塩田千春
窓に滲む生活感や匂いが作品に力を与える
15 Oct 2019
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ベルリンを拠点に精力的に制作活動を展開するアーティストの塩田千春氏。大量の糸で空間を編み上げる大規模なインスタレーションをはじめ、衣服やベッド、スーツケースといった身近な素材を用いながら、自身の精神性に深く根ざした作品づくりを行ってきた。
2019年6月からは森美術館で過去最大規模の個展「塩田千春展:魂がふるえる」が開催されている。同展では、塩田氏が中心的なモチーフのひとつとする窓を用いた作品も出展中だ。ベルリンの壁崩壊後のドイツで着想を得たという塩田氏に、自作において窓が持つ意義を聞いた。
──森美術館で現在開催中の「塩田千春展:魂がふるえる」は、塩田さんの約25年におよぶ作家活動で最大規模となる展覧会です。塩田さんは同展で展示されている《内と外》(2009/2019年)をはじめ、「窓」をモチーフにした作品も数多く発表してこられました。こうした作品をつくろうと考えたきっかけをお聞かせいただけますか。
私がベルリンに制作の場を移した1998年ごろは、街のあちこちで建設工事が行われていました。取り外された窓が工事現場にずらりと並べられている光景を見て、これで何かつくれないかと考えたのがきっかけです。当時はベルリンの壁の崩壊からすでに9年が経っていたものの、情勢は混沌としており、街中にはまだ空き家が多く残っていました。
ベルリンの壁は、同じ国の同じ言葉を話す人々を分断しました。結果的に人の心のなかにまで壁をつくってしまった。私は約20年前、東側の人たちは壁の向こうの西側の人たちにどのような感情を抱いていたのだろうと想像し、窓には人の歴史や感情がたくさん詰まっていて、その一つひとつに物語があることに思い至りました。
──工事現場をご覧になった経験が窓の作品が生まれるきっかけとなったのですね。これだけ多くの窓を集めるのはとてもたいへんだったと思います。
私たちが窓に触れるときには建物の一部としてであることがほとんどで、窓そのものを見ることはほとんどありません。ところが、たくさんの窓が中庭に置かれている光景を見たことで、その部屋に住んでいた人の記憶や生活が垣間見えるように思えたのです。それから窓を収集するために工事現場を回る日々が始まりました。
このころは自転車で朝から晩まで工事現場ばかりを見て回りました。1日に20件ほどのペースだったのではないかと思います。すると次第に、現場ごとに窓が取り外される時期がわかるようになります。窓が取り外され、現場に並び始めると、作品のために提供してもらえないかと現場の人たちに掛け合います。古い窓はほとんど廃棄されるので、たいてい気前よくわけてもらえるのですが、なかには高く売りつけようとする人もいました。
こうしたことを半年も続けられたのですから、このころは窓に取り憑かれていたと言っていいかもしれません。当時使っていた屋根裏部屋のアトリエはあまりに小さく、集めた窓を保管するために、ベルリン郊外に小さな倉庫を借りなくてはなりませんでした。そのうえ中庭付きの安いアトリエも借りたため、私はすっかり窓貧乏になってしまいました(笑)。
──作品の構想を始める前に窓を集めはじめたのですか?
そうです。窓を使った最初の作品は2004年、第1回セビリア現代美術ビエンナーレに出展するためのものです。制作の過程で最初に集めた600枚では足りないとわかり、さらに集め直しました。
次に制作したのが2005年にオーフス美術館(デンマーク)での展示のための《His Chair》です。アンデルセンの生誕200年に開催された「おとぎ話よ永遠に──H.C.アンデルセンに捧ぐ」展で、このとき750枚ほどの窓を組み上げました。窓を円筒状に組み、その中央に椅子を一脚置いた作品です。
この椅子はアンデルセンに捧げたものですが、窓を通して人々の生活や家族、歴史を見るような作品でもあります。制作中に窓の数が足りなくなると、自分でも木材を使って窓枠を組み立てました。現在、森美術館で展示している《内と外》でも、ビス留めしてつくった窓枠が一部に使われています。
──「魂がふるえる」展では、展示室の壁に次のような印象的なフレーズが掲示されています。
「第一の皮膚は人の皮膚。衣服が第二の皮膚。だとしたら第三の皮膚は居住空間、人間のからだをとり囲む壁やドアや窓ではないのか」と。
とてもユニークな発想であると同時に、これは私たちにとっても共通した感覚のように思われます。この言葉の背景にはどのような思いがあったのでしょう。
私が皮膚を強く意識するようになったのは海外に住み始めてからです。例えば、ジャングルのなかで人間はほかの動物に比べてとても弱い生き物です。その人間にとって洋服は第2の皮膚と言えますし、その外側には第3の皮膚と言うべき居住空間があります。
ベルリンでの生活が長いことで、私自身、「日本に“帰る”」のか、「日本に “行く”」のか、はっきりしなくなることがあります。どちらに向かうにせよ、すでにどちらも帰り道ではなくなっている。今挙げた意味での皮膚は内と外を隔てる境界のような存在ですが、日本とドイツを行き来するなかで、内でも外でもない狭間に自分が立っているような感覚を覚えます。窓に取り憑かれたのもこうしたサイクルが作用しているのかもしれません。
──ベルリンに長く住むなかで、ご自身を根無し草のように感じられたのでしょうか。
私はいつも作品をつくったり、展示したりするとき、どこにも属さず、ひとりで出かけていきたいという思いを強く持って行動してきました。こうしたモチベーションは私自身が不安定な状況に身を置くこととも背中合わせですが、制作において、強い構造に頼らない作品をつくることにもつながっています。
例えば、窓を用いた一連の作品は、純粋に窓だけを組み上げてつくられており、これを支える構造体は存在しません。窓そのものにも一つひとつ相当な重量があるので、ふつうに鉄の構造体を設けても歪んでしまう物理的な事情にもよりますが、何よりも不安定ながらモノそのものが自立している状況を私自身が望んでいるのが重要だと思っています。
──塩田さんはいみじくも「魂がふるえる展」のオープニングで、「不安な気持ちが作品をつくるときのきっかけになる」と仰っていました。ご自身が抱える不安と窓のたたずまいがあたかも共振しているように思います。
窓のおもしろさは、それ1枚だけで自立しないところです。数百枚の窓を安定させるためには、重く頑丈なものを下から組み上げていかなくてはなりません。一つひとつ円筒状に接合していくと、作品全体が安定した構造をもつようになります。こうした制作では不安な要素だけでなく、私自身のもつ疑問やわだかまりといった思いがすべて関わってきます。
ただ、先ほども申したように、そのようにつくることを、私自身は最初からはっきりとわかっていたわけではありません。窓を集める過程で、「ああ、私がこの作品を望んだのはこういう意味があったのか」と、次第に見え始めるようになるのです。
──工事現場に窓がずらりと並んだ状況やベルリンの壁崩壊後の混沌とした状況が、塩田さんのなかで結びつき、制作へと突き動かしたのですね。
私の場合、アイデアをすぐに形にするのではなく、十分な時間考えてからつくり始めます。《His Chair》や《内と外》も、窓を集めたあと、まずはずっとイメージし続ける時間が必要でした。構想に費やす自由な時間こそ、私にとってとても重要なのです。
私があまりドローイングを描かないのは、素描そのものが作品になってしまうからです。イメージを壊さないためにも何もしない状態でぼんやりと考え続ける、その時間が大事なのです。
──瀬戸内国際芸術祭で制作された《遠い記憶》(2010年)は、豊島にある古い公民館を舞台にした作品です。ベルリンとは異なる土地の背景があったと思いますが、どのようなことをお考えになりましたか。
ベルリンで窓を集めたように、この作品でも瀬戸内海の7つの島々から建具を400枚集めました。すべて人々がかつての生活のなかで使っていたものです。これらを組み上げてトンネル状の作品を制作しました。
《遠い記憶》を制作したのは甲生と呼ばれる地区で、この集落では当時16年ぶりに子どもが生まれたばかりでした。トンネルを介して水田と集落が結ばれるようになっており、集落を望む方向にはその子どもが生まれた家が見えます。
2016年にはこの作品を使って村で結婚式が行われました。村長さんがかつてこの公民館で結婚式を挙げたというエピソードを聞いた芸術祭のスタッフが、自分もぜひここで挙式したいと、トンネルをバージンロードに見立てて設えたのだそうです。
残念ながら私は参加できなかったのですが、後日送ってもらった写真からは村の人たちに祝福されている様子が伝わってきて、私にとってもとても印象深い作品になりました。
──作品と人々の関わりという点で、塩田さんは『タトゥー』(デーア・ローアー作、岡田利規演出、2009年)をはじめ、数多くの舞台美術も手がけておられます。作品と人との関わりについて、どのようにお考えですか。
ひとりで窓を集めて回ったベルリンとは対称的に、豊島では多くの人の手を借りて制作しなければなりませんでした。村でどのようにふるまえばよいか不安に思っていたところ、芸術祭のスタッフから「村の人には必ず挨拶をする」「村の人に親切にしてもらったら、お金以外の方法で感謝の気持ちをお返しする」といったアドバイスをもらいました。
島にはホームセンターもなく、脚立ひとつ借りるためにもコミュニケーションをとる必要が生じます。最初はカーテンの隙間から様子を窺っていたような村の人たちも次第に手を貸してくれるようになり、無事に作品を完成させることができました。その結果、どのようなことが起きたか。
驚いたことに、芸術祭が始まって私が島を離れた後、島のおじいさんやおばあさんが来島者に作品の説明をしてくれているそうです。それは島の人たちにとっても身近な材料で作品がつくられていることが大きいのだと思います。アトリエで制作した彫刻を島に運んで置いて帰るようなやり方をしていたら、きっとそんなことにはなっていなかったでしょう。
それから3年後に再び私が豊島を訪れると、村の様子がまた変わっていました。村の人たちがみんな生き生きとして笑顔になっているのです。作品を舞台に結婚式を挙げてくれるほどの関係がつくれたのは、何よりも私自身にとって得がたい体験でした。
──《内と外》の発表から今年で10年目を迎えるとともに、2019年はベルリンの壁の崩壊から30年の節目の年にもなります。今、あらためてこの作品を展示することについてのお考えを聞かせてください。
《内と外》は金沢21世紀美術館のコレクションとして収蔵されているのですが、私も久しぶりにこの作品を見て、あらためて窓のもつ重さはいいなと感じました。というのも、窓は誰かが光を求めてつくったものだからです。
ベルリンは8月から2月の間、雲が広がってどんよりとした日が続きます。こうした気候のもとで窓からの光は精神的な安定を与えてくれるのでしょう。最近の建物は窓が次第に大きくなる傾向があり、改装されたものでも陽の光がたっぷり注ぐようにとても大きな窓が設えられます。
私が実際に使う窓は展覧会のために用意された真新しいものではなく、かつて東ベルリンで生活していた人々が実際に使っていたものです。そこからは生活感や匂いのようなものが滲み出ていて、それが作品にも力を与えてくれているのでしょう。私自身もこの制作を通じて、窓のない建物の空虚さを強く実感しました。窓があること、それだけできっと、建物やそこに暮らす人たちは生気を得ることができるのだと思います。
展覧会「塩田千春展:魂がふるえる」
会場/森美術館
会期/2019年6月20日(木)~ 10月27日(日)
www.mori.art.museum
塩田千春/Chiharu Shiota
1972年大阪府生まれ。京都精華大学洋画科卒業後、1996年に渡独。ハンブルク美術大学、ブラウンシュバイク美術大学、ベルリン芸術大学に在籍し、マリーナ・アブラモヴィッチ、レベッカ・ホーンに師事する。1998年以降、ベルリンを拠点に制作活動を展開。糸で紡ぐ大規模なインスタレーションをはじめ、窓や衣服、ベッドといった身近な素材を用いて立体、映像、写真など多様な表現手法で作品を制作している。
2001年、横浜トリエンナーレに出展された《皮膚からの記憶》が大きく話題となり、国内外の多くの美術館で展覧会を開催。2015年には第56回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展において日本館代表作家を務めた。今年6月20日~10月27日、過去最大規模となる個展「塩田千春展:魂がふるえる」が森美術館で開催。著書に『塩田千春/心が形になるとき』(新宿書房、2009年)など。