26 Mar 2022
- Keywords
- Architecture
- Columns
- Essays
- Japan
「たまり」のある空間
「吉村順三建築展」(2005年、東京藝術大学大学美術館)の会期中、NHKの「新日曜美術館」で吉村順三(1908-1997)が特集された。軽井沢の山荘を中心に、さまざまな作品が映し出される。最初に紹介されたのが旧園田邸。注目されたのは、暖炉のある部分で、「よい住宅というのは、たまりというか、重心のある空間をもつ家だ」という吉村のあの有名な言葉が語られ、「たまり」のある空間が旧園田邸によって印象付けられた。「たまり」とは? この「たまり」のある空間を中心に、旧園田邸の窓際の居場所について考えてみること。それが今回のテーマである。
旧園田邸の4つの窓
旧園田邸は、世界的なピアニスト・園田高弘さん(1928-2004)と春子さん夫婦が暮らした小住宅だ。竣工は1955年。近年では、幾度となく開催された演奏会などによって次の所有者が見つかったという、モダニズム住宅の継承例としても注目されている。
敷地は、自由が丘のおだやかな住宅街。傾斜地にあるため背の高い擁壁があり、その上に大きなクスノキを中心にたくさんの緑。建物の様子は、茂みでほとんどわからない。門は、脇道を少し登ったところ。扉を開け、やや広いポーチを右へ曲がる。階段を6段登ると、正面に現れるのが旧園田邸である。壁の仕上げは濃い茶色(元はオイルステン)のドイツ下見張りで、高さをおさえた深い軒下に玄関がある。親しみのあるスケール感。深い緑がそのまま連続したようなファサード。軒の上には、ツシ2階のような低さで、緩勾配の切妻屋根と白漆喰の妻壁が見える。
玄関に入ると、左手に台所、正面にピアノ室・居間、右手に階段がある。階段は2段登ると踊り場があり、ここに浴室が隠れている。その先は、わずか9段で2階へ。音楽室を見下ろすコーナーを経て、寝室と書斎がある。
旧園田邸で最も大きな部屋は、ピアノ室・居間で、およそ23坪の延床に13坪をあてている。北側半分が吹抜けになっていて、吉村の弟子・小川洋さんが増改築を手がけるまでは、吹き抜けいっぱいの縦長窓(①)があった。南側半分は寝室と書斎の下で天井が低く、東に腰窓(②)、南東に掃き出し窓(③)と南西に鉤の手の腰窓(④)がある。
いきいきとしたプランニング
ピアノ室・居間には、当初グランドピアノが2台置かれた。吉村は「グランドピアノとファイアプレスとテレビのある家を設計できるようになったら一人前」と述べているし、ヴァイオリニストを妻にもった。しかし、そんな吉村もプランニングには苦労したとみえる。当時の図面を見ると、ピアノのまわりにやっと暮らしの場が成立しているような広さ。苦労の末あみだされたのが、角度をふるということだった。階段を一部斜めにふり、それを受けてピアノも斜めに置く。かつてあったデスクも斜めに設計し、暖炉にも角度を付ける。吉村の「建築というのは、グリッドの上に載せるべきだと思う。(中略)グリッドに載せるんだけどグリッドそのものだったら方眼紙に過ぎない訳だけど、そのグリッドの一部分が変形した時に、何か生き生きとしてくる」という言葉を思い出す。そして、じつはこの操作が窓とも関係している。
窓際の細部
4つの窓を確認しよう。まずは、現在はないグランドピアノ背後の縦長窓(①)。吹抜けは南北に棟が走る切妻屋根とは対応せず、北端が11.5尺ほど(約3,480mm)で、中央が14.2尺(約4,300mm)と高くなっている。窓は、吹抜けいっぱいに、内法3.5尺(約1,060mm)の幅でつくられ、1階は引込戸、桁をはさんで2階ははめ殺しで、どちらも横3分割の障子が付いていた。これは、演奏者を斜め後ろから照らす窓。楽譜を照らす役割をもったと思われる。この窓は、演奏に寄り添う窓である。
次に居間の東側には、かつて楽譜を入れる棚があり、それが伸びて南側の壁にぶつかり、斜めに折れ曲がってデスクになっていた。このデスクで、手元を斜め左から照らしたのが東の腰窓(②)。窓の下枠の高さは2.5尺(約760mm)。これがデスク上に隙間なくのり、窓の高さは3尺(約910mm)である。この窓はデスクの照明のような役割を果たした。
さらにその隣を見ると、露台に向かって南向きに掃き出し窓(③)が付く。木製ガラス戸と障子は壁の中に引き込めるようになっている。内法高さは6.5尺(約1,970mm)。そのすぐ上に根太天井があり、高さは根太下で6.9尺ほど(約2,100mm)だ。根太と、斜めに張った下地板はそのまま露台の軒裏に連続し、ルーバーの埋め込み照明が、室内と屋外にひとつずつ付いている。床面から露台へは、ほとんど段差なく続いており、斜めに座った演奏者を庭へと誘う。
最後のひとつが「たまり」のある居間。ソファと暖炉のある鉤の手の腰窓(④)で、柱芯を屋外側にはずして南西から光を取り込む。下枠の高さは東の腰窓(②)と同じ2.5尺(約760mm)だが、高さは内法4尺(約1,210mm)。隣の掃出し窓と高さを揃えている。木製ガラス戸は角で突きつけているが、南側のガラス戸の竪桟の幅が相手の小口分広くなっており鍵も付いている。障子は竪桟の見付と相手の小口がぴったり合う寸法。いわゆる吉村障子(桟と組子の見付寸法が同じ障子)ではないが、すっきりとした納まり。
窓下には、収納を兼ねた背もたれがあり、ソファは引き出すとベッドにも使える。図面には「カラシ色」とあって、座面の高さは360mmと低い。ハンス・ウェグナーのデイベッドにも似ている。横になって上を向くと、天井は根太が隠され、ソファの奥行き分だけ白漆喰の仕上げになっている。離れてみるとこの部分がとくに明るく、立体的な光の「たまり」のようなものが現れる。ソファの前にはローテーブルと2脚の椅子が置かれ、斜めに角度の付いた暖炉が、コンクリート打放しの壁に設置され、ソファのほうにも、椅子のほうにも顔を向ける。
窓を背にした造り付けのソファ
ところで、こうした窓を背にソファを造り付けた設計は、日本では藤井厚二らを中心にして、1920年代以降に定着したようだ。したがって、これより早い例は日本の外にある。ソファ自体の起源はラクダの背中にのせるセッティというクッションにあるとか、現在のソファに近い肘掛けの付いたタイプが登場したのが18世紀のフランスだったという話を聞いたことがあるが、範囲が広すぎるので、吉村自身の系譜をたどってみたい。吉村は、学生時代からアントニン・レーモンド(1888-1976)のもとで働いているが、レーモンドはフランク・ロイド・ライト(1867-1959)と一緒に帝国ホテル(1923)の設計で来日した建築家だ。吉村が建築家を志したきっかけは帝国ホテルにあると述べているが、その設計者であるライトも、ごく初期の内から窓を背にした造り付けのソファを好んで設計している。
たとえば、落水荘(1935)はどうか。1階のリビングには、3カ所にソファが造り付けられている。図面によれば、ソファのある窓際の天井は7フィート1インチ(約2,160mm)とかなり低い。腰壁から天井いっぱいに窓が入り、乱形石の床と落ち着いた明るい色味の天井面が好対照をなして、ソファの上では天井が、テラスへ続く部分では床面が、それぞれ屋外へ連続している。太い石貼りの柱をおもな手がかりにしながら、グリッドに沿って棚やデスクをちりばめ、一室に多様な「たまり」の空間を設えている。かつて、吉村は春子夫人に「もしも、この家(旧園田邸)がすべてのスケールで2倍だったら、すばらしい家だった」と語ったというが、それでは各所で角度をふる設計は生まれなかっただろうし、窓と各所との関係も違うものになっていたと思う。旧園田邸からは、ライトの系譜を感じつつも、狭さゆえに浮き彫りになったものがあるのだ。
狭小ゆえに生まれた居場所
旧園田邸のピアノ室・居間には、角度をふったプランを端緒として、窓と対応するさまざまな居場所が生まれていた。それは、狭い空間にグランドピアノを2台も置いたから、そのまわりで暮らさざるをえなかったともいえる。しかし、逆にその狭さゆえに、吉村の窓と居場所の対応関係に関する考えが密度濃く表れたともいえる。とくに南西の鉤の手の腰窓とその周囲の設えがつくる空間、暖炉という中心、そして立体感のある光。ここが、「たまり」のある空間の代表例として紹介されたのにも頷ける。
ある冬の日。実際に建物を見せていただいた。鉤の手に折れながら木影が揺れる障子窓を見て、以前吉村の弟子筋にあたる建築家から「ほら、西日が遊びにきたよ」という言葉を聞いたことを思い出した。「たまり」のある空間。そんな窓際の居場所には、光が遊びにやってくる。
吉村順三 /よしむら・じゅんぞう
1908年東京生まれ。1931年東京美術学校(現・東京藝術大学美術学部)建築科卒業後、レーモンド建築設計事務所に入所。1941年吉村順三設計事務所を開設。1945年東京美術学校助教授、教授、名誉教授。住宅や別荘を中心に、オフィスビルや博物館なども手がける。助教授の頃に同僚のチェリスト・小沢弘との縁で園田高弘邸を設計。1997年逝去。
写真/門馬金昭