12 Dec 2023
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古今東西の建築を見て回った建築史家の藤森照信氏が、日本全国の歴史的建築から、よりすぐりの魅力をもった「窓」を1件ずつ紹介するシリーズ企画。7回目は、臨春閣の〈障子〉を取り上げます。臨春閣はもともと紀州徳川家の別荘「巌出御殿」として建てられたとされる数寄屋造の名作で、実業家の原三溪が譲り受けて、横浜の三溪園に移築されています。雁行して建物が連なる臨春閣で、庭園に面して内外を仕切っているのが障子です。日本の伝統住宅に特有のこの窓周り装置は、どんな効果を担い、どのように広まっていったのでしょうか。
日本の伝統的住宅に特有の部位は、と訊かれれば、まず室内にはじまり、畳、障子、襖ときてから外観に移り、大きな屋根、深い軒あたりで止まるだろう。そしてさらに、中でも一つだけ挙げろと強いられたらどうするか。屋根と深い軒は雨の多い国ならどこにでもあるし、床の間はヨーロッパの暖炉が似ているし、畳は絨毯と起源が共通するし、襖は厚さが中途半端だし、などなど少し迷った後になるが、
「障子」
とキッパリ答える。
薄くて白い紙と細い木の桟のグリッド。これほど薄く平明なつくりの建築部材は世界でも日本にしかなく、よくこんなもんで住宅の内外を仕切って平気で暮らしていたもんだと外国人なら呆れるし、ガラスに慣れた今の日本人も呆れる。
窓の重要な機能の一つは採光で、ヨーロッパの教会や王宮などでは古代ローマのクラウンガラス以来ガラスを使ったというのに、わが日本では天皇も庶民も、長い間、白い紙一枚で過ごしてきたのである。もちろん紙だけでは風雨は防げないから、江戸時代にはその外側に雨戸が、明治になってヨーロッパから板ガラスが入ってくると、雨戸の室内側にガラス戸が立てられるようになり、外から順に、雨戸、ガラス戸、障子の三枚が風雨と光をコントロールする体勢となる。雨戸、ガラス戸と障子の間には廊下が走る。障子が畳敷きの外側にズラリと並ぶようになったのは江戸時代の、もしくはそのまえの戦国時代末の書院造からと思われるが、当時の書院造は柱が太く、床の間や天井のつくりも木太くかつ豪壮を旨としていたから、障子のつくりも派手で、桟や縁のつくりのほうが目立ち、白い紙の印象は弱かった。
豪壮を旨として戦国大名たちが発達させた書院造が変質するのは、千利休が創案した茶室の美学のせいだった。書院造は、茶室の細さ軽さと自然的美学に導かれて数寄屋造へと変質し、ここに障子は最もふさわしい居所を発見し、今にいたる。もし豪壮で立体的な装飾細部を特徴とする書院造から、木細く平面的な面と線の美学を好む数寄屋への進化がなければ、白い紙を張っただけの障子が日本の伝統的住宅の一番の見どころとなることもなかっただろう。
数寄屋造の実例として今回取り上げるのは、横浜の三溪園に近代になってから移築保存された臨春閣だ。元々臨春閣は紀州徳川家の別邸・巌出御殿として1649年につくられ、その後、大阪に移され、1906年ごろ三溪園に入っている(この来歴には異説もある)。横浜の生糸貿易で財をなした原三溪は明治を代表する近代数寄者として知られ、桂離宮に次ぐ質を持つ数寄屋造の名作として臨春閣を入手し、移築している。
まず外から見よう。右から第一屋、第二屋、第三屋の三棟からなり、一番奥まって位置する二階建ての第三屋は、より木細くかつ繊細につくられ、一部に朱が塗られたり、欄間には雅楽の楽器の形が加味されていることから、私がにらむに、夫人用それもやんごとなき夫人用ではなかったか。
外観でまず忘れてはいけない見どころは屋根の葺き材で、書院造は瓦葺きに限るのに、数寄屋造らしく上層は檜皮葺きで、庇は薄い木片を重ね張りした杮葺き。もちろん千利休が創出した茶室の反書院造美学の血が入っている。もし、屋根の杮と木の柱と木製の戸の三つだけだったら、木、木、木となって外観は暗く沈むが、その一番暗くなる軒の下を障子の白い帯が水平に走り、外観は明るく爽やかへと転ずる。陰影礼賛も、障子があってこその礼賛。そしてその白い帯が一面だけでなく直交する二面に及び、障子を開けると外国の窓にはない全面的開放感をもたらす。
続いて中に入ろう。まず板張りの広縁を歩く。縁の周りのつくりも書院造と数寄屋造では違い、前者は角材が使われているのに、後者では棰木も勾欄も木の枝と皮を剝いただけの丸太が採用されているし、右手の欄間の格子は竹。外側の欄間の斜めの格子も格式を重んじる書院造では崩れすぎてダメ。
なお、広縁を風雨から守るため庭に面して今はガラス戸が嵌められているが、江戸時代は雨戸だった。
ガラス戸も障子も開け放って、室内から庭を眺めるとどう見えるのか、「浪華の間」を例に考えてみよう。普通、四枚の障子からなり、中央二枚を左右に引くと、上の欄間と左右の障子を額縁として真ん中に横長の水と緑の光景が現れる。そしてもし左右の額縁がちゃんとした壁だったらどうだろう。額縁が重くなるにちがいない。ところが障子だと、厚さが薄いばかりか紙の透過光があるから額縁は軽くなり、透ける印象が生まれ、室内と屋外の間の連続性が視覚上強まる。障子には、内外の連続性を一段と強化する力がある。
同じ部屋の障子をすべて立てる(閉める)と室内はどうなるか。白い帯が一面だけでなく、角を回って二面続き、かつ、軽く薄い障子ゆえ淡い光が透けてくるから、視覚的には閉じていても感覚的には外との連続性はちゃんと残る。二面連続の障子を角の柱を中心にそれぞれ片側に引くと、四角な部屋の四角な空間が、柱一本を残して内から外へと本当に連続する。世界を見回しても、こんなに内外の連続性、流動性が高い空間は数寄屋造のほかはない。
「浪華の間」の右手の襖を開けると、いよいよ主室である「住之江の間」に入る。
障子のことばかり続けたので、そのほかのつくりについてもどこが数寄屋造の特徴なのかを説明しよう。まず入ってきた人の視線を正面から受け止める「床の間」のつくりから。右手から棚と床柱、さらに床、そしてその左手の壁に小ぶりなつくりを特徴とする障子を使った付け書院がつく。この棚、床柱、付け書院を一組にして床の間が成り立つのは書院造からの定石だが、棚ににぎやかな螺鈿などは書院造では御法度だし、左手の付け書院もちゃんと廊下に張り出すのが書院造の決まり。書院造という名も、ここに小さな出窓があり、僧たちが書を読んだり文をしたためたりした故事に由来する。
天井を見ると、書院造では折上格天井が本式で、略しても太い桟を平行に通すのが決まりだから、このように細い桟を卍形に走り回すなんて数寄屋造のみのナックルなみの変化球。
そしてもう一つ、建築関係者以外には気がつきにくい書院造と数寄屋造を分ける大事なポイントがある。障子の上、欄間の下あたりに着目してほしい。書院造ではこの位置に「長押」と呼ばれる幅のある板が取り付き、床の上を除いてグルリと室内を回り、運動会や闘いのときの鉢巻のような視覚的効果を持つ。人においては強さと決意を、建築においては格式を示す。臨春閣にはこれがない。
数寄屋造と障子について述べてきたが、もう一つ忘れてはならない特徴がある。「浪華の間」から「住之江の間」を撮った写真を、線の走り方に着目して見てほしい。畳の目の位置と、障子・襖の桟の位置が一致し、天井を走る線も一致することが分かるだろう。こうした室内を走る線の位置の一致は日本だけの現象で、もちろん理由は、畳の寸法を基準に室内を走る線の位置が統一されていることによる。空間が基準尺(1尺、3尺、6尺)に基づく立体幾何学で統一されているのだ。
数寄屋造に行き着いた日本の伝統的建築は、障子と襖による空間の連続性(流動性)と空間の幾何学性というモダンな性格を秘めていた。このことに20世紀初頭、まずアメリカのフランク・ロイド・ライトが気づき、自作に取り込むばかりか、当時世界のモダン化の動きの先端を走っていたドイツに向けて本を出版し、それを見たヴァルター・グロピウスやミース・ファン・デル・ローエが空間構成の原理として取り込み、20世紀のモダニズム建築を確立した。
戦後、桂離宮を訪れたワルター・グロピウスは、ル・コルビュジエに宛て、「私たちがやろうとしたことは、日本で既になされていた」と葉書を書き送っている。その葉書に期待して1年遅れて桂を訪れたコルビュジエの感想は、「線がうるさい」だった。どっちもその通り。
建築概要
臨春閣 りんしゅんかく
設計者:不詳
所在地:横浜市中区本牧三之谷58−1 三溪園
竣工: 1649年(慶安2年)
実業家の原三溪が、大阪の豪商から「八州軒」という建物を購入して、横浜の三溪園に移築したもの。これが現在の臨春閣だが、もともとは紀州徳川家の別荘「巌出御殿」として、江戸時代のはじめ、現在の和歌山県岩出市に建てられたとされる(異説あり)。かつては聚楽第の遺構ともいわれていたが、その説は否定されている。襖絵や欄間の装飾に見どころも多く、桂離宮にも比肩する、数寄屋風書院造の名作と讃えられる。国指定重要文化財。通常は内部非公開。
藤森照信/Terunobu Fujimori
1946年、長野県生まれ。東京大学大学院博士課程修了。東京大学生産技術研究所教授、工学院大学教授を経て、現在は、東京大学名誉教授、工学院大学特任教授、江戸東京博物館館長。45歳より設計を始め今に至る。近著に『磯崎新と藤森照信の茶席建築談義』(六耀社)、『近代日本の洋風建築 開化篇・栄華篇』(筑摩書房)等、建築史・建築探偵・建築設計活動関係の著書多数。近作に〈草屋根〉〈銅屋根〉(近江八幡市、たねや総合販売場・本社屋)等、史料館・美術館・住宅・茶室など建築作品多数。