
第17回 南洋華僑の天使の羽根 金門・後編
17 Mar 2026
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台湾の伝統建築に、西洋風建築を無理やりくっつけたような建物。弾痕が残る集落で見た奇妙な折衷建築は、金門島を巡るうち、そこここに顔を出してきた。特に今日の宿がある「水頭集落」には、それが数多く残されているらしい。
集落に着くと、背の高い西洋風の建物の隙間を縫う街路を歩かされることになる。「ヨーロッパかどこかに来たんだっけ?」と、ここが台湾であることを忘れてしまいそうだ。辺境の島が、一体どうしてこんなことになっているのだろう。建物全体も、赤瓦の反り屋根などを特徴とする閩南建築とは違った垂直に立ちはだかる「ビルディング感」のある印象だが、やはりまず目につくのは窓の上にちょこんと載る小庇だ。島の花崗岩で縁取った在地スタイルの窓の上部に、左官で段々に形づくられた天使の羽根のような庇が踊る。尖ったアーチ、丸いアーチ、一つひとつ違う。窓から距離があるため庇としての機能があるかどうかは疑問だが、とにかく台湾の伝統建築とは異質な造形が窓周りに発達しているのだった。
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ヨーロッパを思わせる狭い街路
休憩でもと思い集落のカフェに入ると、「毛沢東ミルクティー」と「蒋介石ミルクティー」なるものが売っていた。中国大陸にほど近いこの島の特殊なカフェ事情を思いつつ毛沢東のほうを選んでみる。
集落で最も有名な《得月樓》という豪邸に近づいていくと、驚いた。中庭をコの字に囲う伝統的な三合院形式の塀の中に、奇妙な洋風タワーが屹立している。のっぺりとした塔の壁面には小さな開口部が開けられ、その上にはお馴染みの小庇。窓と合わせて顔のようでかわいらしい。さらにその奥にも、バロックを思わせる洋風の建物がのぞいている。
このような洋風建築(が増築された伝統建築も含む)は「洋樓」と呼ばれ、中国南東部やここ金門島から東南アジアに出稼ぎに出て富を築いた「南洋華僑」と呼ばれる者たちが1920年代から1930年代にかけて故郷に建てたものだという。馬祖島には見られないヤンロウは、金門島の地政学的な意味を考えるうえで重要な存在だ。
今でこそ観光や高粱酒(高粱という穀物の蒸留酒)で有名な金門だが、基本的には資源に乏しい島であった。1860年代には飢饉もあり、島民たちにとって出稼ぎはごく普通の人生の選択肢だった。大航海時代に欧米列強が中国沿岸部の泉州や廈門などに拠点を持ち、東南アジアで商業が発達すると、金門の人々も出稼ぎに出るようになる。労働者として稼ぎ、故郷に仕送りをするなかで、地主や商人として成功する人々もちらほら出てきた。そんな彼らが「故郷に飾った錦」が、今でも残るヤンロウなのである。彼らは東南アジアで見ていたコロニアルスタイルで自らの家を建てた。それだけでなく洋風建築の近代的な小学校をつくるなど、インフラを整備したりもした。今は51の集落に計133棟のヤンロウが残っているが、この島の「近代」はそうやって、出稼ぎ者たちの「土産」として訪れた。
さてこの《得月樓》、正面に聳えるメインの建物はフェイクで、敵を威嚇するための(この島には海賊が多かったのだ)ものでしかないらしい。たしかに奥行きがすごく浅い。まるで虫が羽に大きな顔のような模様をもって威嚇するように、屋敷の正面を洋風の意匠でまとめたのだ。実際の居住空間はその奥にあり、彼らはしっかり閩南建築に住んでいたらしい。日本の看板建築や、客間だけ洋間にした昭和の住宅などのさまざまな建築たちが連想される。人間のやることは、やっぱりたいして変わらない。
それは、明治初頭に日本の大工たちが見よう見まねで建てた洋風建築(のようなもの)=「擬洋風建築」も思い起こさせる。擬洋風建築の面白さは、大工や左官など自分たちの伝統技術を、まだ見ぬ洋風建築を実現するために組み合わせた工夫にある。ここ金門においても同様に、よく見れば拭いきれていない閩南建築の香りがする。さきほど見た小庇の造形はそもそも閩南建築に発達していた屋根意匠を強く感じさせるものだ。
その日の宿は、水頭集落でも最も古い建物のひとつである、かつての南洋華僑の邸宅だった。その世代の孫にあたる主人のおじさんが到着早々、待ってましたとばかりに建物外観の説明を始めてくれた。
「このタイル一枚で土地一坪の価値があったんだよ、すごいでしょう」
「東南アジア経由で買ってきた日本製だよ」
と、色鮮やかなタイルを指差して言う。どうやら1900年代前半に東南アジアで流行した和製マジョリカタイルが、金門に輸入された経緯があるらしい。母屋の構成は基本的に閩南風を残しているが、外壁の装飾にはこのタイルが多用されている。窓のように縁取られた部分に敷き詰められたタイルを見ると、かつて台湾建築を飾った格子窓の代わりとして重宝されたのだろうと推察できる。
この建物は屋根の上にも登れるようになっていて、そこがベランダのようになっている。伝統建築のうねる屋根をつなぐように欄干がつくられているところを見ると、増築というかたちで洋風要素を足し、徐々にヤンロウ化していったことがわかる。
母屋の横にはより洋風のヤンロウが併設されていて、伝統の反り屋根とアーチの開口部を持つ四角いヤンロウが30センチメートルくらい隔てて並んでいる。
「この空間でじいさんたちはアヘンを吸っていたんだ」
と、ヤンロウ部分を見ながら主人が教えてくれた。華僑たちの土産もさまざまだ。
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伝統建築の母屋横に立つヤンロウ -
ヤンロウの二階の「アヘン部屋」から母屋の屋根を見る
台湾の近代建築は通常、日本統治時代に持ち込まれた洋風建築(台湾総督府など)をはじまりとするが、日本の統治外であった金門島には実は〈南洋華僑による独自の近代化〉という別ルートがあったといえるだろう。台湾という国の奥深さを感じさせる事実だ。
戦後すぐ、今度は大陸との戦争のために軍事化されたこの島は、民間開発がなされることなく、随分長いあいだ時が止まってしまった。この島には、近代のはじまりとしてのヤンロウも、伝統建築も区別なく破壊してしまう戦争の爪痕が多く残された。戒厳令が解除され観光地化されはじめたのは1990年代に入ってからというから、まだ30年くらいしか経っていない。その間に、台湾本島と同様にコンクリートの店舗付き住宅も増殖した。
ふとそんな街中の建物を見上げてみると、島のアイデンティティを探すように、コンクリートの窓の上に羽ばたく天使の羽根が目に入った。
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小庇の施されたコンクリートの住宅
田熊隆樹/Ryuki Taguma
建築家。1992年東京生まれ。 2017年早稲田大学大学院修士課程卒業。 大学院休学中に中国からイスラエルまで、アジア・ 中東11カ国の集落・民家をめぐって旅する。2017- 2023年まで台湾・宜蘭イーランの田中央工作群(フィールドオフィス・アーキテクツ)にて、公園や美術館、 駐車場やバスターミナルなど大小の公共建築を設計する。 2018年ユニオン造形文化財団在外研修、 2019年文化庁新進芸術家海外研修制度採用。











