28 Jan 2019
11月頭、パルマから北に車を走らせジベッロ村を目指す。旧市街地を抜けると畑とポツポツと立ち並ぶ民家が見えてくる。さらに車を北に進めると、急にあたり一面に霧がかかり始める。まだ昼の3時にもかかわらず、ヘッドライトをつけないと少し不安になってしまうほど前方が霞んでいる。
ここジベッロ村はイタリア最長の川であるポー川に近接するため湿度が高く、気温が下がると空中の水蒸気が小さな水の粒となることで、冬の間は霧に包まれる。そしてこの霧こそが、今回紹介するここジベッロ村で生産される生ハム・クラテッロにおいてとても重要な自然資源となっているのだ。
イタリア留学へ旅立つ前日、私は作家の島村菜津さんにお会いした。島村さんは『スローフードな人生!-イタリアの食卓から始まる』(新潮社、2000年)を著し、日本にスローフードを伝えた第一人者だ。実際に様々な生産施設に足を運び、生産者と話をされた経験をもつ島村さんに、これから始まる調査に向けヒアリングを行った際、「ここだけは行くべき」と教えていただいたのが、クラテッロの生産地であるジベッロ村だった。
ではクラテッロとは一体どんな生ハムなのだろうか。早速調べてみると、クラテッロはチャールズ皇太子や世界のミシュランの星付きレストランなどから予約が入るという、イタリアに存在する何種類もある生ハムの中でも王様と呼ばれているものだとわかった。
ところで、一般にイタリア産の生ハムと聞いて想像されるのはパルマハム(イタリア語ではプロシュット・ディ・パルマ)ではないだろうか。したがって、ここではまず少しクラテッロとプロシュットの違いを説明したい。プロシュットが豚肉の腿肉(ももにく)全体を使用し、豚足ごと吊るして熟成されるのに対して、クラテッロは腿肉の中でも臀部(でんぶ)の肉だけを使用し、紐でつくられた網の中で吊るして熟成される。
何よりの違いは、プロシュットがパルマ南方の山脈の谷沿いに位置する風通しのよいランギラーノ村でつくられる一方、クラテッロはパルマ北部の川に近接するジベッロ村のような、湿度の高い平地で生産されることだ。なかでもスローフードに登録されるクラテッロの生産地域は、ジベッロ村を含む8つの市町村に限定されており、そのどれもが平野にありポー川に隣接している。気温は夏が30℃と高温なのに対して、冬は5-6℃と変化が激しい。この地域は湿度が高いため、一帯は冬になると霧に包まれる。
したがってこうした湿度の高い地域では、風通しがよく乾燥した地域で生産されるプロシュットと同じ方法では生産できない。そこで高い湿度を活かし、カビで肉を発酵・熟成させるクラテッロ独自の生産方法が生まれたのだ。このようにクラテッロを特徴付けるものは、なによりも湿度を資源とするその生産工程なのである。
では、毎年数千ピースしか市場に出されないこの生ハムは、実際どのように生産されているのだろうか。今回、現在もジベッロ村で昔ながらの製法でクラテッロを生産している4組のスローフードの生産者の方々のうち、2組の生産者を訪れることができた。そのうち、アルフレッド・マニャーニさん(Alfredo Magnani)の経営する施設「ブレ・デル・ガッロ (Bré Del Gallo)」での生産方法を説明したい。
アルフレッドさん一家は代々この地でクラテッロの生産をしている。生産に使われる建物は、元々住宅だった場所を50年前に買い取ったのだという。
クラテッロに使用される豚は、獣医師であるアルフレッドさんの息子によって、生まれてから9-12ヶ月の時点で200kg程度のものが選定される。スローフードの取り決めによって、豚を屠殺する場所はパルマとその近郊の町と厳しく指定されているため、アルフレッドさんの親戚が屠殺を行い、解体された肉の状態で生産施設まで運んでくる。
また、豚が新鮮な状態で加工されるように、屠殺から解体までの時間は48時間以内に行うよう定められている。そのため豚が運ばれてくるとすぐさま部位ごとに解体し、クラテッロに使用する臀部の塩漬けを始める。塩漬けは塩と胡椒のみを使用する(生産者によってはワインやニンニクを使用する場合もある)。
その後、豚の膀胱を使用して袋詰めを行い、形崩れしないよう糸をメッシュ状に束ね、吊るせるようにする。残念ながら調理の様子を撮影することは断られてしまったが、とても手間のかかる手作業での伝統的な製法が今でも続けられている。
この塩漬けと成形の工程が終わると乾燥・発酵の工程に入る。乾燥を促進させるために、室は二階にある。室には網戸付きの両開きの窓があり、雨戸と共に開け放たれていた。この乾燥・発酵の工程ではクラテッロ以外の肉も同じように吊るされている。肉を硬化させるこの工程を、冷凍技術を用いて短期的に行う生産者が増えてきている中、アルフレッドさんは自然乾燥にこだわり続けている。
「クラテッロの生産は、毎年11月1日から翌年の1月末の間にしか行わない。寒い間に塩漬けから乾燥・発酵までの工程を行うことで肉の鮮度を落とさずに加工ができる。また、この時期にポー川から水蒸気のたくさん含まれた風が吹くというのもこの時期に生産を行う大切な理由のひとつなんだ。この乾燥・発酵の工程の間に湿気を含んだ風を取り入れることで、クラテッロの中ではゆっくりと肉の硬化が進む。同時に、湿度が高く保たれた室で乾燥させることで表面にカビが育成されるんだ。」アルフレッドさんは語る。
「そしてこのカビこそがクラテッロを芳醇で奥行きのある味わいにするんだ。」
こうしてカビが十分に育成されるとクラテッロを一階に移動させ、いよいよ発酵・熟成の工程に入る。発酵・熟成のための室では、窓はクラテッロを吊るした位置に合わせて壁の上半分に内倒し窓がしつらえられている。
1年半の熟成期間のうち始めの6ヶ月間は、このように湿度の高い空気が集まる天井付近にクラテッロを吊るすことで、湿気を含んだ風を効果的に取り入れ、発酵を促進させるのだ。その後の12ヶ月は下記写真の左側に見られるように上下に吊るされる。この上下移動を一定期間内に繰り返すそうだ。
湿度計をみてみると90%と表示されていた。発酵・熟成の室はかなり湿度が高いことがわかる。ここでレンガが仕上げとして残されているのは、多孔質な性質をもつレンガを用いることにより、湿度を高く保つためなのである。
こうして長い発酵熟成期間を終え、クラテッロはようやく完成する。クラテッロは一本株か、外皮となっている膀胱とカビを取り除いた状態で購入することができる。
ふと販売所の壁に目をやると、村の人々がクラテッロを食べている写真があった。クラテッロを上部にかざし、ワインの様にまずはその色と香りを楽しむのだそうだ。その後、顔を上に向けながら食べる。これがクラテッロの色、匂い、味を一番楽しめる方法だという。クラテッロは他の生ハム類と比較すると、肉の甘みに特徴がある。口にふくむと、しっとりとしていて、まろやかに肉の甘みが広がっていく。
「ジベッロ村のクラテッロ」生産工程
ジベッロ村での生ハム・クラテッロの生産は10月から1月に行われることで、その時期にしか発生しない湿気を活用している。まず乾燥・発酵の工程では肉の硬化を促進させるために風通しのよい二階に肉を移動させる。そして両開き窓から風や湿気を取り入れ、カビを発生させる。一方、発酵・熟成の工程では一階の室の天井に肉を吊るし、壁の上半分に設えられた内倒し窓から湿気を取り入れる。多孔質なレンガを壁の仕上げに使用することで、さらに湿気を増幅させ一年半かけて熟成させる。
正田智樹/Tomoki Shoda
1990年千葉県生まれ。転勤族の父と共に、フランス、インドネシア、中国、ベルギーを高校卒業まで転々と移り住む。2014-15年には東京工業大学塚本由晴研究室にて「WindowScape3 -窓の仕事学」で日本全国の伝統的なものづくりの工房の調査を行う。2016-17年イタリアミラノ工科大学留学。現地ではSlow Foodに登録されるイタリアの伝統的な食品を建築の視点から調査。2017年東京工業大学建築学専攻修士課程修了。2017-18年Slow Food Nippon 調査員として、日本の伝統的食品生産を調査。2018年-現在、竹中工務店設計部在籍。