WINDOW RESEARCH INSTITUTE

連載 藤森照信の「百窓」

藤森照信|第九回 掬⽉亭の〈雨戸〉
驚くべき戸廻しの術

藤森照信(建築史家・建築家)

25 Sep 2024

Keywords
Architecture
Essays
History
Japan

古今東西の建築を見て回った建築史家の藤森照信氏が、日本全国の歴史的建築から、よりすぐりの魅力をもった「窓」を1件ずつ紹介するシリーズ企画。9回目に取り上げるのは、特別名勝栗林公園にある掬⽉亭です。池や庭に面して、遮るものなく全解放された空間は、その外周部に雨戸という建具を設けています。雨戸は昼間は隠されて見えませんが、営業時間が終わると出てきて、あっという間に密閉された空間へと変えます。この素早い転換を可能にしているのが、戸廻しという仕組みでした。

 

少し前まで、といっても住宅の工業化が始まる1960年代まで、ほとんどすべての日本の住宅は、住宅だけでなく普通の木造建築の開口部は、外側から順に、雨戸、柱、ガラス戸、廊下(縁側)、障子と並んで、障子の内側が畳敷きの部屋となっていた。柱と廊下を除いて開口部を塞ぐ装置としては、雨戸、ガラス戸、障子の三つがあった。時には、外側にまずその名も“濡れ縁”と呼ばれる廊下があり、その内側に雨戸と障子が立つ。

このうちガラス戸は、明治2年(1869年)のヨコハマの床屋さんが最古の記録だから、それ以後に広まったとするなら、近代以前の、ということは江戸時代の日本の住宅の開口部は、雨戸と障子の二つで内外を分かっていたことになる。一番外側に位置する雨戸が雨風を防ぎ、その内側に廊下(縁側、通路)があり、廊下と部屋の境に立つ障子が外光を室内に導き、かつ、視線を遮って室内のプライバシーを保障する。

長い長い歴史を誇る日本の伝統的木造建築が、外と内を分かつ装置をさまざまに工夫、改良を重ねた果てにたどり着いたのが、雨戸と障子の二つだった。前者は板、後者は紙と、材料の違いは見ただけで誰にでも分かるが、開口部を閉鎖する装置として見れば大きな違いがあり、雨戸は柱の外側に設置されているから、柱に邪魔されずに部屋の境を越えて長い距離を引いていくことができるのに対し、障子は柱と柱の間に立てられるから(雨戸と障子を閉めることを“立てる”という)、部屋の境を越えることはない。

障子の起源は、古代の寝殿造の室内の間仕切りであったが、雨戸のほうはずっと遅れ、古代、中世と経たのちの近世初頭と目されている。

なぜそんなことが分かるかというと、安土桃山時代の徳川家康についてこんな話が伝わっているからだ。

天正14年(1586年)、家康が軍勢を率いて初めて上洛し、さぁ夕餉ゆうげというその時、陣内に緊張が走る。周囲の町からにわかに騒音が聞こえ、スワ秀吉軍が押し寄せたか、と外を見ると、家々の外回りはどこから取り出したのか、薄い板戸が立てられている最中。見ると、壁の端から手品のように板戸が引き出されてくる。

  • 「初筵観北棟」の雨戸を閉めている様子
  • 「初筵観」の“濡れ縁”
  • 「初筵観」の雨戸を収納する戸袋

このころ既に京では普及していた雨戸が、家康の住む関東にはまだ伝わっていなかったことが知られる。雨戸という工夫の便利さを知った家康は、江戸に持ち帰ったに違いない。

かくして日本全国に広まった雨戸と障子の開口部閉鎖コンビは、明治になってから住宅を中心にガラスが加わり、雨戸・ガラス・障子のトリオとなって今に至るのだが、寺院や神社のような伝統性を重視する大型建築ではトリオの結成はなくコンビの体制は守られていた。大型建築では、雨戸の上端を押さえる軒の高さがあまりに高く、そんな大型の雨戸は不可能だからだ。雨戸は水平方向に移動するため、軽くつくらなければならず、そのため高さは1.8mを標準とする。

かくして生き残った雨戸・障子の名コンビは、明治26年(1893年)、アメリカはシカゴの大舞台で、モダニズム建築誕生史上に残る“空間劇”を演ずることになる。

この年、シカゴで万国博覧会が開かれ、参加した明治政府は、〈鳳凰殿〉なる日本館を建設する。宇治の平等院の〈鳳凰堂〉に似た全体構成の木造建築で、ジョサイア・コンドルに学んだ建築家の久留正道が設計を、日本の職人が施工をなしている。

日本の伝統的建築のつくり方が本格的に世界に紹介された最初の例となり、アメリカに多くいた日本美術愛好家たちは、寝殿造、書院造、数寄屋造(茶室)の三つのスタイルに分けられた館内を歩いて、屏風や襖絵や床の間の飾り付けを、それも日本人の目にはやや過剰な飾り付けを楽しんだが、一人の建築家が、美術品や装飾より建築の空間の在り方にショックを受ける。

26歳のフランク・ロイド・ライトである。ルイス・サリバンの設計事務所の所員であったライトは、サリバンが手がけたシカゴ博〈交通館〉の現場要員として通うなかで珍しい姿をした〈鳳凰殿〉に興味を持ち、完成した建築を訪れ、自分が求めながらどうしたら実現できるか手探り中だったテーマの解法を発見する。

テーマは、どうしたら建築を壁で囲まれた閉じた空間の集積から解放し、空間を部屋から部屋へと連続的につなぎ、かつ、室内から室外へと連続させることができるか。

  • 「掬月」の“二の間”から、床の間のある“一の間”を見る

重い石や煉瓦の厚い壁では不可能なこのテーマに、木造の鳳凰殿は易々と応えていた。規則正しく部屋の隅々に柱を立て、柱と柱の間に障子や襖を立てて間仕切りとし、外回りの柱の外側に板の雨戸を立てればいい、と。

こうした木造の室内と内外で生まれた空間の連続性(流動性)を、どう当時の欧米の煉瓦造や石造で実現するかについて、ライトは検討を重ね、平面計画においてはできるだけ間仕切り壁を少なくして連続性の高い平面と横に長い窓を、立面においては軒先を長く突き出して水平性を強調した。

こうしてシカゴで実現した〈ロビー邸〉(1908年)などの新しい住宅の写真付き図面集を、ライトはイタリアでまとめ、ドイツのヴァスムート社からドイツ語で1910年に出版した。ドイツ語にしたのは、当時のモダニズム確立に向けての動きの最先端はドイツにあったからだった。

そして狙いは的中し、ドイツのヴァルター・グロピウスやミース・ファン・デル・ローエ、オランダのヘリット・リートフェルトなどがライトに学んで、連続性を強調した、例えばグロピウスの〈ファグス靴工場〉(1911年)や、リートフェルトの〈シュローダー邸〉(1924年)を生みだし、さらにこの動きはグロピウスの〈バウハウス・デッサウ校舎〉(1926年)によってモダニズム建築の原則として確立され、日本はじめ世界に広まって今に至る。

安土桃山時代に京都で始まった雨戸・障子コンビの“空間劇”は、1893年のシカゴの〈鳳凰殿〉を経て、1910年ドイツに、そして1926年以降、ドイツから日本に伝わり、日本の初期モダニズムの名作の数々を生んでいる。地球を一回りして日本へ帰ったのだった。

世界を変える働きを思いがけずもしてしまった雨戸・障子コンビの実例は、歴史に当たると大量に今に遺され、〈桂離宮〉や三渓園の〈臨春閣〉のような数寄屋造の名作がまず浮かぶが、ここでは香川県は高松の特別名勝栗林公園の〈掬月亭〉を取り上げよう。

〈桂離宮〉や〈臨春閣〉は建築としてさまざまな種類の魅力を保っているが、〈掬月亭〉は空間の連続性一本鎗というか、その純度の高さにおいて前二者を凌ぐからだ。

〈掬月亭〉を一部に含む栗林公園は、16世紀後半に地元の豪族の庭としてつくられ始め、17世紀前半に大名の生駒家が手がけた周辺の治水工事により広大な庭園が可能になり、寛永19年(1642年)、初代高松藩主松平頼重に引き継がれ、延享2年(1745年)、五代藩主松平頼恭よりたかの代に完成している。

平安時代の浄土庭園に根を持つこうした水と緑と岩の庭は、主客は池を舟で横切って上陸することを前提にしており、水面からより低い位置に建物を置くことで、水面と建物の親和性を極限まで高めることに成功している。逆に室内から外に目をやると、舟の中から眺めているように感じられ、見事な演出といえよう。

〈掬月亭〉の勘所をなす二の間の、雨戸と障子の消えた状態をまず見ていただこう。部屋の内外が完全に連続していることが分かるだろう。柱と柱の間に立つ障子は、外して片付け、縁側の辺りに立つ雨戸群は次々に水平に引かれて部屋の奥の隅に設けられた戸袋に重ねて収納されている。

ここまでは昔の木造住宅を知る人にはすぐ分かるが、では、正面の勾欄こうらんの巡る位置の雨戸はどうしたのか。縁側の隅の溝を直角に回ることは板状の雨戸にはできないだろうに。

昔の大工さんも悩んだに違いない。重い雨戸を外さずに何とか角を回す手はないか、そこでした工夫が“戸廻しの術”だった。「掬月」に隣接する「初莚観しょえんかん北棟」で術の実演をしていただいた。

〈鳳凰殿〉の雨戸で戸廻しが行われていたかどうかは不明だが、もし行われていたら、ライトはただただ呆れていただろう。

 

藤森照信/Terunobu Fujimori

1946年、長野県生まれ。東京大学大学院博士課程修了。東京大学生産技術研究所教授、工学院大学教授を経て、現在は、東京大学名誉教授、工学院大学特任教授、江戸東京博物館館長。45歳より設計を始め今に至る。近著に『磯崎新と藤森照信の茶席建築談義』(六耀社)、『近代日本の洋風建築 開化篇・栄華篇』(筑摩書房)等、建築史・建築探偵・建築設計活動関係の著書多数。近作に〈草屋根〉〈銅屋根〉(近江八幡市、たねや総合販売場・本社屋)等、史料館・美術館・住宅・茶室など建築作品多数。

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