November 18, 2013

第4回 開放を象徴するポストモダンの窓

市川紘司

窓の文化についての論考

日本建築における開口部は「ま」。西洋建築における開口部は「あな」。それでは中国建築における開口部は? 古典から現在まで、日本人が知っているようで知らない中国建築における窓の文化についての論考。

中国建築史の時代区分では、アヘン戦争 (1840年) から中華人民共和国建国 (1949年) までを「近代建築」、1949年から現在までを「現代建築」と呼ぶ。中国社会史の区分がそのまま反映されているので、日本建築史の時代区分とは少し異なっている。そして「現代建築」のなかでも、前回取り上げた王澍などといった直近の建築については「当代建築」と表現するのが一般だ。

中国当代建築の特徴としては、外国人建築家が大量に参入するようになったことや、国営の組織建築事務所のほかに独立自営のアトリエ建築家が台頭したことなどが挙げられるのだが、こうした状況が整備されたのは、もちろん文化大革命という「鎖国」の時代を過ぎ、経済開放に舵を切った1978年以降のことである。今回は、この「改革開放」直後の建築である、北京郊外の《香山飯店》 (1979-1983) の窓について考えてみたい。

《香山飯店》は、改革開放後の中国においてはじめて作られた外国人建築家による本格的な建築だ。設計したのは、アメリカ人建築家であるイオ・ミン・ペイ (1917-) 。このペイは、パリのルーヴル美術館前面の《ガラスのピラミッド》などを手がける国際的な建築家だが、江蘇省蘇州市の出身の華人 (外国籍の中国系住民) である。開放に向かう中国としては、アメリカ籍とはいえ「中国人」建築家として国際的に活躍するペイにまずは自国で作品を残してもらいたかったのだ。また、大学進学時の1935年にアメリカにわたって以来、40年以上ものあいだ中国を離れて建築を生業にしてきたペイにとって、この《香山飯店》は「故郷に錦を飾る」プロジェクトであった。

  • 香山飯店(北側立面)
  • 香山飯店(北側立面)

《香山飯店》が建てられたのは、北京西北部にある香山公園である。かつては皇帝の離宮であり、現在でも歴史的な建造物が多く残されていて、秋になれば紅葉を求めて観光客がごった返す景勝地である。正面から《香山飯店》を見たときの印象は、ちょっと大きめな中国南方の民居のようである。白い壁に灰色の石材による装飾が貼られ、そこに開けられた窓は菱形や梅花のかたちだ。そしてこの窓には氷細工のパターンをする木格子が嵌め込まれている。ペイが、彼のルーツである蘇州庭園の建築をモチーフにしていることは明白だろう。ホテルの敷地全体を白色の塀で取り囲み、その内側に建築物と庭園を相互応答させるように配置している点もまた、蘇州庭園の手法を参照したものだ。

  • 香山飯店(庭園側から見た様子)

《香山飯店》の窓は、透明なフィルターではなく、むしろそれ自体が装飾として「見られるもの」として機能している。

ポスト・モダンの建築とは、モダニズムのデザインが先鋭化され過ぎたすえに建築が大衆の嗜好から離れてしまったことへの反省からはじまった運動である。窓についても分かりやすい装飾やアーチなどを積極的に用いようと試みている。《香山飯店》の窓も、蘇州庭園の意匠を引用することによって、工業化された窓に比べて中国人にとって随分親しみやすいものとなっていると言えるだろう。

《香山飯店》の内部に入ってみても、ポストモダン的な印象は変わらない。エントランスから入るとすぐ目に飛び込むのは、蘇州庭園でお馴染みの「満月」のような正円の開口部が開けられた照壁だ。そしてこの照壁の横を抜ければ、ガラス屋根 (天窓) からの自然光が満ちる吹き抜け空間 (アトリウム) に身を置くことになる。これが《香山飯店》全体の中心部に当たる。

  • 香山飯店(アトリウム)
  • 香山飯店(アトリウム)

ペイはアメリカでの設計においてもアトリウムを多々設置しているのだが、《香山飯店》ではそもそもの建築規模が小さいこともあり、このガラス屋根の大きな吹き抜けから各階がダイナミックに結ばれていくような感覚はない。むしろ、アトリウムはその周囲に配され高い壁によって周囲に配置された客室空間から厳密に区切られ、木格子にかたどられた菱形窓によって限定的に接続されている。こうした構成の結果、ホールに立ったときに生まれる「建物に四周から囲まれている」という感覚は、「アトリウム」というよりも、ガラス屋根がかけられた全天候型の「四合院」の中庭にいるときのそれに近い。四合院とは中庭を四周の建物が囲うことで作られる北京伝統の住居形式である。

  • 香山飯店(2階客室廊下)

1949年に建国して以来、中国では、建築に関してほとんど外国との交流を持つことができなかった。1950年代だけは蜜月関係だったソ連からの影響で「社会主義の建築様式」とはいかなるものかと喧々諤々の議論が取り交わされていたのだが、大躍進政策の失敗から文化大革命の混乱に続く1960~70年代には、ただただ建築をデザインすることによって生じる浪費性を批判するだけの傾向を強めていた。当然、外国の建築を摂取するチャンスもなかった。そうした時代を過ぎ、開放に向かう中国に外国の最新スタイルであるポスト・モダンを紹介したのが、《香山飯店》の窓や空間構成だったのである。

ただし、《香山飯店》の竣工当時には、中国国内の評価は必ずしも高くなかったようである。「改革開放」後の中国としては、アメリカ国籍とはいえ中国にルーツを持つペイは正統な現代建築を学んだ唯一の「中国人建築家」であり、その彼に先進諸国で実現されている洗練されたモダニズムを作ってもらうことで、「4つの現代化」を謳う自国の変化を象徴したかったわけだ。もともと、ペイを設計者として招聘したときの依頼も、北京の都市部に20~30層くらいの高層ホテルを作って欲しいという内容であったという。しかしペイ自身がそうした西洋のモノマネ路線は中国に相応しくないと拒否し、最終的に、水平方向に延びる低層の郊外ホテルの提案に至ったのである。《香山飯店》の竣工パーティのさい、高官の1人が建築を評して「とても「中国」的だね」と賛否両方に取れる意見を伝えたという逸話も残っている (Philip Jodidio, Janet Adams Strong編著『I.M. Pei: Complete Works』, Rizzoli, 2008年) 。

《香山飯店》は、中国に長らく作られてこなかった新奇なデザインの建築ということで、 建築業界にとっても格好の議論のテーマとなった。当時の《建築学報》 (中国建築学会学会誌) などを見てみても様々な意見が提出されている。それらの意見の中には「浪費性」を批判するものが多い点に文化大革命直後という時代性がうかがえたり、上で述べた窓のデザインを焦点にしながら「中国らしさ」とモダニズムの融合された建築として積極的に評価する論者もあったりして興味深い。

1980年代以降、改革開放が進む中国では、古い建築の保存開発や地域性を重視する建築を目指す方向性が顕著となる。《香山飯店》は、装飾化された窓に代表されるように、歴史意匠を大胆に取り入れるポスト・モダンのデザインを中国に導入することによって、そうした流れを先導することになった。

 

市川紘司/Kouji Ichikawa
1985年東京都生まれ。東北大学大学院工学研究科博士後期課程。研究テーマは中国近現代建築の歴史、理論。建築同人誌『ねもは』編集長。