるカーテンウォール、複層サッシ、銅管による床暖房などの技術が、レンガ壁や障子戸といった地域特有の意匠と融合した、北海道の風土に根ざした実験的なモダニズム建築として知られている。上遠野が構想した北国のモダニズムの原型とはなんだったのか。北海道に拠点を置く若手建築家・宮城島崇人が「札幌の家・自邸」の挑戦的な試みを解き明かす。
「札幌の家・自邸」(以下「札幌の家」)は、札幌南部の都市郊外に広がる美しい農地エリア(当時)に、1968年に建てられた鉄骨造平屋の、上遠野の自邸である。カラマツとヒバの木立に囲まれた豊かな環境のなか、経年したコールテン鋼のフレームとレンガ壁が美しい、卓越したプロポーションの住宅が佇む。南面する庭に対して縁側をもち、フレームから800mmほどセットバックした、間口いっぱいの16.5mに及ぶ黒い鋼製連窓と、その奥にのぞくやわらかい障子戸。当時の最先端の建材と設備を取り入れ、設計者によって実験住宅と呼ばれたこの住宅は、現在に至るまで北国の建築を牽引してきた。
ここで、当時の北海道の住宅について概観したい。「札幌の家」竣工の15年前にあたる1953年、北海道の住宅政策の転換点となる北海道防寒住宅建設等促進法(寒住法)が制定された。この法律は、北海道の生活環境の向上を目的に、木材資源の合理的利用や防火性の向上なども見据えながら、非木造の防寒住宅の普及を強力に押し進めた。木造住宅には融資が下りなくなったため、コンクリートブロック造の壁にシンプルな切妻屋根を乗せた“三角屋根住宅”が広く普及するきっかけとなった。当時は断熱材を施工しないか、あってもおがくず程度(グラスウールの使用が始まったのは1960年代から)で、開口部には単板ガラスのアルミサッシと木製内窓の二重窓が採用された。「札幌の家」が竣工した翌年の1969年、寒住法が一部改正され、断熱基準が示されたが、当時の一般的な住宅の断熱仕様はグラスウール25mm程度であったという。融資対象が木造と鉄骨造にも拡大されたため、以後木造住宅が増加するが、断熱・気密性能が向上するにつれ今度は結露問題が深刻化し、原因究明と実証的な研究を経て、防湿・気密施工・通気層・気流止めの設置などの一連の結露、壁内気流対策の知見が共有されるまでにはもう15年ほど待たねばならなかった。
概して建築家の意欲作は常にその時代の先をつかもうとするものであるが、むき出しの鉄骨フレームでスパンを飛ばし、複層ガラスの連窓、温水床暖房、100mm厚の発泡スチロール断熱材を採用した「札幌の家」が、その頃の状況に照らして、いかに先進的でショッキングな住宅であったか想像してみてほしい。上遠野が鉄骨造を採用した理由は、イームズやミースの鉄骨造建築に触発されたこと、前職の竹中工務店で鉄骨造の住宅を初めて試み、その実験を進めたかったからだという。鉄骨造は構造体の熱伝導率が高いために熱橋が起きやすく、躯体自体の熱容量も少ないので、結露のリスクが非常に高い。寒冷地では最も気を使わなければならない、難しい構造形式である。当然そのリスクを理解していただろう上遠野は、あえて寒冷地における鉄骨造建築の可能性に挑戦した。上遠野は鉄骨造に何を期待したのか。
まず、スパンを大きく飛ばすことができ、積雪荷重を難なく支える無落雪屋根が可能となる。壁は構造から開放されてカーテンウォールとなり、開口部も制約を受けない。カーテンウォールは、求める性能に応じて外装材・断熱層・通気層を自由に構成でき、同時に外装のテクスチャをどうするかというテーマが先鋭化する。上遠野はブロックとレンガを二重積みにして、間に通気層を設け、室内側に積んだブロックの内側に、当時は珍しかった100mm厚の発泡スチロール板を入れて内断熱の壁とした。カーテンウォールだから薄くなるのではなく、何重にも重ねられた厚い壁となるのは北国特有である。躯体の熱容量も大きくなり、外気温の変化に対して安定する。上遠野は北国の厳しい気候に耐える美しい材料としてレンガを好んだ。レンガは近郊の野幌で生産される身近な素材だが、高価だったため色ムラのあるハネ品を安く買って用いた。それは実に多様な表情を持つ、人工物と自然物のあいだのような美しいレンガ壁となった。関東大震災を経て、レンガ組積造の脆弱性が明らかになって以来、構造としてのレンガは敬遠されていたというが、カーテンウォールとすることで上遠野は鮮やかにレンガを復活させた。そのことを強調するかのように、「札幌の家」のレンガ壁は、地面から立ち上がるのではなく、H鋼に支えられて軽やかに浮いている。このように、鉄骨造を枠組みにして、北国に普遍の事柄に向き合い、解決することを通して、上遠野は次々と発明を進める。
上遠野の大胆な実験を支えたのは、彼が何よりも重要視していたディテール、とりわけ窓のそれである。構造から自由になった開口部に、その工夫は惜しみなく発揮された。収納扉なども含めると、内部はほとんど建具と、それに付随した豊かな造作で満たされている。庭に面した大開口は、当時まだ珍しかった複層ガラスの最大製作サイズを用いた、特注のコールテン鋼サッシによる連窓で、各室に対して一箇所ずつ大きな吊り引き戸がつく。流通していたアルミサッシは、スチールサッシよりも熱伝導率が高く、見つけが大きかったので、型鋼と板曲げによって袋状のサッシを製作し、ガラスはガスケットで納めた。居間の天井高は2300mmと抑え気味で心地よいが、数値で聞く以上に空間の重心が低く、落ち着いて感じるのはおそらく、床上にはガスケット部分しか見えないよう、立ち上がりを最小限に抑えたスチールサッシが、縁側、月見台、庭へと絶妙に下がっていく空間の勾配を、微細に感じさせているからではないか。気がつくと上質な家具に腰を下ろし、冬の陽射しを浴びながらぼんやり庭を眺めていた。
熱伝導率が高い部材は、なるべく室内側に出さないことが結露対策の基本なので、サッシの見つけが小さいのは有利である。ガスケットもスチールサッシよりは安全側にはたらく。同じ理由から、スチールの縦枠には木を貼る。引き戸はサッシの下方に付けたグレモンハンドルで引き寄せ、気密を確保する機構だが、引き戸の気密性には限界があるので、和紙を太鼓張にした断熱戸を設けて二重窓とする。和紙の間の空気層の効果により、障子の内外で10℃近い温度差が生まれる。さらに夜間は厚手のカーテンで冷気を防ぐ。この4重の空気層(複層ガラスの空気層、二重窓による空気層、断熱障子の空気層、障子とカーテンの間の空気層)を巧みに組み合わせることで、細やかに環境調整を行う。この調整は、常にそこで暮らす人間の振る舞いと共にある。例えば、冬の日中は障子を明けて日射を取得し、日が暮れる前に障子を閉めて暖気を蓄え、やがてカーテンを閉める。日射が期待できないときは早々に障子を閉めて、ぼんやりとホワイトアウトしたような空間に包まれ過ごす。南面の大開口はリスクもあるが、日光の力をうまくコントロールできれば北国の住宅にとって強い味方になる。障子の開け閉めによって外部環境との距離感、内部空間の印象は劇変する。
東面につけられた小窓も、ディテールが凝縮した象徴的な窓である。二重窓の外側は、下部が外開き、上部が通気窓となったスチールサッシで、通気窓は内側から小さな板戸で開閉する。内窓は上部がガラリの木製扉。繊細に扱いなさいといわんばかりに小さなつまみが付く。夏はガラリを開け放して通風する。冬の換気にも有用だろう。現在の内戸の吊元位置は、竣工時のそれと反転している。内戸と外戸の吊元が同じ側だと、開閉動作がしにくかったからなのか、食堂から見たときの壁の余白を重要視したからなのか、理由は定かではないがこれも実験の過程だろうか。
玄関は大きなガラスの引き戸でホールと仕切られ、風除室となる。玄関とホールにはそれぞれ、ガラスの引き戸に対してシンメトリーの位置に、木製引き戸と外開きのスチールサッシの二重窓が配される。開口上部にはカーテンレールを隠す大きな幕板が、スケールをぐっと引き締め、重心の低いリビング空間を暗示する。ここでも二重の建具とカーテンの組み合わせに、季節や時間によって異なる豊かな表情がある。窓とその周りの設えが、壁の意匠のすべてなのだ。
上遠野は、同じ敷地内に1992年に新築した自身の事務所では複層ガラスを使わず、やや厚めの通気層をとった単板ガラスの二重窓を採用した。大きな複層ガラスは、コーキングの劣化などによって封入ガスが抜けたり、空気が入って内部結露が生じた場合に、容易に交換できない。そのため大きな開口の窓を設計する際には、将来のメンテナンスを考えて単板ガラスを二重に使う方針にシフトしたという。自邸にペアガラスを採用してから24年の間に、複層ガラスの不具合に向き合い、その乗り越えを試みていたことには頭が下がる。複層ガラスの経年劣化に伴う内部結露には、未だ根本的な解決策は見いだされていない。
北海道の生活の歴史は、こと生活文化においては諦めの歴史であった。全国から集った屯田兵が、故郷から持ち寄った建築様式、生活様式、慣習のうち、厳しい気候の前に手放さざるを得なかったものは少なくない。アジアモンスーン気候と亜寒帯では無理もない。北海道の開拓は、未開の地をいかに短期間で近代化するかが命題であった。建築においても、海外の北方文化圏から輸入した先進的な技術や知恵を取り込み、手近なものをありあわせながら北海道の建築を、そして文化を模索してきた。それをポジティブに表現すれば、束縛の少ない自由な実験のフィールドだったと言えまいか。北海道という地に潜在する開拓者のメンタリティと、上遠野の旺盛な実験精神は無関係ではないように思える。北海道に望ましい住宅像を追い求める、と上遠野が言うとき、言葉の端々には上述のような歴史的背景が透けて見える。「札幌の家」は実のところ、コールテン鋼は室蘭、複層ガラスは札幌、レンガは野幌、内装には道内で生産していた海外輸出用のベニヤ、センやナラなどの道産の堅木、といった具合に、当時身近に手に入る北海道の工業製品と自然素材を中心に構想された。そうすることで、その場所に根ざした建築を安価につくる、というのも「札幌の家」の重要なテーマであり、その中からオリジナリティあふれるディテールや、素材の使い方が発明された。
「札幌の家」を原型とする鉄骨造住宅の実験は、その後25年以上にわたって続き、多様な展開を見せた。特に居間を2階に持ち上げて、積雪の影響を受けないピロティをつくりだし、そこを外部と連続したアプローチないし、夏を楽しめる半外部のテラスとして見いだすなど、北海道に望ましい住宅像のヒントが散りばめられている。上遠野による北のモダニズムは、北国に普遍の事柄への対応を通して、一度は諦めざるを得なかった色々な文化や生活、振る舞いや慣習といったものを、住宅の構想を通して新たに結び合わせ、構築しようという壮大な試みであった。原型としての「札幌の家」は今もなお、私たちにたくさんの問いを投げかけている。
宮城島崇人/Takahito Miyagishima
1986年北海道生まれ。2011年東京工業大学大学院理工学研究科建築学専攻修士課程修了。同年マドリード建築大学(ETSAM)奨学生。2013年宮城島崇人建築設計事務所設立。2018年北海道大学国際広報メディア・観光学院博士課程単位取得退学。おもな作品=「サラブレッド牧場の建築群」(2016~)、「O project」(2020)、「仁井田本家 米倉庫/酒蔵の建築群」(2022)など。