マリオ・ボッタ
17 Nov 2020
スイス南部・ティチーノで生まれ、現在もその土地を拠点に建築設計を行う巨匠・マリオ・ボッタ。初期の代表的な住宅作品群から、東京・ワタリウム美術館までを辿りながら、ボッタ氏本人が窓と住まい、そして都市を語る。建築家・貝島桃代氏主宰「建築のふるまい学」研究室(ETHチューリッヒ校)による、スイス建築家連続インタビュー第二回。
──今回のインタビューでは、まず日本の読者にとって身近な戸建住宅の話題から入りたいと思います。日本人建築家たちのように、これまでボッタさんも小規模な作品をいわば「実験場」にして、次々と新しいアイディアを試してこられました。さっそく伺いますが、住宅空間における「窓」とはいったいどのようなものでしょうか。
マリオ・ボッタ(以下:ボッタ) まず「住宅」とはいったい何か、というところから始めましょう。住宅は今なお、身の安全を守るもの、シェルターの最たるものですね。疲れたら「くたびれた。そろそろ家に帰ろうか」と言うでしょう? きっと我々の潜在意識には、住宅こそが究極の避難場所だとする考えが刷り込まれているのだと思います。家の広さや材質は本質ではありません。家とは本来、明日に備えてエネルギーを回復させ、慌ただしい日常のなかでほっと一息つくための場所なのです。
家というものの祖型を山腹に掘った横穴だとすれば、そこでの窓に相当するものは、眼下の谷間に口を開け、外の世界へと迫り出す巨大なヴォイドです。表現の仕方はいろいろあると思いますが、私はこうした祖型を現代の文化のなかで守ってゆきたいですね。
──手元の雑誌『a+u』臨時増刊号『マリオ・ボッタ作品集』には、1986年の出版時点での全住宅作品が網羅されています。ここではすべての住宅に、建物のヴォリュームに大きな開口を穿つという共通項があるようです。開口は風景のスケールに連動して大きくとられ、続いて小さな窓に分節されて生活領域に入り込む。さらに転じて暖炉や階段室の天窓にもなります。
ボッタ 住宅はシェルターだと述べましたが、それは文明によって供される、いわゆる「生きる権利」(Living rights)を担保するものでもある。それを叶えるのが建築家の仕事です。これには、住宅の足元にある土地に対する権利も含まれます。人は剥き出しの地面では暮らせませんから、むしろ地面は外界から内部への移行の場として捉えられるべきでしょう。
その移行を滑らかにするために、住宅の設計では必ず1階の地上レベルを自然の風や光、熱などを活かす微気候で満たし、大地とのつながりを体感できるようにする。住空間はその上の階に置きます。
つまり、生活空間は、周囲の環境に直に触れるというより目で見るためのもので、庭へ出るにはいったん下の階へ降りなければなりません。この住空間が町並みや風景を一望します。最上階では夜静かにくつろいで、天空や月、星々とのつながりを感じられるよう、天窓越しにこうした宇宙的な要素を家の中へ取り込みます。
これらの住宅の設計は、はたしてシェルターたりうるか、地域や大地との関係はどうかと試行する作業でもありました。直接地面の上には暮らせませんから、地上レベルには庭を媒介させる。2階では暮らしを見つめ、3階では静かに空を見上げられるように。
──なるほど、一定のシークェンスに従って、階を上がるごとに場面を切り替えるのですね。一方では、建物のヴォリュームに大きな開口を穿って上下の階をつなぎ、垂直性を強調する。それこそ上述の作品集では、故・東孝光が《リヴァ・サン・ヴィターレの住宅》(1973)の上下方向の空間の繋がりを見て、《塔の家》(1966)の作者として共感を覚えたと述懐しています。
ボッタ リヴァ・サン・ヴィターレの住宅の場合には、それがやや誇張されています。というのも、この住宅は建物の全体のヴォリュームを体験できるつくりになっていますから。手前のブリッジを渡って住宅へ入ると、いきなり吹抜けになっているので低層部まで見通せてしまう。この時点で、家の裏手に控えた湖と教会の気配も感じられる。住宅自体が風景を読み取るためのツールになっています。
──なにをきっかけにこの垂直性を意識なさるようになったのでしょうか。お若い頃の実体験に関連がありますか?
ボッタ 徐々にその意識が芽生えていったのでしょうね。この一連の住宅はいずれも、友人やアーティストに頼まれた低予算の物件ですが、たしかこれらを手掛けていた頃に開眼したのです。誰にでも一定水準の生活を営む権利があり、それは延床面積ではとうてい測ることのできない、かけがえのないものである、と。いくら何千㎡もあるような豪邸であっても、ちっとも羨ましくない。だったら居場所を変えるだけで気分が変わるような家がいい。とはいえ、もしパンテオン神殿に暮らせるというなら暮らしてみたいと思います。あの微気候による空間も魅力ですが(天井の円形の開口部を通じて)空とつながっているところがまたいいんです。
──そうした空間構成に対するクライアントの反応はいかがでしたか。やはり皆さん、昔ながらの水平な間取りを望んでいたのでしょうか。
ボッタ スイスではたとえ古民家でも、空間を豊かにする工夫として、たとえばロッジア*1とか屋根裏部屋を設けます。もとより村のヴァナキュラーな建造物からしてそうした作法で建てられてきたので、クライアントもそれを見慣れているせいか、難色を示すような事態には遭遇しませんでした。こうした住宅設計は自分にとって貴重な経験でしたし、つくづく勉強になりました。冒頭でおっしゃったとおり、住宅を「実験場」にしたからこそ、その後の教会や美術館、劇場といった課題にも対応できたのでしょう。
──クライアントを設計プロセスに引き入れることもありますか。
ボッタ ええ、ただし丸め込むような真似はしたくありません。クライアントには夢を見てもらいたいので。ただ、こちらからあれこれ指図するつもりはないのですが、相手の反応を見てみたい気持ちは確かにあります。いつだったか、浴室の設備を黒くしたいとクライアントにいわれ、ひどく当惑した覚えがあります。その頃にはもうコストを徹底的に切り詰める方向で計画を進めていたのに、なにを今さらと。ところが、実際にはそれはもっともなことだったんです。クライアントは色の調子や濃淡によって描く画家でしたから、おそらく白の色味にも人一倍こだわりがあったのでしょう。そんなこともあるので、こちらが相手の真意を慮ってあげないと。
私自身はクライアント相手に苦労した経験はありません。──クライアントを見つけるのに苦労することは、ときどきありましたが。クライアントとの縁に恵まれ、かつ敷地さえあればプロジェクトは始動します。だいいちクライアントなしには、敷地も決まらない。向こうが私を設計者に選ぶのであって、その逆ではありません。
──周りの環境に対しては、住宅をどう馴染ませるのでしょうか。ヴォリュームに穿たれた大きな開口は、時にロッジアのようにもなり、おかげで郊外にありながら都会的な雰囲気が醸し出されていますね。
ボッタ むしろ住宅が孤立することなどありえません。たとえ人里離れた地であろうと、人は他者と暮らすために家に住まう。家は、コミュニティ、歴史、記憶、そして文化に帰属します。家は人びとを結びつけ、私たちの森や湖、土地、畑、さらには隣人を大事にすることを教えてくれます。隣人は友であり、彼らもまた自分と同じように暮らしているのです。
ところが時流はこれに逆らうかのように、画一的な家並みばかりが目につきます。まるで自宅に閉じこもるためにつくられているかのように。住宅とは本来、コミュニティで暮らしてゆくための手段のはずで、そしてそれこそヨーロッパ文化が教えてくれることではないのでしょうか。
──ところで、一連の住宅の共通項をもうひとつ挙げるなら、幾何学の使用が挙げられるでしょうか。
ボッタ それについては、私はまったく躊躇しません。今どきの若手はどうも幾何学に対して及び腰ですが、私にいわせれば幾何学は実利的な手段というか、それ抜きには構法が成立しないくらいに、重力同様にあって当然のものです。住宅をつくるなら、極力その重みを表現しているものにします。逆に軽さを狙ったものを設計するのであれば、私は気球か飛行機をつくるでしょう。大地と一体になっていなければ、住宅の意味がありません。
──数年前に学生を引率して《カデナッツォの住宅》(1971年)を拝見しましたが、あの円形の開口部は煉瓦やコンクリート・ブロックを材料にしてアーチの原理でつくられているんですね。構造的には、コンクリート壁に穴を穿つのとは違って……。
ボッタ ええ、あの開口部はアーチの原理で成り立っています。ブロックを使っているので、必然的にそうなるのです。見た目にも、石積みならまだしもコンクリートですから、アーチにしたほうが映えます。円形は開口部の原型ですが、ブロック積みの場合、こうした形状は(耐力壁の)構造的な原理から考えても、最も理に適っているのです。もしこのファサードをガラス張りにすれば、外壁はもはや構造的な原理に従いませんから、構造はトリリトン*2のようなシステムとなりますよね。
──ところで冒頭でも触れましたが、戸建住宅の設計からこの道に入られた点は、日本人建築家と同様ですね。日本人建築家の中で、個人的な縁を感じる方はいますか。
ボッタ 自分と同世代の槇文彦、安藤忠雄、東孝光あたりでしょうか。この面々とは幾度か国際コンペでご一緒しましたし、友人としても職業人としても互いに尊敬しあう間柄です。日本の建築家は現代建築の発展に大いに寄与しました。安藤さんは何度かティチーノにいらしてますから、拙作の住宅にもご案内しました。
彼らとの接点は、同じ時間を共有していることでしょうか。同世代だから当然ですが。うちのクライアントもやはり彼らと同年代ですが、考え方や嗜好にはもちろん地域差があるでしょうね。設計ツールの違いもあるし、彼らのいるような都会と、私のいる地方とでは生活様式も異なります。日本はヨーロッパとは違って、急速に技術発展を遂げましたから、いくら同世代とはいえ、彼らは経済的にも技術的にも我々とはまるで違う境遇にあります。
──その日本で《ワタリウム美術館》(1990)を設計することになって、やはりコンテクストの違いを痛感なさいましたか。
ボッタ 日本の場合は経済的な制約が非常に多い。それこそ地価が高いので、敷地境界線を遵守しなくてはなりません。ヨーロッパなら多少の融通は利くので、建物のフォルムを優先して境界線の誤差には目をつむることもできますが、日本では境界線が絶対的なので、これまでのやり方では通用しません。
たとえばワタリウム美術館では、最終的に敷地の角に階段を置きました。空地にしておくにはあまりにもったいないから。建物をざっと配置してみると猫の額ほどの土地が余ったので、そこに階段を置くと、うまい具合にこの一角が旗のような役割を果たし、補強されたというわけです。
──たしかにティチーノにある一連の戸建住宅では、階段がおおむねプラン中央の主軸上にありました。これらは採光のみならず、空間の求心的な要素にもなっていましたが、ワタリウムではそれが端に寄せられていますね。これには先ほどお話にあった、東京という土地の特異な状況への対応という側面もあると思いますが、こうした決定は設計プロセスの中でなされていったのでしょうか。
ボッタ ワタリウムの設計は長丁場になりましたが、あのとき和多利(志津子)氏がいてくれてどれだけ助かったことか。設計は毎回現地で進めたのですが、氏はいつも立ち会ってくれました。あの方はね、私が何かひらめくたびにすかさずその意図を汲み取って、場合によっては私より先を読んでいました。おまけに私の描いたスケッチまで持ち帰って!
おかげで設計は一直線に進みました。エンジニアに問題を指摘されたら、こちらは粛々とその解決を図る。たとえば階段は火災避難や消火・救助活動にも使われるので、これを建物本体から切り離して敷地角に寄せ、先述したように一種の記号というか目印に仕立てるといった具合です。
あとはギャラリーに一定の床面積を確保すべく、設備一式を屋上の円筒形ヴォリュームにまとめています。このプロジェクト全体が、それぞれに異なる語法をもつパーツによってできています。窓も住宅のときとは異なった意図があって、外を眺めるためではなく、あくまでも採光用としています。そのつもりで要所要所に天窓を設けました。
それから、私にとってこのプロジェクトの肝は、三角形の敷地の長辺を街に向けてどうデザインするかということにありました。ちなみに、この前面道路(外苑西通り)は1964年のオリンピックに際して、古い都市組織を切り拓いて通されたために、このように変則的な敷地形状になったんですね。で、このファサードについては、中央にスリット状の開口をとることで軸線が通り、パラッツォ風の威厳が備わるだろうと。できることなら、このファサードの設計に専念したかったくらいです!
──東京という都市空間を動かしてきたダイナミクスが、ワタリウムでは設計の決め手となったのですね。ティチーノの一連の住宅にも、やはりその土地に固有の文脈が反映されているのでしょうか。
ボッタ ティチーノには土地利用計画はあるものの開発規制が整備されておらず、むしろ都市化が野放しにされてきました。住宅の設計ではまず、そこでつまづく。それで毎回のように、この土地利用計画とにらめっこするはめになります。たとえば《スタービオの住宅》(1982年)では、平面を円形にすることで敷地対角線を強調し、開発計画どおりの画一的な区画割りにせめてもの抵抗を試みました。住宅どうしを正対させるのが嫌だったので、こうして正面性をなくしたわけです。
とはいえ住宅に限らずどんな建物でも、必ず都市のコンテクストを意識します。住宅のどこがほかの建物と違うのか、なぜ住宅が建築の主題たりえるかというと、それは住宅もまた、人とともに1日24時間のサイクルを生きているからです。我々は少なくとも、住宅を介して世界とつながっている。我が家には、職場にはない四季がある。家にいれば日の長さや、巡る季節にも思いが至るようになります。自分はそういったことに気を使います。
──最後に、現在産業化とグローバル化が急速に進んでいますが、こうしたことは建築実務のあり方にも変化をもたらすとお考えでしょうか。
ボッタ 最近、どの建物も似たりよったりに見えるのは、同じ材料ばかりが使われているせいでしょう。誌面に掲載された作品を見ても、いったいそれがどこに建てられたものなのか、皆目見当がつかない。それにもまして、クライアントの姿が見えなくなりました。クライアント不在の時代というべきでしょうか。
ちょうど今イタリアで、とあるプロジェクトを進めていますが、いったい誰のためにつくっているのか分からぬ有様です。とある投資ファンドから受注したこの物件は、すでに3、4回転売されています。この手のファンドには独自の価値観と基準があるらしく、やたらと延床面積の数字にこだわる。オフィスにするのか、店舗にあてるのか、当の発注者ですら分かっていない。相手の顔が見えないと、こちらもどうしていいかわかりません。これもまた、われわれのアイデンティティを失わせるグローバル化の一つの例でしょう。
私自身はそれぞれのテーマに向き合う「古いタイプの」建築家でありたいと思います。美術館を設計するなら、あくまで美術館として設計し、時代に合った美術館のありようを思案します。あいにくティチーノにいる自分は、井の中の蛙のようなもので、チューリッヒへさえ、おいそれとは出かけられない……。まったく、建築家にすればとんだご時世です!
注釈
1 : イタリア語を語源とする「ロッジア(loggia)」は、柱によって支えられた水平梁に屋根が載ることで生まれる半屋外空間を示す建築要素である。多くの場合列柱を備えた半屋外空間となるロッジアは、開放的な内部空間の延長であると同時に、建物の立面にリズムを与え、通りに反復することで街並みを創出する要素にもなる。
2 : トリリトン(trilithon)は、横倒しにされた巨石が垂直方向にのびるふたつの巨石に支持される構造体を指す用語であり、イギリスのストーンヘンジやマルタ島の巨石神殿などがその代表例とされる。支柱(post)と楣(lintel)による構造体(post-lintel system)であるトリリトンは、柱梁構造(架構式構造)の原始的な例であり、壁式の構造体と対比をなす。
マリオ・ボッタ
建築家。1970年にルガーノに事務所を設立。本業のかたわら教育にも力を入れ、ヨーロッパをはじめアジアや米国やラテンアメリカ諸国の建築学校で講義・設計演習・講座を担当。独立当初はティチーノ州内で戸建住宅を手掛け、のちに学校、銀行、社屋、図書館、美術館、宗教施設などの設計にも手を広げる。その作品は世界的声価を得るとともに各地の展覧会で紹介される。各種文化施設の名誉会員。アルゼンチン、ギリシャ、ルーマニア、ブルガリア、ブラジル、スイスの大学にて名誉学位を授与される。
1996年に開校したメンドリジオ建築アカデミーの創立メンバーであり、2018年まで同校の教壇に立つ。2018年10月にはアカデミー内に建築を巡る文化討論の場たるメンドリジオ建築シアターを開設。
貝島桃代
2017年よりスイス連邦工科大学(ETH)チューリッヒ校「建築のふるまい学」教授。日本女子大学卒業後、1992年に塚本由晴とアトリエ・ワンを設立し、2000年に東京工業大学大学院博士課程満期退学。2009年より筑波大学准教授。ハーヴァード大学デザイン大学院(GSD)(2003、2016)、ライス大学(2014-15)、デルフト工科大学(2015-16)、コロンビア大学(2017)にて教鞭を執る。住宅、公共建築、駅前広場の設計に携わるかたわら、精力的に都市調査を進め、著書『メイド・イン・トーキョー』『ペット・アーキテクチャー・ガイドブック』にまとめる。第16回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館キュレーター。
シモーナ・フェラーリ
建築家・アーティスト。2017年よりスイス連邦工科大学チューリッヒ校(ETHZ)「建築のふるまい学」研究助手として指導にあたる。ミラノ工科大学、ウィーン工科大学、東京工業大学(外国人特別研究員)にて建築を学ぶ。2014年から17年までアトリエ・ワンの国外プロジェクトを担当。チューリッヒ芸術大学美術学修士課程在学。「ユーロパン 15」(2019)コンペ勝利にともない、現在は伊ヴェルバニアのアセターティ社工場跡にてプロジェクト(メタクシア・マルカキと共同)を進行中。
Top image by Chair of Architectural Behaviorology