26 Mar 2024
古今東西の建築を見て回った建築史家の藤森照信氏が、日本全国の歴史的建築から、よりすぐりの魅力をもった「窓」を1件ずつ紹介するシリーズ企画。8回目に取り上げるのは建築家のアントニン・レーモンドが自らの別荘であり夏季の仕事場として建てた〈軽井沢夏の家〉です。移築されて〈ペイネ美術館〉として活用されている建物には、横に長い大きな窓が付いています。この窓は建築史のうえでどんな意義を持っているのでしょうか。
日本のモダンデザインを切り拓いたことで知られる“分離派”メンバーだった滝沢真弓にインタビューしたおり、窓について次のような体験を話してくれた。
「分離派メンバーが初参加した1922年の〈平和記念東京博覧会〉設計の時、横に長い窓を開けようと思ったが、途中に出てしまう壁や柱をどうしたら除くことができるか分からず諦めた。その後、何年かしてル・コルビュジエの作品を見て、こういうやり方があったのか、と彼の創造力に感銘を受け、私も震災復興時の神田のビルで真似をした」。
この発言から、当時の若い前衛的建築家の間で横長連続窓への憧れはあったが、それを初めて見せてくれたのがル・コルビュジエであったことが分かる。
ル・コルビュジエが世界初とはいえないが、横長連続窓がモダニズム建築にとって不可欠な要素であることを世界で初めて訴えたのが彼であったのは間違いない。なぜなら、1927年、世界に向かって訴えた『モダニズムの五原則』の四番目に“横長連続窓”を明示しているからだ。横長連続窓は、柱から片持梁を外に向かって短く突き出し、その先に外壁を載せて窓を水平に開ければ可能になる。ル・コルビュジエの広めた横長連続窓には前段階があったことを知っておいてほしい。それは、日本の伝統的建築とアメリカのフランク・ロイド・ライトの存在である。このシリーズの前回〈臨春閣〉の項で軽く触れたが、やや詳しくたどってみよう。
1893年、シカゴで開かれた万国博覧会の日本館は久留正道の設計により〈鳳凰殿〉と名付けられ、名の通り宇治の平等院を基に伝統の木造でつくられていた。今の目で見れば、寺院と書院造と数寄屋造の入り交じったややヘンな日本建築に違いないが、ライトが衝撃を受けたのはそうした統一感に欠けたスタイルではなく、初めて目にする開口部のつくり方だった。内と外は障子と雨戸で、部屋と部屋の間は薄い襖と障子で仕切られ、その仕切りをそっと横に引くと、室内と窓外、部屋と部屋の空間が一体化する。アメリカの戦後を代表する建築史家のヴィンセント・スカーリーはこうした日本の伝統建築の特性を空間の“コンティニュイティ(流動性・連続性)”と名付けている。
ライトは、日本の伝統建築を基にスタディを重ね、自作の住宅で空間が伸びやかに、ということは外観も窓も水平に延びる建築を実現した。その図面を浮世絵に学んだパースとともに立派な図版集にまとめ、1910年、ドイツのヴァスムート社からドイツ語で出版する。ドイツに向けたのは、当時、世界のモダニズムの先端はドイツが走っていたからだ。
ライトの図面集は図に当たり、ヴァルター・グロピウスやミース・ファン・デル・ローエといった先端を走るドイツの建築家たちは刺激を受け、例えばグロピウスは1911年、水平性を強調した〈ファグス靴工場〉をつくり、さらに1927年、バウハウスが開校される。翌年、ル・コルビュジエの『モダニズムの五原則』が発表され、横長連続窓は確立し、世界のモダニズムの定番となっている。そしてその後数年して、フランスと日本の間で、連続窓を巡って一つの建築的事件が起こる。
1934年、ル・コルビュジエが届いたばかりの建築の雑誌を開くと、そこには4年前の1930年に実現しなかった案として自分が発表したチリの〈エラズリス邸案〉が日本で実現しているではないか。在日アメリカ人建築家のアントニン・レーモンドが、軽井沢の自分の別荘兼夏用オフィスとして建てた〈軽井沢夏の家〉である。この横長の建築は西側のオフィスと、東側の住区の二区分からなり、平面の全体は、オフィスから住区に向かって引かれた東西軸と住区に引かれた南北軸の、二つの軸が交差する十字プランを採る。十字プランは、もちろんレーモンドの師のライトが日本の伝統建築の延びる平面に刺激されて編み出した平面構成に従っている。
問題になったのは十字プランでも住区のデザインでもなく、オフィスの平面と立面であった。較べてみると、あまりの似方にル・コルビュジエならずとも驚くしかない。とりわけ類似が顕著なのは立面で、木造屋根の逆折などという“雨の生理”に反した屋根形状を考えた建築家は、世界でもル・コルビュジエ以外に知らない。木造の屋根を逆折りにしたことで、草創期モダニズムの根本精神ともいうべき“脱伝統、反伝統”を可能とし、かつ、モダニズムの主流であるバウハウス流の箱型を脱し、モダニズムに造形的ダイナミズムを注入することに成功している。
逆折り屋根は平面構成にも直結し、東端の高いほうの屋根下にあるロフトは製図室に充てられ、ロフトへの昇降は階段ではなく斜路による。逆折り、ロフト、斜路の三者が一体化するコルビュジエ流木造のモダニズム建築に違いない。レーモンドは、この案をフランスの建築雑誌で見て感動し、しかし実現しないと知ったとき、魔が差し、〈エラズリス邸案〉の壁構造と木造屋根を、全木造に変えて実現したのだった。発表にあたり、註で原案がル・コルビュジエにあることを述べてはいるが、褒められた行いではない。レーモンドは魔が差しやすい性格だったらしく、この時を含め人生で三度差している。
〈エラズリス邸案〉と〈軽井沢夏の家〉は全体構成はそっくりだが、レーモンドが自伝の中で弁明するように、「私自身のデザインとしては、特にディテールについて多くを指摘できる」。レーモンドならではの固有のディテールとして輝くのは、窓のつくりだった。
〈エラズリス邸案〉のインテリアパースの左手を見れば分かるように、窓はスパンごとに立つ組積造の分厚い壁柱に遮られてぶち切りにされている。横長連続窓はどこに行った。室内独立木柱と屋根の木造梁が生む軽快さと組積造壁の重厚さが美的に背反し空間の統一性が失われている。おそらく、レーモンドはこの案を見て自分ならもっと上手にやれると思い、実行したのだろう。ル・コルビュジエはレーモンドとの手紙のやり取りの中で、「あなたは私のアイディアの翻案にあのように成功しておられる」と述べた。
組積造を木造に訳することに成功した最も重要な箇所は、横長連続窓だった。レーモンドもそのことをよく自覚していて、自伝の中で、ガラスの見えない横長の窓と、そうすることでもたらされた内外空間の一体性を楽しむレーモンド一家と所員たちの姿を写真に残し、大きく扱っている。窓でありながらガラスの消える手品のようなつくりは、伝統の秘技“雨戸収納の術”をガラス戸に応用した成果だった。具体的にいうと、中央に並び立つ二本の柱の、まず外側に雨戸を、内側にガラス戸を立て、引き込む時は、雨戸を外側の戸袋に、ガラス戸は内側の戸袋状のつくりに納めている。
空間の連続性というモダニズム建築の一つの夢は、日本の伝統建築→ライト→グロピウス→コルビュジエ→レーモンドと続き、スタートに一回りして帰り、雨戸のようにしてガラス戸が消えるという形で実現した。しかし、ガラス戸を片側に横にずらして引き込むという強引なやり方は、写真を見れば分かるように室内側に無理が発生し、引き継ぐ者はいなかった。あえてやろうとするなら、ガラス戸の数だけレールを敷けば可能である。実際、レーモンドは戦後一度試みているし、吉田五十八もやっているが、雨戸・ガラス戸の通り道(敷居)の幅が過剰に広がり、真似したくなるような魅力はない。
建築概要
軽井沢夏の家
設計者:アントニン・レーモンド
所在地:長野県北佐久郡軽井沢町大字長倉字古川228番地1 (軽井沢タリアセン内)
竣工:1933(昭和8)年 移築:1986(昭和61)年
チェコ生まれの建築家アントニン・レーモンドは、フランク・ロイド・ライトによる〈帝国ホテル〉プロジェクトのために来日するが、完成を待たずにライトの下を離れ、自らの設計事務所を日本で開く。彼の別荘であり、夏季の仕事場として建てられたのがこの建物。レーモンドが手放した後、何人かの所有者を経て、リゾート施設の軽井沢タリアセンに移築され、画家レイモン・ペイネの作品を展示する〈ペイネ美術館〉として公開されている。
藤森照信/Terunobu Fujimori
1946年、長野県生まれ。東京大学大学院博士課程修了。東京大学生産技術研究所教授、工学院大学教授を経て、現在は、東京大学名誉教授、工学院大学特任教授、江戸東京博物館館長。45歳より設計を始め今に至る。近著に『磯崎新と藤森照信の茶席建築談義』(六耀社)、『近代日本の洋風建築 開化篇・栄華篇』(筑摩書房)等、建築史・建築探偵・建築設計活動関係の著書多数。近作に〈草屋根〉〈銅屋根〉(近江八幡市、たねや総合販売場・本社屋)等、史料館・美術館・住宅・茶室など建築作品多数。