第6回 張村「地下の都合」(中編)
05 Jan 2017
やはり、村を見るにはまず老人に出会うことだ。これまでの旅で培ってきた自分流の方法論を組み立てながら、木々の緑が美しく映える黄土色の大地の中を歩いた。そして、頭にハンカチを乗せて木かげで休む婆さんに出会った。
この人はヤオトンに住んでいるのだろうか。とりあえず、スケッチを見せて興味を伝える。もちろん、言葉は少しだけしか伝わらない。
何分か経って、どうにかこちらの意図は伝わったようである。すぐそこに婆さんが今も暮らしているヤオトンがあった。地下へは、中庭の四角い穴とは別の、少し離れた場所につくられた小さな穴から入るようになっていた。膝が悪い婆さんは、杖をつきながらゆっくりと僕を案内してくれた。
荒々しい大地を削った、まるで迷路のようなアプローチを下りながら、僕の中の「家」のイメージが更新されていく。
婆さんのヤオトンは、深さ6mほどであった。どのヤオトンもこのくらいだったから、それが標準なのだろう。高木の生える中庭の3面に部屋が掘られ、あとの一面はワイルドな崖面となっていた。
この家に「建てる」という表現を使っていいのだろうか……。何もない大地からこの空間を生み出すには、一体何人が、どれほどの時間をかけ、どれほどの土を運び出したのだろう。材料は無限にある。いや、むしろ材料などないといった方が正しいかもしれない。
壁面は、掘り出したままの部分もあるが、ほとんどが日干しレンガでしっかりと補強されている。黄土はとても硬いが、水には弱い。中庭も綺麗に固められている。
このヤオトンに、婆さんはひとりで暮らしているらしかった。そのため使われていない部屋も多い。婆さんが普段過ごしている主室を見せてもらった。
日干しレンガでつくられた先の尖ったアーチ型の正面入り口には、扉と2つの窓がある。窓には木製格子がはめ込まれており、黒い焼成レンガで縁取られていた。
奥行き7mほどの部屋の中に入ってみると、ものすごく暗い。しかし左右背後に壁があり、正面だけが開いている空間は、とても安心感がある。ここも内壁にはしっかりと紙が貼られていた。夢中で実測する僕を、ベッドに腰掛けて物珍しそうに見つめる婆さん。持参したメジャーが壊れてしまっていたのを見るなり、小さなメジャーを僕にくれた。
外からは気づかなかったが、アーチの最上部にも小さな穴が開いていた。外に通じているその穴を介して、テレビや電気の配線が引かれている。つまり、風や光のみならず、電気や電波をもこの入り口から取り入れているのだ。この唯一の外界との接点が、彼らにとっていかに切実で重要な部分かということがよくわかった。
ハンカチ婆さんのヤオトンを後にして地上に上がると、さらに村の老人が増えていた。暇そうな彼らの真ん中に座らされ、延々話しかけられる。田舎だからか、その言葉は中国語に聞こえない。筆談を通じてかろうじてわかったことは、9人のうち2人だけが今でもヤオトンに住んでおり、残り7人は、20年前くらいから「新房子(新しい家)」と呼ぶ地上のレンガ造の家に徐々に移り住み始めたということだった。さらにそのわけを聞くと、膝に負担がかかることと、やはり湿度の問題であった。
もうひとりのヤオトン居住者の爺さんにも話しかけ、家に行きたいと伝えたところ、彼はなんと100歳の古老であった。彼に「この村のヤオトンはどのくらい古いのですか」と聞くと、返事は「二千年」。
ヤオトンではなく村の古さなら、そのくらいかもしれない。いや、この「穴」がそのくらい古い可能性もあるのだろうか……。
そんなことを考えながら、鍬を杖がわりに歩く100歳の背中についてゆく。(後編に続く)
田熊隆樹/Ryuki Taguma
1992年東京生まれ。2014年早稲田大学創造理工学部建築学科卒業。卒業論文にて優秀論文賞、卒業設計にて金賞受賞。2014年4月より早稲田大学大学院・建築史中谷礼仁研究室修士課程在籍。2014年6月、卒業設計で取り組んだ伊豆大島の土砂災害復興計画を島民に提案。2015年度休学し、東は中国、西はイスラエルまで、アジア・中東11カ国の集落・民家をめぐって旅する (台湾では宜蘭の田中央工作群にてインターン)。