08 Jul 2013
- Keywords
- History
日本建築における開口部は「ま」。西洋建築における開口部は「あな」。それでは中国建築における開口部は? 古典から現在まで、日本人が知っているようで知らない中国建築における窓の文化についての論考。
北京市郊外にある観復博物館に行ってきた。
観復博物館は1996年に開館した中国最初の私営博物館である。創設者は馬末都 (Ma Weidu) という有名な中国古代美術のコレクター。もともとは作家/編集者なのだが、1980年代から美術品の蒐集をはじめ、いまでは自身のテレビ番組を持ち、独学でつちかった美術品に関する知識をわかりやすく伝える文化人、というような人物である。観復博物館では、その彼がこれまで蒐集してきた美術品の数々を、家具や陶器といったセクションに分けて展示しているのだが、そのセクションの一つが中国建築の門と窓に関するものであると聞き、見学しに行ったのであった。ちなみにあとから知ったことだが、彼は《中国古代門窗》という著作も書いている。中国古典建築に関する数ある書物のなかでも、こうした開口部の建具のみに特化して解説する書籍はめずらしい。かようにして馬氏は中国建築の建具につよく惹かれているようなのである。
さて、博物館に実際に展示されているのは、浙江省の住居にて使用されていた門、および窓であった。1980〜90年代、急速な開発によって次々と撤去されていった住居から、馬末都が買い取ったものだという。制作された時代は清代末期〜中華民国初期あたり (19世紀末〜20世紀初頭) で、さほど古くはない。木造建築の建具だし、日常的に開け閉めされる部位であるから、それ以上に古いものはなかなか残らないのだ。どれも彩色はされていないものの非常に精巧に作られており、近づいて見るほどに素人ながら感心してしまう造りばかりであるが (虫眼鏡も置いてある) 、学芸員に聞けば当時は非常に安価に買うことができたらしい。
しかし、建築を構成する一部位であるはずの門や窓それ自体がコレクターによって蒐集され、このようにして展示されるというのは、なかなか興味深い事態である。
いやむしろ、こうした行為にこそ、木造である中国建築における窓と門の本質がよく現れていると言えるかもしれない。中国建築において窓と門とは、眺望や換気、採光といった機能をになう建具であると同時に、それ自体が「装飾品」なのである。前回題材にした江南庭園のなかに建てられる木造建築物の窓にも、花びらや草木のかたちを模して細密につくられた格子があったが、それは庭園風景への視界を与える額縁であると同時に、庭園に植えられた植物たちを建築に移植してつくられた装飾のようでもある。つまり窓それ自体が眺められる対象としてあるのだ。そして、こうした丁寧に作りこまれた建具=装飾品が、木造建築であるがゆえに構造体から切り離され得るのであれば、門や窓が独立した工芸品の一種として価値を有するのも納得がいくところであろう。
実際、この博物館の展示物を見ていると、中国建築のなかで門と窓はきわめて装飾的な存在であったということがよく分かる。江南庭園における「漏窓」や「花頭窓」と同様、氷の結晶や卍といった中国的な幾何学パターンや、一本の線がうねうねと途切れることなく続く細密な模様が、木の格子によって再現されている。動植物をかたどった彫刻が一体となった模様も多い。日本建築の簡素さとは対照的に、中国建築のゴテゴテな装飾性はよく知られているところだが、その特徴は窓と門にとりわけよく現れていると言えるだろう。
さらに興味深いのは、古くから伝わる民間の「ちょっとタメになる話」であったり、あるいは日本人でも知っているような《三国志》や《水滸伝》といった物語が、木彫のモチーフになっている点だ。一枚の戸に一つのシーンが彫り込まれ、それが何枚も連続することで、ストーリーが展開していく仕掛けとなっている。宗教性の有無というちがいはあれど、中世ヨーロッパの大聖堂におけるステンドグラスとよく似ている。
中国建築の窓と門は装飾であり、物語のためのメディアでもあるのだ。
展示物のなかでとくに目を引いたのが、「隔扇門」と呼ばれる門のタイプである。簡単に言えば、上半分が木格子で下半分が木板の建具であり、通常6枚や8枚、12枚程度が集まって柱と柱のあいだにはめ込まれることで、木造建築の開口部を構成する。中国木造建築において開口部は基本的に開き戸である。開けば人の出入りや通風の役に立つのはもちろん、閉じたままでも採光や眺望を得ることができる造りとなっており、さらにそうした実際の機能性は確保しつつも、やはりそれ自体が建築の装飾物となるように格子は精巧につくりこまれ、門の一枚一枚には異なる物語のシーンが彫り込まれている。このような戸が並んでつくられる当時の建築の立面はさぞや賑やかであったろう。
この隔扇門の形式はいつ生まれたのだろうか? 「隔扇門」という名称は明清時代からのものだが、木格子+木板という形式の門が誕生した時期は、晩唐時代 (9世紀半ば〜10世紀初頭) あたりまでさかのぼることができる。その後12世紀 (宋時代) までは「格門」などと呼ばれており、上部が格子で下部がプレーンな板からなる「单腰串」と、その中間部に木彫用の部位を用意する「双腰串」という、二つのタイプに分類されていた。
観復博物館で展示されている隔扇門は、上端と下端にさらに格子や板が加わっているから、双腰串の構成をより複雑にした進化系だと言えるだろう。そしてこうした形式の変容に合わせて、一般的に明清時代の隔扇門はそれ以前の時代の格門にくらべて縦長のプロポーションとなっている。つまり、建築物のひとつの側面により多くの戸が納められるようなっているのだ。当初はシンプルな縦格子しかなかった格子パターンも時代がくだるにつれて複雑化・多様化しており、その結果、明清時代の建築立面のデザインは、それぞれ微妙に異なる装飾がほどこされた細長い戸がならぶ賑やかなものとなったのである。ただし、江南地方やさらに南方の雲南省や広東省といった文人文化や商人文化が花開いた地域においては、こうした隔扇門の特徴を活かした自由度の高いデザインが見られるのに対して、紫禁城に代表される北方の宮殿建築では、皇帝の統治する封建的な世界を表現するため、むしろ統一されたデザインの門や窓が並んでいる。
市川紘司/Kouji Ichikawa
1985年東京都生まれ。東北大学大学院工学研究科博士後期課程。研究テーマは中国近現代建築の歴史、理論。建築同人誌『ねもは』編集長。