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藤本壮介 窓の試行

藤本壮介 (建築家)

14 Jan 2014

Keywords
Architecture
Interviews

数々の世界的なプロジェクトを手掛け、建築の新しい切り口を提起し続ける建築家 藤本壮介へのインタビュー。自作を通した窓の試行について伺った。

印象的な窓体験、コルビュジェの“窓”と段ボールの孔

大学の4年生の時に、コルビュジェの母の家のプランを50分の1でトレースして、いろいろ寸法を測ったりしながら、自分なりに図面を描いてみたことがあったんです。あの家は横長の窓が連なって、各部屋をずっと横断していくようなつくりになっていて、一つの窓が外の全部の風景と中のいろいろな生活をつなぎ合わせてるというのが、いいなと思った記憶があります。

また、ヨーロッパなんかに行くと、お城の分厚い壁に空間が掘り込まれて銃撃するためのスペースになっていたりするのですが、その端に小さな窓があいていて、光がくぼみのところに満ちているというようなものが好きでしたね。窓というものがただの物としての窓ではなく、空間を伴ってるというのがいいなという印象がありました。

あとは昔の記憶ですが、子どもの頃段ボール箱に入ってるのが好きでした。そこで孔を開けるんですよね。そうすると外が見えますよね。あの自分が守られたところにいながら外の様子を見て楽しむっていうのが自分の最初の窓体験だったのかもしれないと思います。一方で、田舎だったので雑木林みたいなところで笹や小さい木なんかを、かき分けながら遊んでいたんです。そうすると、自分の周囲はそういうものたちでそれなりに守られていてるんだけれども、いろんなものが見えるし、自分が進んでく道も自分で切り開ける。段ボールの中に入ってるという状況と、森の中で遊んでるという状況は対極なんだけど、同じような、ある種の根源的快感、快適さみたいなものだったような気もするんですよね。

“窓”の重なりがつくる空間的なひろがり

自分の作品でいうと、一番窓が特徴的なのはHouse Nです。窓は内部と外部を切り分けたりつなげたりする大事な役目があり、そこが建築を定義する最前線なわけですよね。その一番クリティカルな部分にチャレンジしたいなと思ったんです。

あの家は3つの箱がレイヤー状になっていて、窓の向こうにまた窓があって、さらにその向こうに窓があるようなつくりになっています。とにかく窓を徹底的につくっていて、物体としての窓があるんだけれども、それよりは窓がモノであることを少し超えて、その間の空間の重なり合いによって生まれてくる空気感のようなものを考えています。建築全体が窓のようにもなっているし、窓というものが消えてしまうくらい、それが全部空間のようにもなっている。できてみると、窓の向こうにまたフレームがあるので、光の当たり方によっては段々間にある空間の奥行きが分からなくなってくるんですね。

壁のテクスチャーがよく見える場合は距離感がはっきり分かるし、もやっと光ってしまう時は、この窓から向こうの窓までの距離感がよく分からなくなってくる。それゆえ建築全体の広がり感が、時間によって変化していくような感じがあります。空間に入った時に実際の大きさの感覚をフワーッと越えて、建築がひろがってっているような感じがあって、それにはとても驚きました。窓でできている空間全体が躍動するっていうんでしょうか、そのような感じが、自分が考えていた以上に面白かったなと思います。

House Nの窓は、真ん中の箱にだけガラスが入っています。箱のスケールに対して壁厚が同じだと気持ちが悪いので、壁厚は箱が小さくなるに従って薄くしています。その中で、真ん中の箱だけ窓のガラスのディテールが目立ってしまうのはよくないということで、かなり無理をして、ガラスがただスポッと嵌っているような、フレームがない状態をつくりました。一方で真ん中の箱には開くところが必要なので、太い木枠がバコッと開いて、網戸もちゃんと内蔵されてるといったものを我々で図面を引いて制作しました。だから、その部分は窓が入ってるというよりは、額縁みたいな木の枠がボーンとはまってるみたいになっています。

  • 「House N, 2008」Photo: Iwan Baan

“窓”が浮遊する家

House NAは、構造がすごく細くて5㎝程の柱なんですが、サッシの奥行きは木サッシだと10cm程で、窓を入れようとすると構造フレームよりも窓の存在のほうが強くなってくるんですね。普通の意味では納まっていない状態なんですが、その納まりが逆に面白いなと思って。窓枠が縦横無尽に配置されていて、浮遊してる窓枠によって緩やかに包まれてるような場所が家になっている。ある意味では窓を象徴的に扱っていて、ある意味ではぞんざいに扱っているとも言えます。通常空間の輪郭と窓の配置はきれいに揃うのですが、それがずれながら動きを持って場所をつくり出すというのが面白いなと思ってやっていました。

またそれぞれの床が床といえるほど大きくないので、床と窓がくっついてるところがまさに一つの窓辺になっているし、もう一つ別の床があると、窓辺のアルコーブみたいになる。個別に見ていった時の場所の質と、全体で窓に囲まれてるような感じの質が微妙に変化していくというようなことを考えていました。

このHouse NAでは、もう少しモノとしての窓があったほうが家の生活のスケールとつながってくる感じがあると思っていました。窓の大きさって、割と生活の大きさですよね。いわゆる生活の大きさっていうものの尺度として窓が入ってくると、細切れになった床がより引き立ってコントラストが出てくる。なんで窓がこんなに大きく見えているのかという、窓と床が不思議な関係になる。それであえて木サッシの、窓らしい窓をということで、既製品を使っています。既製品の木サッシって窓らしい細かな凹凸がある。抽象彫刻みたいな、きれいなフレームではなく、やっぱり「これは窓だよ」というものがドーンと出ていたほうが、この建物の場合はいいだろうということで。それがただ挟まってるような納まりにして、柱との納まり等が大変な部分はうまく処理をしています。House N、House NAからもわかるように、僕は状況によって窓に対するスタンスが全然変わっていますね。ある適正なバランスとか、逆に意図的なアンバランスを含めて、そこで起こってくる建築的な体験をどうつくっていくかということと関わってくると思っています。

  • 「House NA, 2011」Photo: Iwan Baan

 

“窓”は関係を限定するがゆえに「予感」をつくりだす

武蔵野美術大学図書館は、本棚が平面でみると渦巻き状になっていて、いくつものレイヤーの場所に、窓というよりは大きな孔があいています。本棚に囲まれている場所だけれどもある抜けがあって、「どうなってるか分かんないけど、なんかあっちの方はすごい広がってるよね」というような、図書館の中の世界の広がりがある。全貌が分からないことにワクワクして「向こうもちょっと行ってみようか」みたいな、そういう場所になるといいなと思ったんです。

というのは、未知の世界をさまよいながら、ある1冊にたどり着くっていうような感覚は面白いなと思っていて、言ってみれば機能性、効率性と対極の渦巻き状という少し非効率なつくりにしてます。その上で、大きな孔が開いているというのはとても重要で、どこまで続いているんだろうという、見えないがゆえに建築が持ってる大きさを超えていく予感がある気がします。そういうものって建築の体験の大事な部分なんじゃないかと思っています。

モノでできている建築の体験がモノを越えていく、壁に開けられた孔が、そういう予感をつくりだしている。そういう意味では窓というものが、ある種の関係を限定するがゆえに、より広がりを持った関係を生み出すというようなところはあると思います。ガラスで全部バーンて見えてる場合と、見えてないものがある場合っていうものの違いは、そういうところにあるような気がしますね。

建築の魅力を再構築し続ける

僕らがやってる建物は、アイデアによってあっちにいったりこっちにいったりしてるので、その都度、「あれ、窓ってそういえばなんだったっけ?」と考えています。もともと建築をつくる時も、「そういえば建築ってなんだったっけ?」っていうところから考えたいなって思ってるんですよね。朝起きたときにとりあえず全部忘れていて、また今日も1から考えなきゃいけないのかっていうのが楽しいみたいな(笑)。プロジェクトを進めていくと一番大事なところがあぶり出されてきて、その魅力を再構築するような作業になってくる。そうすると、「そもそもこういう考え方でいったら建築って、今までの建築じゃないよね」とか、「窓も、窓とか言ってちゃ駄目だよね」とかにならざるを得ない場合も多くて。その都度考えるってことが、好きなんでしょうね。

多様な“窓”の相対に自作を位置づけること

窓は、窓の内側と外側の両面を持ってて、中にいる時は窓から外を見るんだけど、外にいる時は中とつながるという両面性を帯びているところが建築家としては面白い。しかし、同時に窓がある意味、歴史的に紛れもなく「窓」であるっていうようなところもあって。様々な窓があるにしても、誰がみても窓は窓っていうのものがある。

風土が違えば窓の景色も大分違うので、昔の窓にどんなふうに人間が関わっていたのかを想像してみると、現代でもそれが違うかたちで生かせるかもしれないし、違う文化のものでも、面白い融合があるかもしれない。そういう、歴史的、文化的、風土的なバックグラウンドを、ものすごくたくさん持っているというのは、窓の面白いところですよね。またある程度のバックグラウンドを持っているがゆえにリアクションできることや、生まれる違和感みたいなものもあるかもしれないと感じています。

例えば、窓が普通にあったらいいんだけど窓が三つぐらい重なってると「なんか、おかしいよね」というような。でも、それが何か意味がある体験を生み出すんだったら逆に嬉しいし、面白いわけですよね。窓っていうものは、多様になった窓の総体がやっぱりすごく面白いなと思っています。自分が作る窓も「これが一番かっこいいんだ」という意識ではなくて、こういう建築でこういうことを考えていたら、こんな窓のつくり方になった、今までの歴史の中で似たものはあったかもしれないけど、また変種が一個生まれたよっていう位の方が好きなんです。

そうすると、そういうものが積み重なって未来の人が「こういう状況でこういうことを考えたバカな人がいたんだ。でも、意外とそれをこっちに持ってきたら面白いよね」みたいな感じで、その総体が徐々に徐々に豊かに生きていくといいなと思います。

空間の理想状態と“窓”

この間、ロンドンであったサーペンタインのパビリオンは、ほぼ半外部空間なので、窓も屋根もないようなものなのですが、言ってみれば、僕の外部と内部の接し方の、ある種の夢、理想の状態のようなところです。つまり壁らしきものがあるのだけど、細かいフレームでできてるから向こうがちょっと見えていて、それが段々疎になってくると、周りの緑がすごく見えるようになってきて、それが窓とも言えるし、けれどそこを通過することもできる。またそれが密になってくると、壁みたいになってくる。空気の厚みの違いみたいな感覚で、周りとの接点ができる。外と中の関係の仕方みたいなものは、最初に話した雑木林の中の体験に近いですね。

 

  • 「Serpentine Gallery Pavilion, 2013」photo: Jim Stephenson

でも全部それに突進していくかというとそうでもなくて、窓らしい窓もいいと思うんです。僕は、既製品のサッシを使う時はまさに既製品という感じの、かっこいいというよりかは窓らしい窓を選びます。

最近いろんなメーカーが頑張って、性能を満たしながら見付が小さくつくってくれていますよね。それはそれで使いどころはあると思うのですが、いわゆるちょっと無骨な昔ながらのアルミサッシも残して欲しいんですよね(笑)。北海道の医療施設なんかは、全部普通のビル用のサッシの引き違いを、それぞれ発注したんです。なるべく特注に見えないように、あたかもそういうサッシをいろいろなところから持ってきてくっつけたみたいに見せたかった。

そういう意味では、先程お話ししたようにいろいろな歴史的、文化的な価値観が窓をつくっているので、そういうものが一つのトレンドに終息しちゃうのは、もったいないなと思っています。今後中と外の境界みたいなものがどうなっていくのかというと、僕の中ではサーペンタインのようなモノの密度の違いが、柔軟に自分の周りを取り巻いてるみたいな状況は、いいなという感じがします。

ただ、それはHouse Nでつくった時も同じで、いっぱい窓をつくることで窓がなくなっていくような、ひたすらいろんな奥行きで自分が囲まれてる場所がつくられてる。House Nはコンクリートの壁でできていて、言ってみると普通の箱です。そこに普通の窓が開いてるんだけれども、空間の体験は、とても柔らかくて、伸び縮みして、素材や形を軽々と越えていくような不思議な感じがあったんですよね。建築に窓の形が残っていようが、壁が四角かろうが、体験ていうのはもっともっと自由なんだっていうのが、いい驚きでした。そういう意味で10年100年後の窓がどうなってるかっていうのは、10年100年後の建築がどうなってるかっていうことに限りなく近いと思っています。

 

 

藤本壮介/Sosuke Fujimoto 
1971年北海道生まれ。東京大学工学部建築学科卒業。2000年藤本壮介建築設計事務所設立。2012年、第13回ベネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館の展示で金獅子賞受賞。2013年ロンドンのサーペンタイン・ギャラリー・サマー・パビリオンを設計。同年、マーカス建築賞受賞。

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