
10 Nov 2025
- Keywords
- Architecture
- Hiroshi Hara
- Interview
このテキストは、2021年6月28日にアトリエ・ファイ建築研究所にて行われた原広司へのインタビューを書き起こしたものである。その生い立ちから死についてまで、3時間にわたる語りの記録である。
戦争と飢餓
1945年は小学校3年生の年で、その春に空襲がありました。僕は川崎に住んでいて、その時は2年生でした。小学校はほとんど空っぽ。1年生の時はまだクラスのみんなもいたし、先生もいたけど、それから1年経ったらば、年上のみんなは疎開してしまいました。3年生以上は学校にいないんで、僕が2年生になった時は学校のなかで一番年上だったんだよね。その時に時代のなにか区切りがあって。すごく厳しい、僕にとっては一番酷い変化があったのは、その空襲のことと終戦のことでした。
川崎の京浜急行の駅の近くに住んでいたんだけど、家の玄関の横の下駄箱の下が掘ってあってさ。毎晩そこに入るのね。その防空壕でなにか脅かされたっていうかな、危ないというか。雨が降ったり、それは凄い経験でね。だけども結局ね、両親に非常に感謝しているんだけどさ、空襲の3日くらい前から僕ら兄弟3人は、これ以上は危ない、待てないってね、長野県に行くんです。中央線で新宿から、もちろん電車の車両にはガラス窓なんて1つもなくて、子どもたちはみんな窓から入れてもらって、あなたたちはとにかく田舎へ帰りなさいと。おふくろも父親も長野県出身だから東京から出してくれたのね。だから、直接は空襲に遭わなかったんです。いつも、今日はあそこが燃えているなっていう状態だったんだけれども、それに遭っていたらもう命はなかった。
それから戦争が終わって、これはもうほんとに大変だった。何が大変かって、飢餓。食べるものがない。食べるものがないっていうのは、もうはじめから、川崎にいた時から始まっていました。その厳しさは小学校の間ずっとそうでしたね。3年生から6年生の3年半くらい、非常に食べるものがなかった。逃げていった人が世の中のものをみんな食べちゃってね。子どもだから捕るものもないので、カエルがやっぱり一番良かったですね。トンボで捕れる。トンボを捕まえて、田んぼに差し出すと飛ぶように早く捕れるわけです。それは食料源としてかなり有力だったね。ここ〔アトリエ・ファイがある東京都渋谷区鉢山町〕にも時々カエルが出るんだけど、わが友よという感じなんだけどさ。
それで、そのことが非常にいろんなことに影響していて、たとえばね、僕は今でもね、朝まで起きてるんですよ。夜が不安なんですね。夜というのが非常に不安だから、夜はどちらかといえば起きている方がいいんじゃないかみたいな。で、朝になったら安心して寝る。建築をやっているせいもあると思いますけれどもね。飢餓の問題とか空襲の問題とか、ガキのうちの影響はすごい強いと思いますね。その時に行ったところが、育ったところが長野県の飯田で、自然がすごい良くて。天竜川の谷で育ったから、原理的に、なんか谷という概念がある意味すごい重要なんじゃないかって。
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「わが友よという感じなんだけどさ」
東京に戻る
それで東京大学に入ったらですね、田舎から出てきた、都会に戻ってきたと、直感的に思いました。そう、僕はいつも話すんだけどさ、川崎に小美屋というデパートがありまして。今もあると思います〔編注:1996年に閉業〕。そのデパートがね、唯一エレベーターのある5階建ての建物だったんですよ。エレベーターがただ1つあった。そこでかくれんぼとか鬼ごっことか、みんな遊んでたわけ。それが自然にとって代わるわけですけどね。だけど、なにかもう一回懐かしいところに帰ってきたなっていう。東京に帰ってきた。そう思いました。
そうして、どうしようもない貧乏なんですよね。父親が洋服の仕立て人なんですが、仕事がなくなってね。家族はあとみんな女ばっかりだっていうことで、どうやって生きればいいのかっていうのがいつも課題で、アルバイトばっかりしてたっていう。なんていうか、とりえは勉強ができるということだったから、いろんなところへ教えに行ってさ、下級生とかに教えたりだとかして生活していたんですね。貧困というのはどうしようもなかったですね。なにしろね、大学に行っても家庭教師のアルバイトばっかりだった。
なぜ建築学科に行ったのか。大学の教養学部に入って1年半経つとなにか方向を決めなくちゃならないですよね。僕はいつも芸術寄りの話をしていました。元々はね、小さい時には数学者になると思ってたけれども、芸術も同時に好きだった。建築の芸術の話はしていなかったけれど、文学とか音楽とかの話をしていると、そんなに芸術の話をするならば、お前は建築をやれって、駒場寮のみんなに言われて、そう言うなら、なにか建築というものは良いのかもしれないと。だけど、田舎にいたから建築ってあまりよく知らなくってさ。だけども丹下さん〔丹下健三〕が出てきてわかったんですよね。ああいい人だなあ、うまいことやるなあって。それで建築に行きました。
丹下先生
ところがね、丹下研究室で卒業論文を書こうとしたらね、そうしたらば、丹下先生は、都市の論文を書くから手伝いに来てくださいと言うわけです。僕は丹下系列には入っていないと思いますけれども、実は学生の頃ね、毎日丹下さんのうちに通っていたの。ところがね、僕は都市じゃなしに建築をやりたいってことで内田先生〔内田祥哉〕のところへ行くってことになる。これが1つの大きな転機になるわけです。
成城の丹下邸に通っていて、もうこんな美しい建築はないと思った。ほんとに綺麗だった。美しい。すごい、ほんとに綺麗な。それがまた面白くってね。僕は飯田の美術博物館ってのを建てているんですが、その美術館をつくっている時にね、柳田國男の世田谷にあった書斎を、僕の先輩の飯田市の市長と一緒にもらいに行くのよ。いただけませんかって、その書斎をね。結果として、良かろうということになったんだけれども、それで驚いたのがさ、実はその前がね、丹下さんのうちだったのよ。それでなるほど近いもんだなぁと、そう思ったけどね。丹下邸っていうのはほんとに綺麗なうちだったんですね。
まあ若い時だからね、僕は丹下批評なんかを書いたりしたけれども、丹下さんはすごくいい先生でね、みんながいろんな建物を建てるたびにあれは良かったとかなんとかって、いちいち声をかけてくれる、話をしてくれるような仲だったってことを話さないと僕と丹下さんとの関係はわからない。
僕の先生はもちろん内田先生ですよ。わたくしのほんとの先生ですけれども、基本的には建築をやるということに関していうと丹下さんの深い影響があった。丹下さんはタバコの吸い方がすごくて、ピースを缶でもっててね、これを毎日吸っちゃうんだよ。もう、1缶とか2缶とか吸う。だけどなんにも。ただ火をつけるだけなんだよ。吸いさしが何本か燃えてたりなんかしてね。だけど、丹下さんというのは親切な人でね。学生に早くやれなんてことは絶対に言わないんですよ。やれじゃなくて、やっていただけますか、とかさ、やってくださいますかとか。そういうことをおっしゃる方でした。すごい楽しい時間でした。丹下先生はいい先生だった。そういう意味で、建築の広い意味での先生だったと。建築家らしいっていうことでは、丹下さんの影響ってのがやっぱり非常に強いわけですよね。のちになって磯崎さん〔磯崎新〕から聞いたり、いろんな先輩から聞いたりしたことを合わせても、そういうことを言っておいた方がいいんじゃないかなと思うんだけどね。
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「毎日丹下さんのうちに通ってたの」
内田研究室
学部を1959年に卒業しました。それは安保闘争の年なんですね。60年安保という日米安全保障条約の締結の年で、僕はアルバイトとデモで時間がなんにもないわけよ。建築どころじゃないっていうことはないけれども、正直よくわかんなかった。そうしているうちに大学院生になりましたね。僕は非常に貧しかったけどね、授業料なんてのは全部免除してもらえるから一度も払ったことがありませんでした。
大学院の修士課程に入ってね、内田先生のところで建築のことをやらなくちゃいけないと思ってた。アメリカやヨーロッパから近代化に関する情報がいろいろ入ってくる。内田先生は近代化を進めた先生だから、資料が全部入ってくるわけだよ。その入ってきた資料を翻訳する仕事があった。内田先生は、アルバイトをしなくて済むから翻訳をやれと。それで僕は建築のことを担当して、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、それくらいまで、合っているのか合っていないのか、ほんとわかんないんだけど、将来の近代化のために資料が入ってくるから、一生懸命勉強しましたね。
翻訳を通してどんどん近代化が進んでいったわけです。たとえば、アルミニウム。アルミニウムってのはね、やっぱり近代化のシンボルだったわけですよね。それまではスチールサッシュ。丹下さんなんかは全部自分でスチールサッシュをつくっていたわけだけれども、やっぱりすぐ錆びて動かなくなってしまうわけですよ。それからガラスです。ガラスは昔からあったけれども、なにしろ近代建築になったらガラスが大きくなるわけ。サッシュ、ガラス、これが一番大きな変化ですね。要するに窓が開くから。シポレックス、ALCは安くて今でもよく使う。それから軽量鉄骨とか。薄くて軽い軽量の鉄骨も重要だった。
それから、内田先生は30から40のコミッティーの長だったので、おそらく彼が寸法とかを決めていました。フィボナッチ数列を使ったやつを内田先生はつくるんだけども、それもなにか寸法を決めるという側面が強かったですね。そのうちに防水材とか塗料にすごいものが出てくる。ウレタンが最後に出てくるけれども、その前にもいろんなものが出てくるじゃないですか。池辺さん〔池辺陽〕が使った石綿スレートのようなものも。内田研にいた時には、なにかって言うと、近代化のそういう基礎的な知識を仕入れていました。のちに近代化のかたちがちょっと違うんじゃないの、違ってきたんじゃないのっていうことが出てきます。内田先生が進めてきた近代化というものはまさに今の日本の状態を招いた。まあ1990年代くらいまでに全部終わりましたが、そこでの近代化というのは夢中になって進めていく時の非常にオーソドックスな意味での近代化だよね。
それで僕らが、ちょっと違うんじゃないのと。近代化でストレートに進むっていうことに対して、これはどうも違うんじゃないかっていうふうに思ってた。内田先生とは同じねずみ年で12年違うんですけれども、10年違うとそれぐらい差がありますね。内田先生の世代は、とにかくどんなことを考えようが近代化を推し進めなくちゃ駄目なんだということで進んでいく人たち。その人たちの世代の後ですから、ちょっと待てよというようなことを考えていたわけですね。
安保闘争
それから70年安保。ちょうど世界のものすごいカルチュラル・レボリューションが伝わってきてて、僕ははじめ東洋大学で助教授にしてもらって5年いたんですけどね、それから東大に戻ってくるんですけれども、その時が1969年ですごい大騒ぎだった。東大の安田講堂がみんな占拠されてバリケードになって、ものすごい大変な状況になっているわけですね。そういう状態のなかで、僕は『建築に何が可能か』を書いていた。
僕は学生からバリケードのなかに呼ばれてたんだよね。それでね、僕は絶対に政治家ってのを信用しちゃいけないって思ったんだよ。その経験で一番知ったのはそれですよ。戦争ってのは絶対に飢餓を生み出す。だからその何が問題かっていうと、どうして生きるかっていうか。つまり彼ら若者たちがわれわれに突き付けた質問はどういうことかっていうと、「あなたは人間か?」っていうことだった。これはもちろん「イエス」だよね。それで「建築家か?」って。それももちろん「イエス」だ。それで「どちらが重要なんだ? 人間の方が重要に決まっているだろう」と。政治の連中、セクショナルでアクティブな連中、プログレッシブだと思っている人たちはみんなそう言うんですよ。
僕は、「絶対にそれは間違いだ。人間というのはなにかをしなくちゃならない。創造的なことをしなくちゃならないんだから、建築家が先に決まっている。建築をつくるということが人間である前にあるんだ」っていう、そういう考え方なんですね。それは職業倫理とは少し違う。そうじゃなしに、もっと長く話さないとわからないけれども、カミュやサルトルたちがいろいろ論争してきたけれども、2人とも無神論者で、神はいないっていうふうに言っていた。そういう時代の空気もあったけど、僕は科学を信じていたからだろうと今は思います。
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「科学を信じていたからだろうと今は思います」
建築家
だけれども、いろいろな宗教があるじゃないですか。単純に言うとさ、僕はそれをみんなフィクショナリティだと思っているんですね。自分にとって一番良い、美しい物語を書いているのはなんなのか。たとえば仏教はすごい美しい。美しいですね。キリスト教もあれだし。僕は彼らを絶対支持しないけれども、『ルーミー語録』を読んでみたらさ、ルーミーってのはスーフィー、スーフィーってのは神智学、グノーシス派ですね。要するに神をどうやったら知ることができるか。今のイスラムですよね。そのイスラムですごい詩人が出てるんだけども、ルーミーってのが一番というか、ちゃんと資料があるのかな。
アリストテレスを読むとすぐわかるんですけどね、彼は、建築家は非常に良いことをやっている人間だっていう捉え方をもっている。ルーミーもアリストテレスと同じなんだよ。アリストテレスは紀元前350年くらいの人で、ルーミーは13世紀の人なんですね。日本の道元とか藤原定家とか、そういう人たちよりちょっとあとなんだけど。彼もね、良いことの例として建築家を出す。建築家がやっていることをちょっと変えるだけで、それは宇宙的になるはずだとかね。
僕が集落調査をして感じたのは、やっぱりイランというのは最高の建築的知性だということ。イランには山と砂漠があるわけだよね。雨は山にしか降らない。そうすると、山に降った水を集めてきて、地下にトンネルを掘ってきて、今度は耕せるところに水をもってきて、人工的にオアシスをつくって、そのオアシスのところに集落があってさ。ほんとに綺麗なんだよね、信じられないくらい。僕はイスファハーンには行ったことがないんだけれども、ルイス・カーンが行ったりしたところの写真なんかを見ても、すごい建築だよね。ああいう力は集落とはちょっと違うけれども、オアシスを人工でつくったその力はすごい知的だと思うのよ。
だから、そのイランのルーミーがいろんなことを言うときに建築っていうのを挙げてくれるのは、嬉しいっていうかね、その人はわかってるんじゃないかなぁっていうふうな。それじゃあさ、たとえば日本の道元がね、道元が「建築は」って言ったことはないもんな。僕はものすごく、滅茶苦茶に調べてるけど、1行もないんだよね。和歌にも1つもないんじゃないかなぁ。日本は歌をよむ人がいてさ、5・7・5・7・7っていうリズムで1つの詩になっている。その歌で文化が支えられているんですね。今もそうだと僕は思いますけれども。その親玉の藤原定家という人が……紙に書いてさしあげましょう。
定家
藤原ってのは平安時代の貴族なのね。権力を握ってて、京都の文化をつくった人たち。そのなかにこの歌よみが1人いた。それで、もう1人鴨長明という人がいてね。そして、中国へ行って仏教の勉強をして帰ってきた道元という人がいた。京都の平安京の時代から鎌倉に代わるこの戦乱の頃に、こういう人たちが生きていた。すごいですよね。ものを小さくしなさいって言う。初めにあった広い住居をさ、それを10分の1にしてつくりました。さらにこれを100分の1にしました。これはちょっと曖昧なところが残りますが、こういうふうにしろと言ったのがこの人、鴨長明の『方丈記』っていう随筆なんだけどもね。こう小さく小さくするのね。小さくつくったら世界が見えてきた。小さくすると、あたりの鳥とかね、花なんかが見えてきて。広いうちに住んでる間に彼は火事に遭って、このくらいにつくり直すんですよ。だからね、この人の短文が僕にとってはすごい重要なんですね。彼は自分で家をつくって住むわけ。なんていうか建築家なんだけどさ。だから、こんなに完璧な建築論はないですね。世界のどこにもないほど完璧だと思います。
ルーミーがね、建築家がなにか非常に良いことをやっているって言うのに対して、たとえば、さっきの方丈っていうのは茶室の原型ともいわれるんだけども、茶室が登場するまでの時間は300年くらいあるんですよ。1500年くらいになって初めて千利休とかね、武野紹鷗とかすごい人たちが出てくるわけ。300年くらいスパンがある。その間に、こういうような建築をつくればっていうのではなく、こういうような歌を建築にすれば茶室になるっていうことを言った、そういう歌をよんだ人がね、そのさっきの定家っていう人なんですよ。ものすごい天才だよ。
たとえば、コラージュってあるでしょ。ブリコレっていうのかな。コラージュっていうのは集める人だけど、それに対してね、コラージュの反対の人はエンジニアなんですよ。茶室のつくり方はこの定家から来てるのね。レヴィ゠ストロースが言ったのはコラージュの方なんだけど、実はもうずっと昔にアジアにはそういう考え方はあったんですね。エンジニアは発明する人で、ブリコルールは集める人。人間にはこういう2つのタイプがあって、茶室なんていうのは落ちているものを拾ってきて組み立てますから、時間がかかる。
たとえば中国では、五言絶句とか七言絶句とかさ、なにかっていうとすごい歌ってのがあるわけじゃない。歴史を決定するようなさ。日本の運命を決定した1つの歌っていうのがこの定家の歌でさ。
見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ
日本の歴史のなかで一番重要な歌は何かって聞かれたら、何を挙げるかはおそらく人によって違う。だけど建築家である僕から見ると絶対にこれになる。なぜかというと、この歌のようなものを建築でつくったらどうかということを300年考え、それで遂に茶室をつくるから。これはどう解釈するかっていうとね。見渡せば花も紅葉も両方ともない、美しいものはなんにもない。非常に貧しい家がありますと。秋の夕暮れ、なにかすごい寂しい風景。だけども、それが不思議なことに日本人がよむと、花も紅葉もなかりけりって言ってんだけど、あるようにみえる。逆にね。反対なんですね。だから、信じられないのはですね、反対のことをよんだのに、みんなが思うのは花や紅葉がね、すごい咲き乱れている楽園のような風景をよんだんじゃないかと。よんでいるのは実に寂しい世界。同時に重なっていて、どっちだかわからないっていうのが、これが仏教なんですよ。どっちでもないかもわからない。これを悟ることが、その「非ず非ず」っていう世界を探すことなんです。
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「建築家である僕から見ると絶対にこれになる」
非ず非ずの世界
非常に重要な話に結びつければ、これはダブル否定じゃないですか。これはリンゴじゃありませんって言ってさ、それでじゃあリンゴでないものを再否定してみる。そうするとリンゴになるであろうというのがさ、アリストテレス。ところが、やっていくと何がなんだかわからなくなっちゃうというか、曖昧になる。ちょっと説明がいろいろあるけれども、ヘーゲルなんかがやってる弁証法では、Aとnot Aがあって、それでnot not Aをやったときにここになにかが現れる。マルキストたちが非常に大きなエラーをしたけれども。
僕が言う非ず非ずの世界はね、花が咲き乱れているというのと何もないというのが同時にある、そういう世界。そういう美学。ダブル否定という意味では弁証法も非ず非ずも同じ意味なんだけれど、全然違っている。世界に2つ源があって、1つが弁証法で、1つが非ず非ずではないかと。これは東洋的な意味でね。日本だけではなく東洋全体にある。そういう多様性とか、オーバーレイ〔overlay:重ね合わせ〕とか、ジャクスタポジション〔juxtaposition:並置〕とか、つまりそういうレラティビズム〔relativism:相対主義〕の根元みたいなところをつくり上げる、その力というものに2つの源があるのではないかと。
フィクショナリティ
けれども、一番のキーとなる言葉はフィクショナリティだな。われわれの人生もフィクショナルだということ。フィクショナルだった時にどうすればいいのかというか。じゃあ、建築家だったらフィクショナルな建築をつくればいいんじゃないの、といったことが僕の単純なあれだな。フィクショナルな世界をどうやったらつくれるかなと、そういうことでもあるし。なにか、われわれの世代というのはそんなふうに考えているんじゃないのかなあと。大勢と話したことはないけれども。
じゃあたとえば、大江健三郎さんとお話ししても、あんまり真剣にそういう話はしたことはないし、どうせ、わからないねということになる気がするけれども。だから、僕は非常になんというのかな。今世界はすごい大変なことになっているなと思うんだけどさ。だけども、フィクショナリティの世界からするとね、これで終わっちゃうんじゃないんですよ。やっぱり次々とフィクションが出てくるっていうかね。
たとえば、僕はいい例を1つ挙げたわけですよね。さっきの歌の話。定家が今から800年くらい前に百人一首というのを選んだんですよ。それを今もみんな遊んでいるんです。毎年お正月に歌会があるんです、全国大会が。なんだかすごいことだと思うね。やっぱりね。当時の人たちは、もっと前の人たちも、私たちはあと1000年この歌をね、残すにはどうしたらいいかというのをものすごく本気になって考えて。すごい偉い人たちだと思うねえ。それで、有名な歌がいっぱいあるし、その詩がいっぱいある。中国なんかには掃いて捨てるほどあるわけだよ。もっとすごい文化の蓄積がね。イランなんかもそうでしょ。信じられないくらいの宝の山みたいなね、そういういろんなものがね。
だけど、なにか、日本はヨーロッパを滅茶苦茶によく勉強した。さっき僕が言ったことと同じですよ。近代化だってなったらさ、もうなんだか、英語だろうがフランス語だろうが、みんな勉強して、なにしろ訳しちゃう。日本っていうのは世界の一番果ての島だから、そこに集まってくるもの全部に手出ししようということでさ。まあ、努力したよね。だから実をいうと、近代建築っていうのはね、基本的には集落を否定するところから始まったわけですよね。どういうことかというと、ヴァナキュラーなものは地域的だから、民族とかさ、ナショナルとかさ、そういうことに関係してくる。だから、そういうのは良くない。「すべての民のための建築を」と言ったのはまったく正しくてね、僕は良いと思うんです。それは正しかったと。そうして、ナチズムとかね、そういうものに対抗しようとしたわけじゃない?
だからまったく支障ないんだけれども、どうもちょっと怪しいんじゃないかなと。今でもそう思っているけれども。それはやっぱり、資本主義というものの恐ろしさっていうのを人はこれから知るんでしょうけどね。今は自由といったら資本主義でしかありえないような感じだから。だけどもまあ、近代っていうのはそういう意味で二重性があったわけですね。資本主義の空間とほんとに自由がある空間、そういう二重性があって。だから、どうなんだろうなあ。人間は今こそフィクショナリティ、その良い物語ってのは一体なんなのかっていうことを本気になって考えるべきなんだよね。宗教があって神を信じる人は良いんだよ、あれ以上になかなかうまい物語はないからさ。キリスト教1つ考えてみたってね、2000年かかっているわけでしょ? 2000年かかってさ、すんごい美しい話をつくろうっていうさ。だから、宗教っていうのは、そういうなんていうか、僕はフィクショナリティの極地だと思っているんだけど。
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「良い物語ってのは一体なんなのかって」
(後編に続く)
小南弘季/Hiroki Kominami
都市史研究。東京大学大学院工学系研究科建築学専攻を卒業後、2020年より東京大学生産技術研究所助教。「江戸東京の神社に関する都市建築史研究」によって博士(工学)を取得。現在は低密度居住地域の社会空間史研究、ブラジル近現代建築研究に従事。共訳書に『EXPERIENCE:生命科学が変える建築のデザイン』(鹿島出版会、2024)がある。
ヴェロニカ・イコンニコバ/Veronika Ikonnikova
ウクライナ出身の建築家。ウクライナと日本で教育を受け、2018年に東京大学大学院工学系研究科建築学専攻を卒業。修士(工学)。2019年より隈研吾建築都市設計事務所に勤務。
タイラー・マクベス/Tyler McBeth
コロラド出身の建築家。2015年にテキサス工科大学を卒業後、2018年に東京大学大学院工学系研究科建築学専攻を卒業。修士(工学)。2019年より日建設計に勤務。
原田爽一朗/Soichiro Harada
建築家。一級建築士。2015年より隈研吾建築都市設計事務所に勤務。2024年コロンビア大学大学院GSAPPを修了後、BIG ニューヨーク事務所に勤務。共訳書に『プレイスメイキング・ハンドブック〜公共空間を魅力的に変える方法〜』(学芸出版、2025)がある。
原広司/Hiroshi Hara
1936年、神奈川県生まれ。1959年、東京大学工学部建築学科卒業。1964年、同大学大学院博士課程修了、工学博士。同年、東洋大学工学部建築学科助教授。1969年、東京大学生産技術研究所助教授、1982年、同教授。1997年、同大学を退官、同大学名誉教授。1970-1998年、設計活動をアトリエ・ファイ建築研究所と協働。1999年、原広司+アトリエ・ファイ建築研究所に改称。2001年、ウルグアイ国立大学 Profesor Ad Honorem。2025年、逝去。







