August 3, 2020

窓の短編映画 “柱都”

早稲田大学 中谷礼仁研究室

movie “A City of Columns”

柱間装置とは柱と柱の間に取り付けられる建築の部位すべてのことをさす文化財用語である。具体的には、壁、障子や襖など各種建具などがあげられる。木造軸組の建築においては建具に限らず床に敷かれた板や畳、そして天井も基本的には同様の装置的思考で構成されており、日本建築はその柱間装置の多様性によって、空間的豊かさが生み出されてきた。窓学・柱間装置の文化誌では、この「柱間装置」をキーコンセプトとし、日本建築史上の建築物を題材として調査を行っている。

上方落語の演目「宿替え」では、近世に商業都市として華開いた大阪の借家文化が粗忽者の主人公の引越し騒動とともに描かれる。冒頭、主人公は引越しの荷物を胴に括ろうとして、畳が上がって剥き出しとなった敷居までをもうっかり一緒に結わえてしまうのだが、ここで敷居が剥き出しとなっているのが近世大阪の借家事情における特異な点である。つまり当時の大阪の借家人は引越し毎に畳や建具すらも家から取り外す必要があったのだ。この習慣は、近世大阪で長屋という住宅形式が合理的な生産システムをもって確立したことに準ずる。例えば畳の寸法を基準として間取りが決定され(畳割)、どの住宅でも同じ寸法の建具を用いることが出来るまでに完成した「標準化された〈間(in-between)〉」が生み出されたのである。このようなモジュール化された柱間空間を内包した大阪市内の長屋は、その多くが戦災によって消失し、現在に残っているものも老朽化による取り壊しや再開発によって姿を消しつつある。本映像『柱都』は大阪市に残存する長屋群を追うことで、近世において「柱間装置」が住居やその街区、さらには都市全体の寸法体系の基準として用いられるようになり、そのモジュールとしての痕跡を現代都市にまでとどめている様を描いたものである。

 

Text content ─柱都─
〈豊崎長屋について〉

〈標準化された間〉
〈柱間都市〉

〈豊崎長屋について〉
撮影対象となった豊崎長屋は大阪市北区豊崎にて大正期に建立された主屋と長屋を再生した住居群である。梅田の繁華街をぬけた先に、再開発によるビル群に挟まれるように佇むこの豊崎長屋では、大正時代から貸長屋が経営されてきた。平成20(2008)年には建造物として国の登録有形文化財に指定されている。
江戸時代に耕作地であった豊崎地区では、明治時代よりメリヤスを中心とした紡績産業が栄え、その発展とともに労働者達のための借家建設が進められた。大正初期には大阪北部を開発する目的で敷設された阪神電鉄北大阪線の沿線開発が及んだために、さらなる地区の人口の過密に拍車がかかることとなった。現在の豊崎長屋を経営している母体は吉田家であるが、同家による豊崎長屋建設は、この鉄道開通工事に並行して大正10(1921)年から順次行われたものである。同家は、江戸時代には大阪三郷の近郊農村の庄屋を勤めた家系であると伝えられており、明治時代に大阪北部に多くの土地を所有していた。工事は吉田家の出入り大工が担当し、節目毎の手入れ修繕も受け持っていた。その後の大戦や高度成長期は乗り越えたものの、経営難や建物の老朽化から一時は長屋群の取り壊しが検討されていた。実際に、平成11(1999)年には敷地に隣接した道路拡張工事によって南側の表長屋が解体されている。平成18(2006)年より、大阪市立大学長屋保全研究会の監修のもと、耐震補強や再生改修が行われた。

  • 図1. 豊崎長屋
  • 図2. 豊崎長屋配置図(1. 北終長屋,2. 北長屋,3. 主屋,4. 西長屋,5. 南端長屋,6. 南長屋(南双長屋),7. 東長屋)

豊崎長屋は街の一角そのものを占めている。その敷地の中央には一本の路地が通り、西側の一戸建ての主屋を取り囲むように北、東、南に長屋5棟が配置されている。主屋は木造の総二階建て、桟瓦葺きの屋根、塗り籠め仕上げの外壁といった大正時代の大阪町屋の特徴を備えている。ここでは住み手に合わせて最小限の改修が行われながらも、いまなお伝統的な暮らしが続けられている。一方、長屋群は住み手が替わる度に増改築が繰り返されてきたため老朽化が激しく、大阪市立大学の竹原義二・小池志保子研究室の設計、桃李舎の構造設計による耐震補強と改修によって、元の躯体のうえに新たな素材があてがわれ、現代的に再生された。豊崎長屋では改修にあわせてそれぞれの長屋に新しい名前が与えられている。例えば、主屋の東側に位置する木造二階建ての「南双長屋」も改修された後新しく命名された長屋の一つである。ここでは間口二軒半の二軒長屋が、廊下を介して繋がった一軒の長屋に作り替えられている。豊崎長屋は住民の結びつきと職人的な役割を担う大学組織の介在によって、近世大阪で生まれた住宅形式の現代的なかたちを伝えている。

  • 図3. 現代に再生された長屋(豊崎長屋 南長屋(南双長屋)2階)

「大阪市立大学 都市研究プラザ・豊崎プラザ」の名称で、都市にまつわる開かれた研究やまちづくりネットワークの拠点としても活用されている。
谷直樹・竹原義二編著『いきている長屋 ―大阪市大モデルの構築』(大阪公立大学共同出版会, 2013年)参照
大阪市立大学長屋保全研究会の監修による。


標準化された間〉

近世大阪の合理的建築生産システム
 ここで大阪の長屋の歴史を顧みてみたい。近世大阪では都市部での人口増加とともに、都市型住居の大量供給をまかなえるような合理的な建築生産システムの構築が必要となった。天下の台所と呼ばれるほどに商業的に発展した近世初期の大阪では、各地から流入した商工業者や農民がそれぞれ中層の町人や下層民として定着した。彼らの多くは家屋敷を持たない借家人であったと推測されている。浅井幽清『摂津鈔 10大阪市中之上』(烟雲竹樹亭)に収録された大坂三郷の人口史料には、元禄21689)年の人口32万人のうち84%が借家住まいであったことが記されている。既に大阪では天正2(1574)年に建築部材を予め切り出し加工してから運搬し、現地で加工するといった現代のプレハブ工法に似た合理的な生産システムが完成されており、これが近世大阪における住宅の需要の高まりに答えるための素地となった。

柱間装置の規格化
 一説によると室町時代から近世にかけての住宅には「木割のある住宅」と「木割のない住宅」が存在したというここでは前者に当たるのは支配階級の邸宅、後者はそれ以外をさし、庶民の住まいも含まれる。庶民の住宅に明確なモジュールがもちこまれたのは、畳の寸法を基準とした平面計画が可能となってからである。

 安土桃山時代まで高級品であった畳は、もともと移動式の置き畳として貴族の邸宅の寝具に使用されていた。しかし十六世紀頃から原料であるイ草の栽培が盛んになったことで大量生産が可能となり、規格化された商品として流通することで、庶民の住宅においても部屋全体に畳が敷き詰められるようになった。室町時代は各部屋の寸法を決定するために柱幅の中心間の間隔を一間とする真々柱間制(しんしんはしらませいが用いられていたが、対して畳によって各部屋の寸法を決定し、その枚数で室の大きさを記述するのが畳割(たたみわり)である。畳割が住宅に用いられた初期の事例として現存しているのが慶安3(1650)年建立の奈良県橿原市今井町の今西邸であり、その柱間は「六尺三寸×三尺一寸五分の畳によってきめられている。すなわち室町時代の真々柱間制でなく、内法柱間制(引用者注:向かい合った柱の仕上げ面間の幅寸法を基準にした企画寸法。うちのりはしらませい)で、畳の敷つめを前提としている」とされている近世大阪における長屋もこの畳割で計画されていたことは、元禄31690)年に来日したドイツ人のエンゲルベルト・ケンペルの『江戸参府旅行日記』における以下の大阪町屋の特徴の記述からわかる。「畳や戸や襖は同じ大きさで、長さが一間、幅は半間、すべての部屋のみならず家そのものも、畳の大きさや状態や寸法に従って造られ、そして建てられている」。また、建具は畳より遅れて元禄年間に規格化されたといわれる。建具の規格化が遅れた原因としては柱間の中央の中柱の存在があげられている。

  • 図4. 標準化された柱間[豊崎長屋 南長屋(南双長屋)2階(上)・同1階(下)]
  • 図5. 豊崎長屋 北長屋・北終長屋の建設当初の1階復元平面図にみる標準化された長屋


近世大阪独自の住文化
こうした建具の規格化によって、近世大阪では独自の住文化が華開くこととなった。正保2(1645)年の『毛吹草(けふきぐさ)』には、大阪今橋の「今橋戸障子」が諸国名産品としてあげられている。また、江戸時代中期の浮世草子には、京都の町屋建設において「戸・障子は大工に作らせるよりも大坂の阿波座の淡路町の既製品を買ったほうが安くて立派である」といった意味の内容が見受けられる。これは大阪で大量生産された既製品の建具が、伝統的な京大工の技術にも匹敵する品質かつ安価で重宝されていたことを示している。また江戸時代後期には、余った建具を引き取って中古の建具を安価で販売する「万(萬) 建道具売買所」という商売も発達していた

  • 図6. 嘉永7年(1854)刊『浪花職人歌合』にみる大阪職人[表具師(左)・左官大工(右)]

このように既製品として建具が大量生産されるようになったことで、近世大阪では本文冒頭で述べた落語にも描かれる独自の借家文化が成立する。田宮仲宣『所以者何』(享和2年)には京都と大阪の借家を比較して 「京都ハ借家建具大体家付、天窓の張替、井戸釣瓶等家主より、大坂ハ建卸家の儘にて、内造作ハ家借り主より自分仕候(京都の借家では建具がもとから家に付属しており、天窓の張替や井戸の釣瓶等も家主の負担であったが、大阪の借家は建てられた儘の姿で内造作が付属しておらず、借家人が負担した)」と記述されている。このように借家人が内部の畳や建具を負担する賃貸システムは「裸貸」とよばれ、借家住まいの町人が多かった近世大阪で広く定着した。
また、柱間が標準化された長屋では、建具を取り外して空間を用途に応じて多様に変更出来た。これは様々な職種が混在していた大阪で、それぞれの住まい方に合わせた柔軟な模様替えを可能にする点で重要であった。豊崎長屋の全ての建物もこの近世から続く長屋の寸法体系によって作られ、建具は一律に高さ五尺七寸である。主屋では現在も夏には簾、冬には雪見障子に建具を入れ替える生活が続けられている。

主要な参考文献:
大阪市都市住宅史編集委員会編『まちに住まう―大阪都市住宅史』(平凡社,1989年)

谷直樹『町に住まう知恵-上方三都のライフスタイル-』(平凡社,2005年)参照
帯屋伊兵衛(高市志友)『紀伊國名所圖會 初編 一之巻上』(文化8年)では天正2(1574)年の紀伊雑賀庄本願寺御坊の主殿が「すべて大阪で切組み、船にて運送せしとかや」と記されている。参照:大阪市都市住宅史編集委員会編『まちに住まう―大阪都市住宅史』(平凡社,1989年)
伊藤ていじ『中世住居史』(東京大学出版会,1958年)参照
参照は註(ⅳ)に同じ
参照は註(ⅳ)に同じ
唯楽軒『立身大福帳』(元禄16年)参照:大阪市都市住宅史編集委員会編『まちに住まう―大阪都市住宅史』(平凡社,1989年)
砭泉老人『繁花風土記』(文化11年)参照:大阪市都市住宅史編集委員会編『まちに住まう―大阪都市住宅史』(平凡社,1989年)

 

柱間都市〉

近世大阪の都市計画
 大阪の伝統的なまちづくりについてみてみよう。近世大阪では、その都市空間もあらかじめ計画された一律の寸法で整然と整えられた。各街区には一般に「通り」と呼ばれる東西の路と、「筋」と呼ばれる南北の路が通された。近世大阪の代表的な町割が示されているのが天正131585)年の大阪船場の開発である。ここでは40間四方(一間=約1.8m)の格子状の町割によって構成され、主要な通りは幅4間、脇道となる筋は幅3間と設定されている。そして正方形の街区の中央には東西方向に太閤下水が貫通し、20間の短冊形の街区が宅地として使用されていた。整備された各街区は、道路を挟んだ両側の町並みによって一つの町と定められ、そこには地縁的なつながりによる住民組織が存在していた。それぞれの町の清掃や屎尿処理、消防、道や橋の維持管理はその町の人々によって行われ、町毎に独自の決まりが定められた。町はその通りの角毎に町名が書かれた木札のついた木戸を設けてあり、夜には閉ざされ、町年寄りの許可無く通行することは禁じられた。 近世の大阪では街区スケールから室内に至るまで一律な寸法体系をもって造られ、細い路によって結びつけられた町人らによって高度な自治が行われていたのである。

  • 図7. 近世大阪の典型的な町割図

一方で、貴族の寝殿造りから発展した京都の各街区は、平安京時代に40丈四方(=約60間四方)で計画されたものであった。しかし、条坊制による貴族住宅は中世には両側町(道路を挟んで両側が町の単位となった区画。貴族住宅が廃れ商家が立ち並ぶ近世初頭の京都の町に現れ、現在まで続いている)を基本とした町人地に変容していったため、正方形街区の条坊地割にはその後路地が通された。これは貴族住宅のために計画され、町人地に適していたとはいえない、スケールの大きな正方形街区を、より宅地として有効的に活用する為であった。対して、大阪の40間四方の街区では奥行き20間の短冊形の宅地をとることで、奥行きが適当に設定でき、通りに面して長屋が無駄なく配置出来た。このことからも、近世の大阪は京都と比較して、より最初から都市に住まう点において有効に土地を利用することを目指していたのだろう。

  • 図8. 平安期京都の条坊制街区と近世京都の街区の比較図


現代大阪の都市にみられる痕跡
明治維新以降の大阪では二階建て以上の長屋が許されるようになり、明治後期の経済発展期には本二階建ての町屋が工業化の進行と共に急激に増加した。これより大阪では無秩序な市街地が広がっていった。さらに大正31914) 年と昭和41929)年に行われた、市電・都市計画道路の敷設のために道路敷地を占有する軒や建物を取り除いた「軒切り」と呼ばれる道路拡張工事は、伝統的な市街地の姿を大きく変えた。 対象街区の家屋は削減、後退さらには立ち退きを余儀なくされ、都市から住戸まで一律の寸法体系によって秩序を保ってきた街区の姿は、近代以降そのうえに異なる新たなモジュールがぶつけられたことで大きく変化する。しかし、豊崎の長屋群で既存の寸法体系の上には新たな素材をあてがわれていたように、今なおその秩序は現代の大阪における住まいの基部に残されている。大阪では近世的な秩序の上の新たな作用を柔軟に受け入れながら、現代の都市が更新されているのである。

  • 図9. 近代大阪の都市街区俯瞰

大阪市都市住宅史編集委員会編『まちに住まう―大阪都市住宅史』(平凡社,1989年)参照

参考文献:
谷直樹・竹原義二編著『いきている長屋 大阪市大モデルの構築』(大阪公立大学共同出版会,2013年)
大阪市立住まいのミュージアム編『住まいのかたち 暮らしのならい』(平凡社,2001年)
大阪市都市住宅史編集委員会編『まちに住まう―大阪都市住宅史』(平凡社,1989年)
伊藤ていじ『中世住居史』(東京大学出版会,1958年)
谷直樹『町に住まう知恵-上方三都のライフスタイル-』(平凡社,2005年)
中谷礼仁、大阪市立大学工学部建築学科建築デザイン研究室「近代大阪における伝統的長屋群の変容過程の研究」「大阪市北区菅原町旧長屋群実測調査研究」(2000年)

図版:
図1. 中谷研究室撮影
図2. 谷直樹・竹原義二編著『生きている長屋 大阪市大モデルの構築』(大阪公立大学共同出版会,2013年 )pp.203−204をもとに中谷研究室作成
図3. 中谷研究室撮影
図4. 中谷研究室撮影
図5. 谷直樹・竹原義二編著『生きている長屋 大阪市大モデルの構築』(大阪公立大学共同出版会,2013年)p.209をもとに中谷研究室が作成
図6. 大阪市立住まいのミュージアム編『住まいのかたち 暮らしのならい』(平凡社, 2001年)p.27
図7. 宮本雅明「初期大坂の都市空間と都市デザイン」(『まちにすまう 大阪都市住宅史』平凡社,1989)p.124
図8. 宮本雅明「初期大坂の都市空間と都市デザイン」(『まちにすまう 大阪都市住宅史』平凡社,1989)p.124の図、島村昇・鈴鹿幸雄『京の町屋』(鹿島出版会,1971年)p.12の図をもとに中谷研究室が加筆
図9. 中谷研究室撮影

 

中谷礼仁/Norihito Nakatani
建築史家。早稲田大学教授。本研究代表者。主な著書『動く大地、住まいのかたち プレート境界を旅する』(岩波書店,2017)、『今和次郎「日本の民家」再訪』瀝青会名義 (平凡社,2012) 、『セヴェラルネス+ 事物連鎖と都市・建築・人間』 (鹿島出版会,2011) 、『国学・明治・建築家』 (一季出版,1993)