WINDOW RESEARCH INSTITUTE

連載 中国建築の窓

第3回 主流のない中国現代建築における窓

市川紘司(建築史)

16 Sep 2013

Keywords
History

日本建築における開口部は「ま」。西洋建築における開口部は「あな」。それでは中国建築における開口部は? 古典から現在まで、日本人が知っているようで知らない中国建築における窓の文化についての論考。

 

前回のコラムでは、北京観復博物館に展示されている木製建具を取り上げた。それは明清時代以降の建築の特徴である細微な装飾が彫り込まれた建具であったから、今回は、それ以前の建具、すなわち日本にも禅宗様として伝来したような宋時代近辺の建具について考察を進めていこう…と考えていたのだが、資料を中国に忘れたまま日本に帰省してしまった。よってこのテーマは次回にまわすとして、今回は、中国現代建築の窓について考えてみたい。国際的にも比較的名前がよく知られている三名の中国人建築家を取り上げ、中国現代建築において窓がどのようにデザインされているのか、概観しよう。

馬岩松の《オルドス博物館》
まずは、馬岩松 (MA Yansong, マ・イェンソン) 。MAD architectsを日本の早野洋介らと共同主宰する、1975年生まれの北京の若手建築家だ。2006年にカナダで開かれた国際コンペに勝利したことで、一躍国際的な注目を集め、いまだ「若手建築家」と呼ぶべき世代にあるにも関わらず、多数のビッグプロジェクトを進行させている。2011年に竣工した《オルドス博物館》は、MADの目下の代表作と言えるだろう。スライムのような全身曲面の形態が特徴の建築であるが、人工的に盛られた敷地の前に立つと、砂漠のなかの小山に着陸した宇宙船を見上げているような感覚になる。この博物館は、内モンゴル・オルドス市の新区に建てられたもの。新区では巨大広場を軸線に、軸線の北端に市政府ビル、そして東西にアイコニックなデザインの文化施設が配置されており、《オルドス博物館》はちょうど広場中央の西側に鎮座する。ちなみに、このオルドス市新区は中国有数のゴーストタウンとしてもよく知られた地区であり、図書館など文化施設を使用する人がチラホラいるだけで、ほとんど有効には使われていない。

  • 馬岩松 《オルドス博物館》

《オルドス博物館》の東側立面には、大きな窓が一つだけ開けられており、中心広場からのびる歩行路を歩く来訪者にちょうど顔を向けるようなかたちになっている。よく見てみると、この不整形な窓は一枚の大判ガラスから作られているわけではなく、開閉可能な小さな窓によって細かく分割されている。この窓で換気をする必要があったためのなのか、曲線が支配する外観のなかではいささか拍子抜けしてしまうデザインだが、筆者が訪れたときにも実際に開けて使用されていた。
さて、エントランスホールに入ると、外観同様、壁から天井までがシームレスにつながる曲面状の吹き抜け空間である。博物館に入るときに見た大きな窓と、壁の隙間を縫うようにして開けられた天窓によって、この空間はとても明るい。この吹き抜けホールを中央とし、その左右に展示室や事務室が収められたボリュームが振り分けられている。2つの展示室ボリュームは白い曲面壁によって装飾的に包まれている。そしてこの被膜にぽっかりと窓=穴が開けられ、階段やエレベータ、ブリッジが飛び出すことで動線が結ばれる。

王澍の《中国美術学院象山新キャンパス》
つづいて、王澍 (WANG Shu, ワン・シュウ) 。浙江省で活躍する1963年生まれの建築家だ。
王澍は「建築界のノーベル賞」と称される「プリツカー賞」を2012年に中国人建築家として初めて受賞したから、日本でも比較的名前が知られているかもしれない。《寧波博物館》 (2010年) に代表されるとおり、石やレンガや瓦片といった複数の材料をランダムに積んだ外装意匠を特徴とする建築家である。これらの材料は、都市開発が進むかたわらで撤去された古建築から回収したものである。王澍は経済成長にともなう急速な都市化に対して批判的であり、この外装デザインはそうしたスタンスを端的に表明しているのである。

  • 王澍 《中国美術学院象山新キャンパス》

《中国美術学院象山新キャンパス》
(2001-2007年) では、王澍は小山や河川を内包する約53ヘクタールの広大な敷地のランドスケープと、そこに新築される17棟の校舎建築を一手に設計している。校舎の設計は、《寧波博物館》にも見られた外装デザインが採用され、また反り屋根など中国伝統の建築デザインも所々で参照されている。校舎一棟一棟のデザインはすべて微妙に異なっており、キャンパス全体で見てみると、何人もの建築家が手がけたパビリオンが並べられる博覧会のような様相を呈している。そして開口部まわりのデザインもじつに独特かつ多彩である。水平連続窓に瓦を葺いた庇が掛けられたり、大小サイズの異なる窓がボコボコと穿たれていたり、ガラスのカーテンウォールにコンクリート製のルーバーが重ねられたり、木製の両開き戸が中庭に向かって全面に開かれたりする。

  • 《中国美術学院象山新キャンパス》
  • 《中国美術学院象山新キャンパス》
  • 《中国美術学院象山新キャンパス》

こうした非常に自由度が高い窓のデザインは、この地方の庭園建築文化からの影響だろう。王澍は江南地方の文人庭園から大きな影響を受けている建築家である。たとえば、このキャンパスの校舎は、所々で外部廊下によって接続されているのだが、ここには強烈に形が歪められた穴が開けられている。おそらくこれは「洞門」的な役割を与えられているものだと思われる。コラム第一回でも書いたように、文人庭園には洞門と呼ばれる奇形の門が存在する。文人庭園において、庭園空間の一つ一つは完結した小さな世界であり、庭園から別の庭園へと観覧者が移動するさいに彼の気分をスイッチさせるため、洞門は独特の形態を持つ。王澍はある論文のなかで建築もまた一つの「世界」なのだと主張しているから、校舎から校舎を移動するさいにこうした不整形の穴をくぐらせるようにしたのではないだろうか。

劉家琨の《鹿野苑石彫芸術博物館》
最後に、劉家琨 (LIU Jiakun, リュウ・ジャークン) 。四川省に活動拠点を置く1956年生まれの建築家だ。文化大革命による混乱が収束したのち、再開された大学にて建築教育を受けた第一世代の建築家でもある。大学を卒業すると、国家直営の組織設計事務所 (「設計院」と呼ばれる) に配属されることで建築家としてのキャリアをスタートさせているが、この間には小説も発表したり、アーティストの友人たちのアトリエを個人的に手がけていたり、色々と表現手法を模索していたようである。最終的には、アトリエを主宰する建築家に転身し、2000年に四川省の省都である成都市にて事務所を構えている。

劉家琨はつねに中国西部で活動を進めてきたことに特徴がある。基本的には成都が基盤であるが、設計院時代にはチベットやウイグルなどでも作品を残している。中国西部=内陸部は、東部=沿岸部とは異なって経済発展はまださほど進んでおらず、建築に使う材料や技術についても制約が多い。こうした環境を肯定的に受け入れ、現地の建築的条件を丁寧に見定めながら設計活動を進める劉のスタンスは、モダニズムと地域性を共存させるいわゆる「批判的地域主義」 (ケネス・フランプトン) 的なものである。実際、劉は、外国建築に関する文献が少ない教育環境のなかで、独学でルイス・バラガンや安藤忠雄といった批判的地域主義の建築家を積極的に学んだらしい。

《鹿野苑石彫芸術博物館》 (2002年) は、成都市からバスで1時間半ほどの郊外の森林に建てられた博物館である。長い直線的なブリッジを渡って辿り着く入り口以外には、外観からはほとんど窓の存在が確認できない。それゆえ鬱蒼と茂る木々の合間にゴロッと置かれた石の彫刻のような佇まいを見せているのだが、室内に光を届けるのはトップライトやスリット状の窓である。

とくにこのスリット状の窓は、古い仏像を展示する《鹿野苑石彫芸術博物館》に適した空間性を与えているように思われる。展示物は、壁の一部が凹んだニッチに置かれているのだが、この凹みは、外から見るとそのまま出っ張りとして表現されており、その躯体から出っ張った隙間が細いスリット状のガラス窓となっている。石で囲われた全体的に薄暗い内部空間のなかで、このスリットから入る自然光が、ニッチの白い壁に反射することによって、展示物を神々しく輝かせるのである。光と闇、明と暗のコントラストによって生まれるこうした濃密な空間体験の質は、安藤やバラガンの建築に連なるものと言えるだろう。

三者三様の建築と窓が示すもの

以上、三名の著名な中国現代建築家とその作品を取り上げてきた。彼らの作風は三者三様であり、窓のデザインについてもずいぶん違っていることが分かる。日本の現代建築であれば、たとえば「ポツ窓が流行っているよね」とある程度言えると思うのだが、中国にはそういった建築デザインの「主流」がほとんど存在しないのである。

中国では、国土の広大さゆえに気候風土もさまざまであり、また建築家の留学先や勤務先も多岐にわたる。つまり、建築が生み出されるバックグラウンドがバラバラであることが、こうした状況を作り出す要因だと言えるだろう。

しかし、多様なバックグラウンドを抱える中国人建築家たちも、中国の「地域性」や「伝統」について意識を向けている点では共通しているから興味深い。

上で挙げた三名の建築家も、作品を見るかぎりはまるで共通点がないのだが、それぞれ違う立場から地域性や伝統を考慮し、自身の活動に反映させている。もっとも分かりやすいのは王澍だろう。都市を嫌い、田園を好む彼の思想は、古典的な中国的知識人のそれであるし、建築意匠のうえでも文人庭園からの影響を見て取ることが可能だ。馬岩松も、未来的な建築を設計する一方で、山水思想や北京の伝統的住居タイプである「四合院」が持つ空間性を積極的に援用している。かと言えば、古くから政治的中心である北京で活動しているからなのか、王澍とは対照的に、馬岩松は「建築家は都市化運動に参与すべきだ」と高らかに宣言している。劉家琨は、王澍や馬岩松のような大文字の「伝統」ではなく、もっと偏差のある地域ごとの環境や慣習といった小さな条件を尊重しつつ建築を作っている。それはグローバリズムの影響を受ける大都市ではなく、遅れをとる内陸部を活動フィールドにする劉ならではの方法であろう。

まとめるならば、以下のようになるだろう。表面上、バラバラに見える中国の建築家たちの活動は、その根幹では、中国の地域性や伝統への強い関心という点で結ばれている。しかし、その地域性や伝統という概念が、広大な国土を反映してそもそも多種多様に変化するので、やはり最終的には異なった表現に辿り着く。中国現代建築の状況はおそらく、このように表現し得るはずだ。

 

市川紘司/Kouji Ichikawa
1985年東京都生まれ。東北大学大学院工学研究科博士後期課程。研究テーマは中国近現代建築の歴史、理論。建築同人誌『ねもは』編集長。

MORE FROM THE SERIES

RELATED ARTICLES

NEW ARTICLES