03 Apr 2014
言語学者 植田康成が世界各国の「まど」の語源に迫る。窓という言葉の概念がどのように拡張されていったのか、その過程を探る。第5回は本コラムでいままで紹介した4言語について、対照言語学的アプローチで比較考察する。
1.はじめに
これまでは、日本語、ドイツ語、英語、イタリア語について、「まど」を意味する語や「まど」を含む表現を、個別に検討してきた。本稿では、慣用的な表現に関して、この4言語を対照言語学的な観点から考察する。語の意味拡張そのものは、どのような言語においても、ある程度共通の原理、普遍の認知過程にもとづいて展開する。まずは、その点を軸にして、「まど」に関する個々のイディオム表現を挙げていく。そして、4言語間に見られる異同についても考える。
2.「まど」の多義性と意味拡張
現代日本語の「窓」は、単に「採光や展望のために家屋に空けられた穴」を意味するだけではない。時とともに他の意味でも用いられるようになった多義語である。例えば三省堂の『新明解国語辞典』の「窓」の項には、「まど[=窓ガラス]をこわす」、「社会のまど」、「目は心のまど(=心の中の澄み濁りを映して見せるものだ)」などの表現が挙げられている。
日本語で「窓をこわす」と言うときの「窓」とは、大抵の場合、窓にはめ込まれた「窓ガラス」を指している(言語学的には、全体で部分を表す提喩表現である)。「社会のまど」は、俗に男性用ズボンのファスナーを意味する暗喩である。「目は心のまど」も暗喩だが、これは窓の「展望」機能を、人間の目に当てはめて表現している。
多義的である、という点では、他の言語の「まど」も同様である。ある事象を窓(あるいは窓の機能)に喩える、という認知過程を経て意味が拡張され、慣用的な表現が生まれていくのである。
3.「まど」を含むイディオム表現の比較対照
ある語の転義的用法は、まずは人間の身体を基盤として生まれる。そして、空間的な視点から時間的な視点へ、具体的なものから抽象的なものへ、という順に展開していくのが一般的である。
3.1.人間の身体を基盤とする表現
・「窓を開ける」(疱瘡のためにふさがった目があき、鼻が通るようになる)(日)
・「窓を下ろす」(疱瘡のために目や鼻がふさがる)(日)
・blaue Fenster davontragen
(青い窓で(片目に青あざをつくって)退散する=軽微の損傷で難を逃れる)(独)
・a bay window
(「太鼓腹」の意。「丸く出っ張っている大きな張り出し窓」が転じている)(英)
・fare una finestra sull tetto
(屋根に窓をつくる=出来事を予見する)(伊)
窓を人間の身体部位に喩えることによって生まれた表現は、4言語全てに見られる。大抵は、窓を目に喩えている。イタリア語の表現も、人間の目が頭部にあることから、一番高い所からはものがよく見える、という発想になっているのだろう。しかし、英語のように、窓を人間の腹に喩えるものもある。
3.2.空間的な視点にもとづく表現
「展望」機能
窓の「展望」機能に焦点をおく表現として、日本語には、上で紹介した「社会のまど」や「目は心のまど」がある。ドイツ語には次のような表現がある。
・sich zu weit aus dem Fenster lehnen/ hängen
(窓から体をのりだしすぎる=あまりに目立ちすぎる)
・weg vom Fenster sein(窓から消え去る=表舞台から消える)
窓を通して外から家の内部が「あまりに見えすぎること」、また、逆に「見えなくなること」を否定的に捉えている。
逆に家の中から外へと向けられる視点を意識したものとして、英語とイタリア語に次の表現がある。どちらも事物を窓から通りに向けて見せることを虚栄や見栄の現れとするイディオムである。
・window dressing
(品を陳列すること=見せかけ)(英)
・mettere alla finestra i fatti propri
(自分の行為を窓辺におく=見せびらかす)(伊)
外界との接点
家屋の壁に設けられた窓は、その展望機能から、家の内部と外界をつなぐ接点として意識される。
・Da guckt man nicht drum zum Fenster hinaus
(窓の外を見ることはしない=話す価値がない)(独)
・zum Fenster hinausreden
(窓の外に向かって話す=懸命に話しても何の成果もない)(独)
・einen zum Fenster herein erstechen
(窓から突き殺す=捨て台詞、こけおどしの表現)(独)
・mangiare la minestra o passare dalla finestra
(野菜スープを食べるか、窓から出て行くかだ=二者択一)(伊)
・a window on the world
(世界への窓)(英)
家の内部はコントロール可能で安全である。それに対して窓の外は、危険が潜む領域であり、予測できない未知の世界である。屋内の者にとっては、窓の外に向けて話してもあまり意味がない、ということになる。また、追う側からすると、相手に安全な家の中に逃げ込まれては、突き刺そうとしても無駄である。イタリア語は、危険な窓の外に出て行くよりは、野菜だけの質素なスープを食べる方がまだマシということである。英語のイディオムも、窓を接点として内と外を隔てる発想にもとづいている。日本語には、同じ発想の表現はない。
本来の(正式の)出入り口ではない場所
・es sind Fenster in der Stube
(部屋に窓がある=招かれざる客がいる)(独)
・come in by the window
(窓から入る=こっそり入る)(英)
・certe cose, cacciate dalla porta, rientrano dalla finestra
(ドアから追い出したものが、窓から再び入ってくる=厄介払いしたものが舞い戻ってくる)(伊)
壁にあるべき窓が部屋の中にあるのは場違いである。ドイツ語の表現では、「場違い」という特徴が人間に転用されて、招かれざる客人の意味となっている。英語、イタリア語の表現は、予期していなかったものの到来を「(玄関からではなく)窓からの侵入者」としてネガティブに表現している。
開閉機能
窓の「開閉機能」に焦点を当てたものとして、日本語にのみ「窓が開く(=損失が生じる)」という表現がある。損失を「穴=窓」と捉え、閉じているべきものが開いている不都合さに喩えている。
換気機能
窓の役割の一つに、屋内の換気がある。次のドイツ語は、自慢の臭いが部屋に充満しているから、窓を開けて換気しろ、という意味である。
・Mach’s Fenster auf, Eichenlob stinkt.
(窓を開けろ、自慢が鼻につく=自慢、ほら吹きに対して)(独)
すきま風の入る箇所
イタリア語には、すきま風に用心するように促す表現がある。aria di finestra, colpo die balestra(窓の空気は、石弓の打撃=すきま風は、健康を害する)。また、日が射している雲間の箇所をuna finestrata di sole(太陽の小窓)と表すイディオムもある。温暖な南欧では、換気や採光といった窓の機能は充分に活用されている筈だが、場所や気象条件によっては、それが害になることもある、という教訓だろう。
3.3.時間的な視点にもとづく表現
英語に、a window of opportunity
(チャンスの窓=絶好のタイミング)という表現がある。これは、連続体である時間の特定部分を開いた窓と捉え、そこから好機が到来し、チャンスを掴むこととができる、という発想である。
空間的、時間的に隣り合っている二つの事象を同一視して表すことを換喩というが、次の表現は、この発想にもとづいている。go out (of)the window(窓から出て行く=((望み・期待・自信などが)消えてしまう)。何かが窓から出て行って目に見えなくなったとしたら、それは当の対象が消失したことを意味する。これは時間的な因果関係、隣接性にもとづいている。
4.おわりに
独英伊3言語に共通するのは、窓を「外界との接点」と捉える視点である。ヨーロッパの人々にとって、それだけ家を頑丈にして内と外を隔て、戦乱や略奪などから身を守ることが重要であったからだろう。一方、日本のかつての住宅には、部屋の外側に面して縁側が設けられ、窓を開ければ庭への出入り口となった。家の内と外を隔てる意識は、日本の方が緩やかであると言える。
日本語に特徴的なのは、窓の開閉機能を強調する表現である。これは、日本語の「窓」の語源が「目の戸」であることと関係しているのだろう。当該の語を生んだ認知基盤が、意味拡張の展開にも影響を及ぼしている。
独英伊の中で、英語にのみ見られるのは、the window of the soul(心の窓=目)である。日本語にも同じ表現があるが、その出所は不明である。もしかすると英語由来かもしれない。また、英語には、時間的な視点にもとづく、より抽象的なイディオムが見られる(3.3節)。ヘブライ語由来のthe windows of heaven(天の窓:豪雨が落ちてくる天に空いた穴)という表現もある。広範囲に用いられ、異文化の影響を受けながら展開を続ける英語であるからこそ、独自の特徴を見せていると思われる。
換気やすきま風に殊更に注意を促すのはドイツ語とイタリア語である。地理的な変化に富み、時として厳しい気象条件にさらされる土地の影響が見られる。
このように、各言語に固有の特徴もある。そもそも「まど」という語の命名動機(語源)は、言語ごとに窓の有するどの機能を注視するかによって異なっていた。いったん原型として誕生した設置物としての窓そのものの進化と、「まど」という語の意味拡張は、歴史や文化、地理などの影響を受けつつ、相互に関連しながら展開していると言えよう。
植田康成/Yasunari Ueda
1948年、鹿児島県大島郡徳之島生。神戸大学文学部哲学科卒業、広島大学大学院文学研究科修士課程修了。千葉大学人文学部助手及び講師、九州大学教養部助教授、広島大学文学部助教授、2001年より広島大学大学院文学研究科教授、2013年同退職。博士 (文学) 。専門は現代ドイツ語研究。とりわけ、日独慣用表現の対照研究及びカール・ビューラー (1879-1963) の言語理論を中心とする研究。ドイツ社会言語学、応用言語学 (外国語教育) 。近年は、日独イディオム対照研究の成果にもとづいて語彙学習に対する提言を行うことを目指している。