土居義岳(建築史家)
「19・20世紀フランスにおける初期環境工学的アプローチによる住宅計画」
17 Feb 2023
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公益財団法人窓研究所は、当財団が関係した研究の成果を共有するため、2022年4月23日(土)に「WRI session 研究報告会2022」をオンラインで開催し、その第二部では「疫病と窓」をテーマにした4名の研究者・建築家による研究成果報告を配信しました。本記事は登壇者のひとりである土居義岳氏(建築史家)の講演内容を再構成したものです。
19世紀フランスの、特にパリに注目すると、主要な疫病というとコレラと結核でした。その他にも絶え間なく疫病は襲ってきました。20世紀になってもペストが流行しました。近代建築との関連でいうとイギリスやフランスなどの先進国では、まず衛生法ができて、それが住宅法になり、最終的には20世紀初頭の都市計画法に結実するというのが定説です。
行政組織にも重要な展開がありました。フランスでは、すでに19世紀初頭、セーヌ県衛生評議会ができていました。行政が都市の衛生状態を常にモニタリングするという体制ができていました。
こうした初期の体制、それから1850年のムラン法──これはイギリスにおけるチャドウィックの1848年の衛生法に遅れること2年ですが──を経て、「公衆(公共)衛生」と「不衛生住宅」という法概念ができました。疫病というのは人の病であると同時に建築の病である、都市の病である、という考え方が相当初期からありました。1851年になると「セーヌ県公衆衛生評議会」や「不衛生住宅委員会」といった組織となり、これらにより不衛生住宅の調査・記録がなされるようになりました。
その当時の主な対象は、特に「ガルニ」と呼ばれる家具付き賃貸住宅、あるいは「兵舎」と蔑称されるおもに労働者むけの安い住宅です。ここでの問題は、まさに環境が悪いという不衛生問題であるとともに、地主問題でもありました。すなわち民業として、地主が工務店を使い、環境の悪い住宅を大量に供給するということが問題でした。しかし疫病は、公衆的なあるいは公共的なという形容詞が冠されるように公共問題でもありました。だから19世紀において既に、住宅を提供する民業の論理と、公衆衛生をつかさどる公共の利益との葛藤があったのです。
1893年になると「パリ住宅保健記録室」ができました。室長ポール・ジュイラは10年にわたりパリ住宅の衛生調査をしました。これは悉皆(しっかい)調査、すなわち全戸の調査を目指すものでした。実際は環境の悪いところから先行して実施しました。その成果「合流式排水」つまりお手洗いの排水と台所のそれを合わせて下水に流すという法規定ができました。それから1902年に衛生法が制定されました。衛生基準をクリアしないと建設許可が下りないという法規制になりました。さらに、不衛生建物の調査・収用・取壊しが可能になりました。これをもとに1904年にはパリ独自の建築法ができます。
1902年の衛生法は今回のシンポジウムの話題を考えるためには画期的なものです。これが私的なものか公的なものかという点が、読み解いていく上での僕自身の興味です。先ほど言ったように、住宅産業は民業であり私的なものです。ガルニや労働者住宅といった産業により地主階級は私益を求めます。他方で公衆衛生とはもちろん公的なものです。疫病は労働者階級から有産階級に伝染するので、社会問題でもありました。こうして公私の対立が住宅供給の場にあらわれました。これが19世紀末から20世紀初頭に起こったことでした。結論を先取りすれば、こうした歴史的背景から、住宅供給への公的介入がなされたということがいえます。
法制度による規制ですが、例えば1904年のパリ市の保健規則では建物のメンテナンス全般に対する規制がありました。住宅建物については、居住部屋の最小面積は9㎡、屋根裏部屋は8㎡などとあります。それから窓ガラスの最小面積は照明すべき部屋面積の6分の1という明確な決まりができました。どれほど守られたのかはよく分かりませんが。それから、室内トイレと飲み水をきちんと供給しなければならないという決まりごともできます。それが紆余曲折あり段階的に進んでいき、1930年のボヌヴェ法では面積基準ができます。ここでは低廉住宅、改良低廉住宅、適正家賃住宅といった公共的住宅の3つのタイポロジーが定められました。これらは、プランはそれほど異なっていませんが、床面積と最低限の設備の基準が違っていました。例えば低廉住宅すなわちHBMと呼ばれるものは、水道とお手洗いがあればいい。ちょうどそのころ、CIAMの第2回会議でも「最小限住宅」の問題が取り上げられ、そこではサニタリーが最小限の要件のひとつとなりました。だから、国際基準からフランスは遅れていたということも伺えますし、取り組みが早かったがために古い考え方が残っていたともいえます。
低廉住宅という言葉の初出は、1889年の住宅国際会議でした。それから1894年のシーグフリード法で低廉住宅の公的基準をつくり、民業を支援し管理する体制ができました。
どの国でも最初から公的住宅ができたわけではありません。慈善団体、宗教団体等が過渡期の役割を果たしました。
画期となったのがロスチャイルド財団による住宅コンペです。財団方式というのが当時新しかったようです。この住宅コンペにおいて衛生的な住宅のタイポロジーができました。
それから1912年法により自治体の直営が可能になりました。1914年にパリ市の低廉住宅公社ができました。民間の会社ではなく、公共団体が直接建設できるようになったことが重要です。1914年以降は、国が直接融資できるようになりました。そして1928年のルシュール法が、数年間で二十数万戸という目標を定め、低廉住宅の大量供給を決めました。
これはロスチャイルド財団のコンペの結果でできた、ベルヴィル通りの住宅です。ボリュームを分節し、階段室をうまく使って通風を良くするというやり方です。それから当時の「家族生活」理念が、そこはかとなくアーチ要石上のレリーフとなって彫られております。
パリ市が公共住宅のコンペをするのですが、それがアンリ・ベック街にできたものですから、アンリ・ベック型という公共住宅のタイポロジーができたそうです。他の街並みと違い、スリットが設けられ、大気が街路から中庭に入るようにしています。I型鋼でカンチレバーを作り浅いアーチをするとか、構法的にも面白い特徴がみられます。
今日ご紹介する建築家のオギュスタン・レはプロテスタントの家系で、インテリの家系でした。パリのエコール・デ・ボザールできちんと教育を受け、いくつかの良いプロジェクトにも関わりました。1905年のロスチャイルド財団の住宅コンペに当選し、かなり高い評価を得て、ロスチャイルド財団内の建築家として登用されました。しかしあまり折り合いがつかず2~3年で辞めて、フリーの衛生建築家・環境建築家になったようです。
彼は国際会議に呼ばれてたくさんの論考を残しておりますが、結局一冊の本にはまとまらなかったので、参考文献にあるデュモン(Dumont)やリュカン(Lucan)が図版等をまとめて、その考えを伝えております。だから非常にアトランダムな紹介にしかなりませんが、例えばこういう三角形の街区ブロックで、ボリュームを分節化し風がどう通るのかを図示しました。もちろんこれは、現在のようなシミュレーションではなく、いわゆる概念図であり、こう通るだろうと思う矢印を付けただけですが。右の図版は、結核対策で、湾曲したところに跳ね返ることで光がまんべんなく室内に入ってくるという理念を示しています。
彼は換気を良くすることを考えました。冷蔵庫がなかった時代ですから、部屋の隅にスリットのある棚を設けます。そこに食料を貯蔵する。あるいは結核患者がいる部屋なら、彼がまとった衣服などをここに置いて乾かすそうです。そして1部屋だけではなく、1戸のなかで空気が通り抜けるようにしています。
壁面にアールをつけて風通しを良くするとか、台所も常に風通しを考えて小窓を入れるとか、換気に関する多くのアイデアが見られます。
これは面白いもので、集合住宅の真ん中に垂直のダクトがあります。外気はフィルターを通して、地下室に集められます。空気は上昇します。ダクトから各住戸へと空気が届くところに棚があります。そこに食料を貯蔵できます。面白くロマンチックな工夫です。
「開かれた中庭」という新しいコンセプトが提唱されました。中庭を閉鎖的にせずボリュームを分節するという考え方です。彼の弟子筋のラビュシエールがサイダ街に住宅をつくります。リボディ財団の住宅です。これもボリュームを分節し、階段室が換気を良くするという趣旨のものです。しかしけっきょく、オギュスタン・レは建築界と折り合いがつかず、衛生学指向の建築学は成り立ちませんでした。最後にこれについてお話します。
前述の1893年設立「パリ住宅保健記録室」の室長ポール・ジュイラのサーベイにより、まず6区域が特に不衛生だとされました。それを市会議員が取り上げて、6つの不衛生街区が法的に認められました。やがてそれが17箇所になります。これらの地区がパリ市の都市計画の重点地区になり、その後数十年のあいだに開発され、1970年代以降の協議整備区域(ZAC)になって引き継がれて、現在に至っております。皆さんご存じのポンピドゥセンターがあるボブール地区もそうですし、ル・コルビュジェの計画もそうです。
たとえば、中庭を埋めるように建てられた建物を全部撤去し、換気を良くするという「キュルタージュ curetage」という手法が戦後の一時期ありました。あまり一般化しませんでしたが、観光地になっているヴィラージュ・サン=ポールというところはなかなか気持ちがいい場所です。「開かれた中庭」そのままの実現ではありませんでしたが、都市空間の通風を良くして、窓を通して室内に外気を入れることは集住宅の基本として継承されています。1988年のポルザンパルクの集合住宅、1990年代のボレルという建築家の実践なども、ボリュームの文節というこの文脈にのっています。空気の都市的な循環という問題をまっとうに継承しています。
衛生指向のオギュスタン・レがなぜ建築界から少し距離をとったか。デュモンやリュカンの文献によれば、フランスの知的風土のなかでは、建築学はラテン語文化圏のものであり、衛生学は医学だからギリシャ語文化圏です。だからディシプリン的に別世界であった。あるいは、1910年代に都市計画法ができたときに、建築家たちはやはり建築家・都市計画家というふうなものになりたかった。建築学は都市計画を指向するけれども、そのなかの重要なものとして衛生学を位置づけるというふうにはなかなかならなかった。せいぜいその成果をもらえればいいという程度であったのではないかと考えます。
初期の1900年代、1910年代の開かれた中庭や通風に関する理念は、そのままでは実現しないけれども、ボリュームの文節や開かれた中庭という都市計画的な枠組みとなり残ります。オギュスタン・レの垂直のダクトのアイデアなどは強制換気の技術により無意味になりましたが、思想としては一貫しています。結局、200年を貫通しているのは、(1)衛生の観点から都市をスキャンして不衛生街区を特定したこと、(2)通風や換気を考えて都市や建築ボリュームを分節することでした。多くの建築的な工夫のなかには、結局採用されなかったものもありましたが、基本的な思想は一貫しています。
参考文献
Légifrance https://www.legifrance.gouv.fr/
Jacques Lucan, Eau et Gaz à tous les étage, Paris, 100 ans de logement, Picard, 1992
Dumont, Le Logement à Paris, 1991
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吉田克己、フランス住宅法の形成、 東京大学出版会、1997
中野隆生、 プラーグ街の住民たち、 山川出版社、1999
大森弘喜、フランス公衆衛生史 : 19世紀パリの疫病と住環境、学術出版会、2014
土居義岳/Yoshitake Doi
1956年高知県生まれ。建築史。工学博士。
東京大学建築学科卒。同大学院博士課程単位取得退学。東京大学建築学科助手、九州芸術工科大学助教授、九州大学大学院教授をへて、九州大学名誉教授。フランス政府給費留学生としてパリ゠ラ゠ヴィレット建築大学およびソルボンヌ大学に留学。フランス政府公認建築家。
著作として『建築の聖なるもの』(東京大学出版会)、『知覚と建築』(中央公論美術出版)、『アカデミーと建築オーダー』(中央公論美術出版)、『言葉と建築』(建築技術)、『対論 建築と時間』(岩波書店)、『建築キーワード』(監修・執筆、住まいの図書館出版局)、『絆の環境設計』(九州大学出版会)など。共著多数。翻訳としてP・ラヴダン『パリ都市計画の歴史』(中央公論美術出版)、D・ワトキンとR・ミドルトン『新古典主義・19世紀建築〈1〉〈2〉』(本の友社)など。受賞として日本建築学会著作賞、日本建築学会賞(論文)。